第2話 豪雨
「解ったよ父ちゃん」
エマは子供の時、父と交わしたこの会話を時々夢でみる。
「母を守れなかった」と言った時の父の涙が強烈に印象に残っているからであろうか。
厳しく優しい父であり、またその父こそが、誰よりも相手の気持ちを思いやる人であった。
エマが幼少より父から教わっていた合気道とは、『精神的な境地が技に現れる』とされており、他武道に比べ、精神性が重視される。
合理的な体の運用により、体格体力に関係なく『小よく大を制す』事が出来るとされており、相手を傷つける事が目的ではない。
基本、攻撃を仕掛ける事はせず、あくまでも攻撃してきた相手に対し、その力を利用して小さな力で投げを行うなど、護身術として広まっている。よって基本試合は行わない。
エマが幼少より続けている合気道とは、そういった種類の武道であった。
そんな合気道の達人であったエマの父国雄。
今はもういない。
「父ちゃん......母ちゃん......」
エマは船室の中でうわ言を言っていた。
その時だ。
突然強烈な揺れが第一浜口丸を襲う。
エマの身体が宙に浮いたかと思えば、次の瞬間には船室のベッドに背中を叩きつけらていれた。
「なっ、何? 背中痛い?」
突然夢から覚めたエマには、今何が起こっているのかを全く理解出来ない。ハトが豆鉄砲を食らったような表情だ。
とにかく背中を強く打ちつけて、背骨がジンジンと痛む。
エマは船室の天井を見て、ようやく状況を理解した。
「そうだ。今は船の中で、極神島に向かってるんだった!」
エマはからくり人形のようにベッドから跳ね起き、コックピットに向かおうとするも、船は左右に大きく揺れ、更に高層ビルから落下したような、強力なGがエマを襲う。
シートベルトをしないでジェットコースターに乗れば、同じような体験が出来るのかも知れない。
「ちょっ、ちょっと金吉さん。どうなってるの!」
エマは柱にしがみ付きながら、金吉のいるコックピットに向かって大声で叫んだ。
揺れる度に起こる船の軋み音。
容赦無く甲板に叩きつける大波の音。
それら音に打ち消され、エマの声は全く金吉には届かない。
そして何気に目をやった窓外の景色に、エマは愕然とした。
何と船の背丈より遥かに高い波が、次から次へと第一浜口丸に襲い掛かって来ているではないか。
波が右に現れれば船は左に大きく傾き、左に現れれば右へ傾く。
そして波が前に立ちはだかれば、船首は大きく立ち上がり、その度に体は宙に浮いた。
船内はまるで無重力状態。
船がバランスを保って海に浮いている事自体が奇跡に思える。
波の間から見え隠れする空は、夜でもそれとはっきり分かる積乱雲で埋め尽くされ、そこから振り落とされる大きな雨粒は、左右に乱れ狂う強風に乗り、まるで針のようになって第一浜口丸に突き刺さる。
大量の海水を従えた大波は、船の分厚い窓ガラスを突き破り、ガラスの破片がエマの頭上に降りかかって来た。エマは間一髪柱の陰に隠れ、難を逃れた。
「これは大変な事になっている!」
航海に関しては無知であっても、今や三途の川を渡りかけている事位は容易に理解出来る。
エマは歩くのを諦め、床を這いつくばった。
ピンボールの玉のようにあちこち体をぶつけながらも、何とかコックピットに辿り着いた時には、エマの身体はアザだらけになっていた。
「金吉さん! 船は大丈夫なの?」
「大丈夫なもんか! 何度も極神島来てるけど、これほどまでに荒れた海を航海するのは初めてだ。
どうなっちまうのか俺にも解らん。島まであともうちょっとなんだけどな。
正面見てみろ。波が下がった時、遠くに光が見えるだろ。ほら。あそこだよ。あそこ」
金吉は正面を指差す。
遠くに明かりがぼんやりと浮かび上がっているのが確認出来る。
「極神島!」
「そうだ。極神島だ!」
距離にしておよそ十キロメートル。荒波の中を第一浜口丸は確実に極神島へと近づいている。
小笠原の海を知り尽くしている金吉だからこそ成し得る技なのかも知れない。
エマは金吉の舵取りを信じ、ただひたすら柱にしがみ付いていたが、徐々に手が痺れてくる。
無重力に近いような状況の中で、この手の力を緩めたら最後、どこと無く吹き飛ばされてしまうであろう。 正に『海の藻屑に消える』事になるのは間違いない。
やがて前方の波が同時に落ち切った。
そして一瞬ではあるが、正面を遮るものが何も無くなった。
次の瞬間、天空から閃光が走る。雷だ!
辺りが一瞬昼のような明るさに包まれ、物凄い爆音と共に、目の前に立ちはだかる極神島がはっきりと肉眼で見て取れた。
それはストロボ撮影のようであった。
この暗黒の嵐の夜に、雷の閃光で突然浮かび上がった極神島は、この世の物とは思えない悪魔的な迫力がある。
子供の頃、ディズニーアニメでよく見たような魔女の住む城などを想像してもらえれば、それとほぼ相違は無いであろう。
「私はこれからこの妖気に満ちた島に行くのか」
エマは計り知れない恐怖を感じていた。
島に着く前から島に負けているようでは、この先島で何が出来る!
自分は柊国雄の娘だ!
何を恐れるものか!
エマは恐怖心を武者震いに替え、自身を奮い立たせた。
「恐れるものなど何も無し!」
自分にそう言い聞かせるのであった。
「ダメだ......」
「えっ?」
「ダメなんだよ!」
「どうして?」
「よく島を見てみろ」
エマは目の前に広がる極神島を熟視した。




