08 新世界の神、爆誕……?
「神に成りかけているって……え?」
藪から棒、ではないのかもしれない。ここまで天照大御神から受けた説明を統合すれば、そうなるのかもしれない。だが。
俄かに理解の追いつくものではない。
「いや、いくら何でもそれは、荒唐無稽過ぎません? そもそも人が神に成るなんて……」
「前例のない話ではないだろう。かの菅原道真公など有名だし、他にも早良親王や中臣鎌足公、多田満仲公、時代下れば豊臣秀吉公、徳川家康公、さらにお前の時代に近づけば東郷平八郎、西郷隆盛、明治天皇と枚挙に暇はないだろう」
「それは……」
少女の指摘に一瞬、確かに、と思いかけたけれど、いやいや待ってくれ。
「菅原道真や早良親王はそもそも御霊信仰の影響があったはずだし、中臣鎌足や多田満仲は多分祖霊信仰が関係してるだろ。いずれにしても大なり小なり神としての信仰が先に生まれてから、神に成ってるはずだ。豊臣秀吉や徳川家康は自分の意志で神に成ってるけれど、それだけの偉業や下準備があったから可能であったわけで、崇敬もしっかりと受けているはず。つまり、ちゃんと神としての存在を維持する条件は揃っていた」
正直なところを言えば、秀吉や家康を豊国大明神や東照大権現という”神”として認めることには、個人的には抵抗がある。本人の意志すらほとんど関係なく、人為的かつ制度的に人が神と成っていった近現代の神社については言うに及ばず。けれどいずれにしても、それが本質的に信仰心であるかどうかはともかく、信仰心なり崇敬心なり、何かしらの”心”を集めていたはずだ。
神が、信仰を得ていなければ忘れられ、消えていくということを考えれば……。
「――ん、いや」
ちょっと、待て。
少なくとも、目の前の状況を。眼前にまします天照大御神を目にしている今は、その認識を改める必要があるのかもしれない。
「……柳田國男は」
どうした? と首を傾げてこちらを見ている少女に、俺は語るともなしに言う。
「民俗学を拓いた柳田國男は、”妖怪談義”の中で妖怪というものは信仰を失い零落した神々の成れの果てである、と説いた。この意見には当然のことながら小松和彦らから批判されているけれど、嚆矢として結構面白い考えだ。この意見にある程度の蓋然性を認めるとすると、信仰を失った神々は、妖怪になるかどうかはともかく、忘れられ、消えていく存在であると言える」
忘れられる。つまりは、いなかったということになる。
幻想入りだ。
「宗教とはそういうものだからだ。創唱者がいて初めて宗教は始まり、神が誕生し、信仰を受け続けてこそ宗教は存続し、神の権威は維持される。けれど信仰を全て失ったとき、宗教は消滅し、神は忘れ去られる」
裏を返せば、神が誕生するには創唱者が必要であり、存続するには信仰者が必須なわけだが。
気が付くと、俺は腕を組んで顎を指先で撫でていた。考えるときの癖だ。む、と思いながら腕を解き、顔を上げると、天照大御神は微笑みながら頷いていた。
「確かに、そう考えるのが普通でしょう。あなたの生きる世界は、既に神無き時代。惟神の神々の他にも数多の宗教、無数の神々が存在し、時に比較し、時に優劣を説いている。そのような世界にあれば、それぞれの宗教や神話を研究し、信仰心から離れた位置から思考する学問が発生することも自明。そして、宗教や神々を客観視し、宗教とは何か、神とは何かを結論付けようとする。あなたの認識もまた、間違いではありませんよ、斎さん。それもまた真理です。世界の始まり、というより地球の始まりが神の御業であるのか――私たちの祖である伊邪那岐、伊邪那美の両神が天浮橋から天沼矛で混沌をかき混ぜたことが始まりなのか、あるいは”光あれ”という言葉とともに生まれたのか、あるいは打倒された始原の巨人の躰から作り出されていったのか、あるいは――宇宙のどこかで起こった太初の爆発から始まるのか。いずれも正しいのでしょう。他の神話での起こりはともかく、私に言えるのは、この高天原、豊葦原、黄泉の三世が始まるのは伊邪那岐と伊邪那美の国産みからであるということだけです」
まあ、ある意味で科学というのも宗教であると言えるだろうけれど……それにしても、何だか凄い話だ。呆気に取られている俺に、どうした? と少女がつついてくる。いや、何というか。
「神様自身から、そういう宗教観とか世界観の話を聞くのって、ギャップというか壮大というか……詳しいんですね」
まさか天照大御神から一神教や北欧神話の話、それどころか科学の話まで聞くことになるとは夢にも思わなかった。
驚きに言葉を失っている俺に、天照大御神は何ということもないように微笑む。
「詳しいというほどでもありません、知っているだけですよ」
「誰に聞くんですか、そういうの」
「誰ということもありませんね。人世を眺めていれば、自然と知れるというものです。諸行無常、留まりゆくことを知らず移ろいゆく人世は、見ていて興味が尽きませんね」
仏教用語までとは。ま、まあ神仏習合とか、そんな時代も長かったからね……でも伊勢神宮は仏教を排斥してたよな。そのために仏教は第六天魔王譚とか用意しなきゃならなくなったくらいだし。
「行雲流水。固執することなくあるがままを受け入れ、認めるのが惟神でもありますから。習合も排斥も、ただ人の為しているだけのことなのですよ」
決して責めているわけではありませんよ、と天照大御神は穏やかに笑う。まあ、確かに天照大御神の言う通りだ。神の意志、神の導き、神のため、どういう言葉で飾ったって、王権神授とか神に位を与えるとか本地垂迹とか聖戦とか、全ては人の都合で、営みだ。神々は関係ない。
神々はただ、在るがままであり。
神話を、人が語り、それゆえに。
宗教はただ人のもの、というわけか。
「確かに宗教は人々のもの。創唱者に始まり、信仰心によって成り立つものでしょう。それらを失えば、神は神でなくなる――しかしそれは、あくまでも宗教の神だけなのですよ。神々にとってみれば、信仰心などの存続如何にかかわらず、神々は神々なのです。私たちが私たちの世界を形作ったことは、人々が知ろうと知るまいと変わらない事実なのです。ですから」
随分話が逸れてしまったようですが、と天照大御神は続けた。
「創唱者や信仰者がおらずとも、新たな神が生まれることや、人が新たに神と成ることだって、それほど不思議なことではないのですよ」
「いや、でも、神道の神様って結構ちゃんとした系譜があるじゃないですか。俺の両親はどっちもただの人間のはずですよ」
いや、ちゃんと調べたことはないけど。そりゃあ何百代も遡れば記紀に名のある神からの系譜にたどり着くかもしれないけど、何百代も経ている時点でもう神でもなんでもない。ただの人だ。
けれど、俺の足掻きを否定したのはまたも横の少女だった。
いやいや、と。
「お前、忘れたのか? そもそも天地開闢の別天津神はいずれも独神だったし、神代七代にしても国之常立と豊雲野は独神、そこから少しずつ男女が明確になりながら五代目にして伊邪那岐と伊邪那美が生まれ、子を成せるようになったのだろうが」
「くっ……」
そうだった。造化三神の天之御中主、高御産巣日、神産巣日は独神だ。最初から最後まで系譜が連綿と続いているわけではない。それにもっと言えば、例えば鹿島神宮の建御雷は伊邪那岐と伊邪那美による神産みの最後、火之迦具土が原因で伊邪那美が亡くなり、怒った伊邪那岐によって火之迦具土が天之尾羽張で斬り殺されたとき、飛び散った血から生まれた神々の一柱だったはずだ。他にも住吉大社の祭神の住吉三神、底筒之男、中筒之男、上筒之男はいずれも、黄泉返りした伊邪那岐が阿波岐原で禊をしたとき、瀬の深いところ、中ほど、水面近くから生まれた神々だ。伊邪那岐が単身で生んだと言えなくはないが、血縁とはまた違う。
というか。
黄泉返りの禊で思い出したけれど、それこそ俺の目の前で微笑んでいる天照大御神こそ、明確な両親を持たずに生まれてきた神々なのだった。天照大御神、月読、須佐乃袁の三神、三貴子は、黄泉返りの禊、その最後に伊邪那岐が顔を禊いだとき、それぞれ左目、右目、鼻から生まれ出た神々だ。
ぬう。
もうぐうの音も出ない。認めるしかないのか。
俺は、神に成りつつある。
改めて思うと凄まじいパワーワードだ。そんなのは所謂中二病だ、と笑い飛ばしたい。
「いや、しかしだ。人が神となることがあり得たとしても、だからといって俺が神になるということは……」
「どうしてそんな頑なに認めたくないんだよ、お前」
苦悶する俺に、少女が呆れたように言う。そりゃあ、何というか、うーん。
「別に頑なな理由なんてないけどさ……神って、何というかこう、凄いじゃん」
「語彙力……」
「放っとけ。とにかく俺は、そんな凄い人間じゃないんだよ。神になるとか、そんな資格持ってるような大それた奴じゃない」
それこそ徳川家康とか豊臣秀吉とか、天下人レベルの偉人であれば、別に何の遠慮もないだろう。けれど俺はそんな器の人間じゃない。俺はただのしがない大学生なんだ。
「神となることに大それた条件なんて、ありませんよ」
単純な話です、と天照大御神は言った。
「あなたは神気を得過ぎたのですよ、斎さん。あなたの身に集積した神気は、叶える願いもなく、神々のもとへ還ることもなく、集まり、結し、やがてあなた自身の神気となり、一柱の神が有するほどのものに至った神気はあなたを神へと成そうとした。それだけのことです」
「それだけと言われましても……」
随分大したことだと思うが……しかし、まあ。
言われてみれば、俺が神に成りつつあるのだとしても、それが俺自身の秘められた才覚とかそういうものではなくて、外部的に集まった神気の仕業ということであれば、まだしも納得できるか……。
荒唐無稽であることに変わりはないけれども。
「確かにかつて例のないことです。古今東西、あなたのような人間はいなかった。私たちとしても驚いています」
「驚いて、って、それだけですか? 何かこう、そんなの認めない! みたいな反発とか」
「特に聞きませんね。皆、”まあ、そういうこともあるのか”と」
「軽い……」
日本の神様、って感じがするけれども。
「それで……ええと、それで、俺はどうしたらいいんでしょう。やっぱりこのまま俺が本当に神様になんかなったら、マズいですよね」
よくある話、世界の均衡がどうとか、秩序が何だとか、そういうの。
けれど、天照大御神の返答は軽かった。
「いえ、特にマズくはありません」
「え」
「とはいえ、あなたはもともと人世の人間です。やはりもとの世界へ帰られた方がよろしいでしょうと、知恵深い神々の叡智を絞って考えました。――持って来なさい」
天照大御神が、やおら背後へ声を掛ける。すると壁際、音もなく木戸がするすると引き開けられた。出てきたのは、緋袴の少女。
「巫女さん?」
「ええ。この皇大神宮の巫です。この世界では基本的に一柱にひとり、神世から巫を連れてきているのですよ」
成程、と見ると、その巫の子は見た目の年の頃が高校生くらいだろうか。長い黒髪を元結で結っている。ザ・巫女さんという感じ。
その巫女さんは俺の前までやって来ると、その両手に持っていた冊子のようなものを差し出してきた。
「…………?」
天照大御神を見ると頷きが返ってきたので、とりあえず受け取る。俺にそれを手渡した巫女さんは、無言のまま、天照大御神の後ろに控えるように座った。
渡されたそれは、結構厚みのある本のようなものだった。サイズはA4くらいか、そこそこ大きい。色は濃紺が基調の無地。白い紐で綴じられた和綴じ本だ。中をパラパラと開いてみるも、
「あれ、真っ白だ」
中には何も書かれていなかった。文字も、記号や絵の類も一切ない。完全な白紙だ。紙質は和紙のようだが、それにしては少し厚みがある。
「えっと……これは?」
「あなたもよく御存知のものですよ。巻子本の方がよいかとも思いましたが、よりあなたに馴染みのある形の方がよいだろうということで、綴じ本に致しました。……とはいえ、これが出来るのはかなり後世のことなので、しっかりと作れているかは確認してほしいですが」
俺に、馴染みのある本。いや、これは多分、本と言うより、
「もしかして、御朱印帳ですか?」
俺の確認に、天照大御神は頷いた。
御朱印帳。御朱印というのは、神社や寺院を参拝・参詣したときに授与所や社務所で授与してもらうことのできる、参拝・参詣の証のことだ。基本的にはその名の通り印と、参拝・参詣した年月日が捺されており、多くはその神社・寺院の名も入れられる。御朱印帳とはその御朱印を集めるための帳面のことだ。大概は折り本の型式だけれど、一宮の御朱印帳はちょうど俺が今受け取ったもののように、大判で和綴じだった。俺もこの世界に来るまでずっともらい続けていたから、確かに馴染みはある。何だったら、横に寝かせてあるダッフルバッグの中には十冊近い御朱印が仕舞ってあるわけで。
「これを渡されるってことは……御集印しなさいってことなんですよね」
特に意味もなく渡すわけはないし。それにさっき天照大御神は、神々の叡智を絞って考えたとも言っていた。……これが、一体どう関係するのかがわからないけれど。俺が今までいただいてきた御朱印ではダメということなのだろうか。
「そうですね。申し訳ありませんが、斎さんがこれまで集めてきた朱印はあくまでも人世でのもの。ですので改めてもう一度、神世で朱印を集めてもらおうと思います」
はあ、と俺は相槌を打つ。けれどまだ呑み込めていない。反応の鈍い俺の腹を、おいおい、と少女がつついてきた。
「もっとテンション上げんか。お前、神世で御集印するということは、神々から直接御朱印をいただけるということなんだぞ」
「…………!」
ほ、ほほう。それは。それはそれは。
だが確かにそういうことだ。人世での御朱印は、神社の神職の人などが書いてくれるものだ。参拝の証なのだから何も間違ってはいないのだけれど、それを神様に直接捺してもらえるというのは、これはちょっと高揚せずにはいられないな。
「いや、でも、でもですよ。俺のテンションはともかくとして、どのみち御集印することに躊躇いなんてないんですけど、それと俺が元の世界へ帰ることとに、どんな関係があるっていうんです?」
御集印は、言ってみれば俺の趣味の延長だ。願ってもないことである。元の世界へ帰るっていうんだから、もっと試練みたいなことがあるもんだと思ってたんだけれど。
「試練などということはありませんよ。あなたは何も過ちを犯したわけではないのです。これは別に、何かの償いや贖いというわけではないのですよ」
「でも、もとはといえば俺が参拝のときに何も願わなかったから……」
「何も責めているわけではないのですよ。古くから人は、必要なときにだけ自由に神々を頼っていた。頼らないこともまた自由なのです。ですからあなたが何も願わなかったこともまた、罪でも何でもありません。ただその結果として今あなたがこちらへ来てしまった、神へと成りかかってしまったから、元の世界へ帰るための手続きとして集印をしてもらう必要があるというだけのことなのです」
あなたはこの世界にとっては、罪人ではなく客人なのです。
天照大御神は、穏やかにそう言った。
「さて、私からの説明は、一旦ここまでとしましょう」
一息ついて、天照大御神がそう言った。応じるように天照大御神の背後に控えていた巫女さんが立ち上がり、この本殿の入り口の方へ静かに歩いていく。けれど、いや、ちょっと待って。
「あの、まだ訊きたいことが」
「あなたがどこから来て、どこにいて、何をすべきかをお話しました。まず私からあなたへ説明するのはここまで。ここからは、実際にどのようにすればいいのかについて別の神に説明してもらいます」
にっこりと、天照大御神は笑む。けれどその笑みには有無を言わさぬ迫力があった。
「べ、別の神……?」
「豊受宮へ向かってください。そして豊宇気毘売から朱印をもらって来るのです。集印と、斎さんが元の世界に帰ることがどのように関係するのかは、豊宇気毘売から聞くのです。ここで私が説明してもいいのですが、習うより慣れろ、実践から学んだ方が分かりやすいですからね。チュートリアルというわけです」
チュートリアルって。いやまあ、宗教観やら神観念やら、人世の文化や流動にも通じていたわけだから、外来語を知っていてもおかしくはないのかもしれないけれど……違和感が半端ないな。
ともあれまあ、話はわかった。ここで天照大御神から説明を受けて、それから豊宇気毘売のところへ行ってまた話を聞くのでは二度手間というわけか。
あれ、でも。
「あの……ここで天照大御神から御朱印をいただくということはできないんですか?」
最初というのなら、折角ちょうど皇大神宮にいるんだから、まず天照大御神から説明と実践を受けるのが一番早いんじゃないか? そう思ったのだけれど、横の少女が呆れた声を上げた。
「あのなあ、お前……いきなり不敬だろ」
「不敬って、そうか? 二度手間を避けるというのなら、その方がいいと思ったんだけれど」
「天照大御神に謁見することを手間というのか、お前」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
まあまあ、と天照大御神がひらひら手を振った。
「申し訳ありませんが、ここで私から朱印を渡すことはできないのですよ。手続きとして設定しておりますので。その辺りのことについても豊宇気毘売から聞いてください」
はあ、と俺は頷いた。そうであるのなら、まあ構わない。さっきの考えだって、伊勢神宮に来ることが手間だなんて思ったわけじゃないんだ。ただ、つい。
この旅行中、限られた期間と予算で効率よく巡拝するために最短経路や最適手順を考え続けてきた癖が、ちょっと出てしまっただけなんだ。
では、と天照大御神に座礼し、俺は立ち上がった。少女は既に立ち上がって、沓脱の方へ向かっている。傍らに置いていた荷物も取り上げようとしたが、ああ、と天照大御神が声をかけてきた。
「荷物は、ここに置いていって構いませんよ。重いでしょう。これからの道中、長旅になりますから、こちらで預かっておきます」
「え、そうですか?」
確かに重いけれど、苦になるほどではない……けれどまあ、折角そう言ってもらえたのだから、有り難く置いていかせてもらうとしよう。恐らく、俺の持ち物で、この世界で役に立つものはほとんどないのだ。また礼を置いて、外で待っている少女の方へ向かう。外では少女と並んで巫女さんも待っていた。
「ほらどうした、早く行くぞ」
「ちょっと待って、急かさないで……というか、お前も行くの?」
「当たり前だろうが」
少女は胸を張るけれど、何が当たり前なんだろう。そりゃ確かに、ここまで当たり前のように俺をここへ連れてきて、天照大御神から話を聞いていたけれど。
……そういえば。
「結局のところさ……お前は何者なの?」
いつまでも少女、と呼称していたのではどうにも印象がはっきりしない。こうやって外をうろうろしているからには神様ではないんだろうとは思うけれど……天照大御神の巫女さんなのかな? でも俺と一緒に行くということは、そういうわけでもないのだろうか。
問われた少女は、ん? と怪訝な顔をした。自分が何者かわからない、と言っていたが、何か手懸りくらいないものか? 名前というのは自己パーソナリティ形成の根幹となる重要なものだと思うのだけれど、それが欠落していて不安とかないのだろうか。しかし少女は、んー、と唸りながら名前を答えるでもなく、なぜか本殿奥に座る天照大御神の方を見た。つられて俺も天照大御神の方を見やる。
「それについても豊宇気毘売のところで、ですよ斎さん。私から今あなたに言えることは、あなたの旅はこれから始まるものであり、その少女とともに選んでいくものであるということ、ここまでです」
では頑張って、と天照大御神は微笑みながら小さく手を振った。謎かけのような言葉だ。これから始まるというのはともかく、選んでいくとはどういうことだろう。何を選ぶんだ? はあ、と全く要領を得ないままながらも、俺は一礼して外に出た。結局、またわからないことだらけになってしまった感じだ。
天照大御神の巫女さんは、内宮の神門、宇治橋を渡った大鳥居まで送ってくれた。
「…………」
「どうした?」
宇治橋の最後の一歩のところで立ち止まった俺を、先に渡った少女が、怪訝そうな顔で振り返る。いや、と返すも、すぐには踏み出せない。
そりゃあ、ついさっき俺はここで盛大にすっ転んだのだ。それはどうやら人世でのことで、今の宇治橋は全く湿ってもいないが、しかしまだ後頭部に残った痛みの記憶は新しい。
「……ふう」
呼吸を、ひとつ。なに、大丈夫。あれは多分、神世へ移動してしまうきっかけとしての転倒だったんだ。そう何度も転ばないさ。ただ、武者震いで立ち止まってしまっているだけだ。物怖じすることなんかない。別に滑りやすくもなってはいないし。
「ほら、早くしろ」
「わかったって。今行くよ」
……とはいえ、さすがに全く無警戒に踏み出したのは安易だった。
俺のサンダルは、ボロボロでズルズルのパカパカだったのだ。
ズッ、と。
「おぅあ――!」
また後ろへ。油断しきっていたものだから、受け身も取れない。再び派手に後頭部打つのか。また異世界に跳んでしまったらどうしよう――と思ったが、そうはならないかった。
はっしと。
両の手を誰かに掴まれ、辛うじて転ぶ前に踏みとどまった。
「ば……バカなのかお前。反省とか学習とかしないのか?」
結構本気で焦ったのかもしれない。少女がちょっと息を弾ませながら俺の左手を掴んでいた。そしてこちらも不意のことに驚いたような表情で、巫女さんが俺の右手を引いてくれていた。何だか表情の印象が薄い巫女さんが顔色を変えているのだから、これは必然でも作為でもなく完全な俺の不注意だったようだ。
「や、御免御免……まさか二度も繰り返しかけるとは」
平謝りしながら、女の子ふたりに頭を下げる。巫女さんは気にしないでとでも言うように両手を振るが、少女は「全くだ、間抜け」と辛辣だ。こればかりは何も言い返せないけれど。
「それじゃあ、豊受宮に行けばいいんだよな。あー……でも」
外の通りを見る。そこは、まあ予想していて然るべきだったのだろうけれど……俺の知っている景色とは、全く違っていた。
大鳥居の外には、駐車場が広がっていたはずだ。観光バスなんかでも停められる、結構サイズの大きな駐車場が。鳥居を出て右手に進めば、おはらい町という鳥居前町があって、お土産屋や買い食いのできる店が、かつての参宮街道に沿って続いていた。観光地として有名なおかげ横丁もその中にあった。名物の赤福は、滅多に名産品に手を出さない俺ですら買い求めたくらいだ。まあ、俺が甘党だからという理由が大きいけれど。
しかし、ここから覗くおはらい町には、何もなかった。というか、おはらい町なんて空間が、なかった。勿論、駐車場だってない。
あるのは、林だ。おはらい町のあったはずの方から鳥居前を抜けて左の方まで、車が通れそうなくらいの幅の道らしき通りがあった。ということは、これが参宮街道なのだろうか。
「これは、どっちに進めばいいんだっけ……」
「私も知らないぞ」
少女もしれっとそんなことを言う。おいおい、これじゃあ長旅どころか、スタートすらできないじゃないか。と、助け舟は思わぬ方向から来た。
「あ、あの……豊受大神宮は、そちらの方……斎様の世界で、おはらい町があった方へまっすぐに出た後、道なりに進めば着きます」
右手を指さしながら、教えてくれたのは巫女さんだった。あ、喋れるんだ。ここまでずっと静かだったから、てっきり寡黙なキャラなのかと。
「おはらい町を抜けて道なりにね……有り難う。行ってみるよ。というか、さっきも助けてくれて有り難う」
「いえ……でも、気を付けてくださいね」
そう小さく言って、ふわっと笑った。あ、結構可愛い。
「何だお前、巫女萌えに目覚めたのか」
「こらこら滅多なことを言うもんじゃないよ」
少女と小突き合う。その様をくすくす笑いながら見ていた巫女さんは、では、と小さく手を上げた。
「豊受大神からお話を聞き、御朱印を授かりました後は、もう一度こちらへお戻りください。出立の前に、天照大御神から最後のお話をいただきますので」
成程、と俺は頷いた。それじゃあ、しっかり道を覚えながら行かないとな。俺、結構方向音痴だから、土地勘のない場所で迷うと大変だ。
「では、お気を付けて」
「うん。有り難う。行ってくるよ」
「天照大御神によろしくな!」
不敬の極みみたいな発言をする少女の頭を軽くはたきながら、俺は巫女さんに手を振って歩き始めた。まずは豊受大神宮。そこで、詳しい話を聞いてくる。正直、まだ状況の変化に心が追い付いてないところもあるけれど……。
まあ、なるようになるだろう。
そんな思いで、俺は進む。
「何だ。何だか地に足がついてないような歩き方だな」
横を歩く少女が、面白がるような顔で俺を見上げる。そうか? と俺は返しながらも、そうかもな、とも思う。
そりゃあ、テンションも上がるさ。
ここが紛れもなく、神様の世界だっていうのだから。