第6話 ナイフ
ぶつかった後に気付いても後の祭りだ。スマートフォンは、見事な放物線を描いたかと思えば、そのまま地面を転がり、側溝の網の隙間から下水の中へと消えて行った。
チャポン! 見事着水だ。誰が見ても自業自得としか言いようが無い。しかし昨今の時代、地球は自分が中心に回っていると思っている人間も意外と多い。この女性もその例外では無かったようだ。
「ちょっ、ちょっとあんた! どこ見て歩いてるのよ。あ~あ、買ったばかりだったのに......この落とし前どうつけてくれるって言うの!」
女性は物凄い剣幕で沙世に食ってかかった。思った通りの反応と言えばそれまでの事だが......
目が吊り上ってキツネのような顔になり、厚化粧が醜く歪んだ。見た目以上に年齢を重ねているのか? 顔が歪むと、それまで化粧の裏側に隠れていたシワが無数に浮かび上がってくる。
「......すみません」
沙世は無表情ながらも素直に謝った。感情がこもっていない謝罪は、時として相手を更に怒らせる事もある。
「何その謝り方は? 御免で済んだら警察いらないわよ!」
女性は拳を振り上げ、今にも沙世に殴り掛からんばかりの勢いだ。
「すみません」
虚ろな目で再度謝罪した。しかし怯えた素振りは無い。訓練を受けてきた沙世にとって、この女など所詮ケンカの相手では無い。しかも人通りの無い裏通りとあらば、目撃者も出ては来ないだろう。
だが自分は今警察に追われている身......もめごとは困る。
「土下座して謝んな!」
仕方ない......沙世は地べたに膝を付こうとした。その時、一瞬ではあるが、女の目が沙世の後方にチラッと向けられた。沙世はその視線の変化を見逃さなかった。
後方に居る者へのアイコンタクトだ!
後ろに誰かいる!
そう思った瞬間、後方に殺気が漲った。沙世は咄嗟に殺気の漲る後方へと顔を向けた。次の瞬間外灯の光が何かに反射した。目が眩む。
ナイフだ!
小柄な男が右手にナイフを持ち、そのナイフが今にも自分の首筋に振り下ろされる様子が、ストロボ撮影のごとく瞳に映し出された。沙世は咄嗟に体をかわし、間一髪左手でナイフを持つ男の右手を振り払った。
二人の動きが一瞬止まる。そして一メートル程の距離を保ち対峙した。
沙世に襲い掛かった男......比較的小柄ではあるが、上下黒い服で覆われているその内側の筋肉の躍動は、服の上からでも凡その見当がつく。
この男は自分と女が口論している時、自らの気配を完全に消して歩み寄って来た。もしあの女が男に視線を向けなかったら、三人目の死体と言う見出しで、自分が明日の新聞を賑わせていた事だろう。この男は明らかに何らかの訓練を受けて来た者に違いない。
良く見ると、男は目と鼻の所だけが丸く開いた毛糸の覆面を被っている。銀行強盗がよく愛用する代物だ。
一方、因縁をつけてきた女は一目散に路地裏へと走り去って行った。きっとグルだったのだろう。
更に今度は、逆方向からコツ、コツ、コツ......足音が聞こえて来る。




