第1話 幼き頃
小笠原丸で出会った親切な老人は、エマの事を『お嬢ちゃん』と呼んだ。
そして浜口釣具店の主人もまたエマのことを『お嬢ちゃん』と呼んだ。
それはエマにとって実に望んでいた事だ。
極神島にはたった一軒だけの料亭が存在し、その料亭の女将が今回妊娠した為、大事をとって暫く店には出ない事を決めた。
人口が少ない島内では、店を手伝う人材が見付からず、広く人材募集を行っていた。それは短期学生アルバイトという条件付き。
そう......
エマは今回大学生という名目で、この料亭に雇われる事になっていたのだ。
極神島に潜伏するだけでは無く、誰からも信頼されなければ有力な情報を入手する事は出来ない。
また目的が目的だけに、ほんの少しの疑いすら持たれる訳にはいかなかった。
タンクトップにデニムのショートパンツ......
その装いが計算尽くされたものである事は言うまでも無い。
エマ達は独自の情報ルートと、強力な人脈の繋がりを持っている。
誰よりも早く必要な情報を入手し、誰よりも早く必要な手だけを打つ為のツールを持っていた。
それはエマの父である国雄が生前に築き上げたものだった。
エマの父。その名は柊国雄。
柊探偵事務所の創設者であり、合気道の達人でもあった。エマが二十一歳の時、心半ばにして事故で他界。
父亡き後、エマはその意思を継ぎ、EMA探偵事務所を立ち上げ今に至る。
ポールがたった二日間で遠く離れたこの極神島で潜伏先を見付ける事が出来たのは、ポールの並外れた情報収集能力と、父国雄が残したこれら『遺産』によるものが大きい。
『BAR SHARK』でエマが美緒に、「私達は、普通の探偵では到底引き受けられないような事まで行う実行力と知識を有している」と言ったその『実行力』と『知識』とは、まさにこの父から受け継がれた『遺産』に他ならない。
『学生アルバイト』これに成り切る事が、今回のエマの最初のミッションであった。
ここまでは全て計算通りに事が進んでいると言って過言では無いだろう。
エマが浜口釣具店の船『第一浜口丸』に乗船してから特に変わった事は何も起きていなかった。
すでに父島を出発してから七時間が経過。平常時であれば、もう極神島に到着してもいい時間であったが、荒れた海では中々そうもいかない。かと言って、航行不能になるような最悪の事態にも至ってはいなかった。
小笠原丸の揺れはエマにとって不快そのものだったが、この第一浜口丸の揺れは、なぜか心地良い。揺れの波長が合うのだろうか。
エマはまるで揺りかごに乗った赤ん坊のようだった。
睡魔がエマを襲う......
「父ちゃん......」
エマは子供の頃の夢を見ている。
「父ちゃん。花ちゃんも奈美ちゃんもみんな遊んでるのに、何でエマだけは毎日毎日合気道ばかりやってなきゃいけないの!」
エマは小さな額にシワを寄せながら、父国雄に訴えた。国雄はエマの頭を優しく撫でる。
「エマ......合気道は嫌いか? 楽しくないかい?」
国雄は決して大柄な体格では無いが、引き締まった筋肉が動く度に躍動しているのが、道着の上からでも分かる。
無駄な贅肉などは無い。肌は真っ黒に焼けており、実に野性的であった。
強面な顔に優しい笑顔......
このギャップが国雄の魅力を更に引き立てている。
「嫌いじゃないよ。でも......」
エマは何か言いたそうだったが、それ以上言う事をためらった。
エマは子供ながらに、父の自分に対する愛情を十分感じており、合気道を続ける事が、その愛情に応える事だと理解していた。
父との今の良い関係を崩したくない......
七歳の子供がすでにそのような事を考えている。
もしこれが同年代の普通の子供であったなら、「もう合気道なんていや! みんなと遊ぶ!」とでも言ってその場を立ち去っていただろう。
ただエマはその頃からすでに、相手を傷つけたくないという気持ちが、本能として存在していた。
「エマ......お前が合気道をやめたいのなら、いつでもやめていいんだよ。ただこの合気道という武道は、人を傷つける為に習うんじゃないんだ。
お前がお前の大事な人達を守るために習う武道なんだよ。お父さんはお母さんを守れなかった。お前にはそんな思いをさせたくない。
解るかい? エマ......花ちゃんも奈美ちゃんもお前にとって今大事な人達だろう。
これからお前が生きていく上で、守らなければならない人がいっぱい現れる。そういう人達をお前に守ってあげてほしいんだ。だから合気道を続けてほしいんだ......エマ」
国雄は目に涙を浮かべている。
男涙に暮れるとは正にこの事を言うのであろう。
強靭な体と心を兼ね備えた国雄も、母の事を話す時だけは弱々しく見える。
母はエマが三歳の時にこの世を去った。
エマを抱いている写真の表情を見れば、どんなに優しい人だったかが分かる。
この父が愛した人。
そして私を生んでくれた人。
たまに見せる母の切ない表情は何だったのだろう......
父は母の事をあまり語らない。
語りたくない理由があるのだろうか......
もし理由があるのなら、それは母を守れなかったという父の言葉と関連しているであろうか......
ただ間違いなく言える事は『母の死』について国雄が自身を責めている事だ。
エマは父のそんな気持ちを全て理解していた。
「父ちゃん。私、合気道辞めないよ。将来父ちゃんが困った時、エマが守ってあげるからね」
エマはニコッと笑い、国雄の頭を撫で返す。
「エマ......お前はその年にして、常に相手の気持ちを考え、常に相手を傷つけまいとしている。お母さんもそういう人だった。ただ.その優しさが命取りになる事もある。
人を守る為には、時に鬼になる事も必要だ。今はまだ分からなくてもいい。時が来たら必ず分かる時が来る。その時は躊躇するな。いいなエマ」




