第4話 沙世
「この野郎!」
ナイフを持つ沙世の手は、ワナワナと震えてた。
「こんな老骨の小さな命、取りたきゃ取ればいいでしょう。ただ、ここは東京のど真ん中です。誰かに店に入る所を見られてはいませんか? 感情のままここで私を殺す事が、あなたの未来を切り開く事に繋がるとは思えませんよ。大きなお世話かも知れませんが......」
バーテンダーは切迫したこの状況下においても表情一つ変えない。それはまるでわんぱくな子供を諭すような言い方だった。一瞬の沈黙が辺りを包み込む。
沙世は考えた......この男を殺す事などは他愛の無い事。しかし自分は警察に追われている身。ここへ辿り着くまでには、多くの人とすれ違っている。店に入る所を見られているやも知れない。
バーテンダーの言う通り、ここで殺人を犯す事が自分にとって『未来を切り開く事』になるとは到底思えなかった。
この男はナイフを突きつけられ、自分の命が危ぶまれるような状況においても、決して味方とは言えない自分に的確なアドバイスを行っている。
この男とは戦えない......そう思わざるを得なかった。
「馬鹿らしい」
沙世は苦し紛れにそう吐き捨てると、すぐ様ナイフを収めた。そして軽くカウンターを飛び越えると、視線をバーテンダーに向けた。
「もう帰るよ。邪魔したな」
それまでには無い静かな物言いだ。
「進むべき道に迷ったらまたお越しください。あなたならいつでも大歓迎ですよ」
バーテンダーは何事も無かったかのように優しく声を掛ける。
「はい御代。お釣りは結構!」
沙世は財布から千円札を取り出し、カウンターの上に置いた。
「今日は私のおごりです。いばらの道を進むには何かと掛かるものです。そんな事よりお嬢さん......くれぐれも命を大切に。そしてまた会える日を楽しみにしていますよ。素晴らしい結婚をしてその時はこのオレンジブロッサムを嗜んで今日の事を思い出して下さい。約束ですよ」
バーテンダーは乱れたシャツを整えながら、今にも立ち去ろうとする沙世に声を掛けた。
「結婚? 馬鹿らしい。今日の所はカクテルに免じてあんたのその命預けといてやる。ただ次会った時は必ず殺す。私は極神教の忠実なる僕、沙世だ。覚えておけ」
バーテンダーに背を向けながらそう言い放つと、扉を乱暴に開け外へと飛び出して行った。
これまで正しいと信じてきた道......間違いだったと認める事は、自分の半生を否定する事に繋がる。それは勇気がいる事でそう簡単に出来る事では無い。それが分かっているだけに、バーテンダーは沙世が不憫でならなかった。
同じ年頃の女性達は皆、今頃楽しい恋でもしているというのに......
可哀そうな娘だ......
古めかしいジュークボックスは、未だロネッツの『BE MY BABY』を店内に流し続けていた。
Be my be my baby......
ハッピーなラブソングもこの時ばかりは狭いBAR SHARKの店内を物寂しげな雰囲気に包んでいた。
追手に襲われて命を落すような事にならなければいいのだが......決して味方では無い突然の訪問者。でもなぜか応援したくなる。




