07 新世界、爆誕
「斎さん、あなたは、私たちの世界がどのような姿をしているかは、御存知ですね?」
天照大御神の問いかけに、俺は頷く。
「天照大御神が治める高天原、大国主命が受け継いだ葦原中国、伊邪那美命が降った黄泉の国……でしたか」
基本的にはこの三世構造だったはずだ。素戔嗚尊が初め割り当てられていた海とか、少彦名がやって来た常世の国とか、その辺りまではあまり詳しくないが……天照大御神は頷いた。
「正解です。そしてあなたがそのいずれにいるのかと言いますと」
天照大御神は、ひらひらと手を振った。
「いずれでもありません」
「……え?」
どこでもない……どういうことだ?
「先程お話にあった通り、斎さんは落命したわけではありません。ですからここは黄泉ではありませんね」
「で……高天原、というわけでもないんですよね。ということは、ここは葦原中国なんですか?」
「それも違うのです」
どういうことだ? 消去法で言うなら、ここは葦原中国だと思うんだけど……首を傾げていると、横の少女が俺の袖を引いた。
「考えてもみろ。今、お前はどこにいるんだ?」
「今? 今は、伊勢神宮の内宮だよね」
それが? と見返すと、少女はあからさまに呆れた顔になった。
「え、なに」
「社とはそもそも何だったか、思い出してみろ」
社……つまり神社とは? 神社とは……あ。
ようやく思い当たった顔になる僕に、少女はもっともらしく頷いた。その顔を見ながら、俺は言う。
「神社は人と神とを繋ぐための空間――つまり、ここが神々の世界だとするならば、神社があるのはおかしい」
アニミズムという自然信仰に端を発する神道と神社は、別に同時並行して成立したわけではない。まあ、神道という信仰の発生は神社ごとに差異があったりもするし、“神道”という括りで一口に語ろうとすると語弊や誤解を招くことにもなるのだけれど、少なくとも神社が、つまり常設の宗教施設が創られるようになるのは神道的アニミズムの萌芽からやや時代を下ってからのことだ。古くは、神々というのは天下万物に遍在していて、時と必要に応じて仕切った空間に招き寄せ、斎き、祝い、恩恵を得るものだった。その仕切る空間がやがて常在化し、祠宇を建立するようになったわけだ。例えば九州は福岡に坐す宗像大社、その沖津宮が鎮座する沖ノ島では古くは巨岩の上、岩陰に祭場を設け、神を祀っていたという。そして時代が下ると、宗像大社が建立されることになった。
常設の社殿、あるいはその前身である祭場。その存在が何を意味するのかというと、神は招き降ろさなければ、天変地異などのような神性の顕現という形を除けば、基本的には人の世界に意思のある干渉はしないということだ。つまり、人の世界と神の世界とは異なるものであり、神社という神聖な空間を通して何らかの介入を望むほかないという思想。裏を返せば、神々が人の世界に存在するのであれば、神社という媒介は必要ないわけで。
「その神社が存在するということは、ここは神が常在する世界ではなく、つまり神の世界というわけでもない……?」
「そういうことだ」
少女はもっともらしい顔で胸を張るが、いや、お前が胸を張るのは何かおかしくないか。別に何の功績もないだろ。
「でも、それじゃあつまり、どういうことなんです? ここはどこなんですか?」
ここは、人の世界ではない。俺がいたところとは違う。
しかし高天原でもなく、黄泉の国でもない。
葦原中国は……あれ、待てよ。大国主命から国譲りによって、葦原中国は天孫が治めることになった。天孫とは現代日本の天皇家の、神話上の大先祖なわけだが、そうすると俺がもともといた世界は葦原中国……? 駄目だ。こんがらがってきた。
うむむ。
「ふふ、ではそろそろお教えしましょうか」
唇をひん曲げて唸る俺に微笑みながら、天照大御神は口を開いた。
「神が居りながら社が在り、社が在りながら神が居る。神世ではなく人世でもない――つまりここは、両界の狭間なのです」
両界の、狭間。
「葦原中国であって、葦原中国ではない世界……」
「その通り。そしてそこが、この度の一件の非常に特異な状況なのです」
非常に特異な状況? 首を傾げる俺に、天照大御神はひとつ、重々しく頷いてから言った。
「この世界は、初めから存在していた世界ではないのです。賽原・斎さん――あなたが訪れたことによって、この世界が現れたのです」
……え……っと。
何を言われたのかわからない。いや、言われたことはわかるとしても、それがつまり何を意味するのかがわからない。それに何より、とりあえず、
「あの、どうしてちょっと楽しそうなんですか……?」
天照大御神は、眉を立てた、言うなれば“険”の表情だ。しかし如何せん口許が笑んでしまっているため、いまいち凄みがない。
俺の問いに、天照大御神はあらあらと言いながら口許を袖で隠した。
「楽しそうだなんて、そんな不謹慎なことはありませんよ。――うふふ」
「うふふって、今笑いましたよね」
「あらあら、何のことでしょう」
天照大御神はあくまでとぼけているつもりのようだが、既に隠す様子もなくころころと笑っている。いや、まあそれはそれとしていいんだけれど。
「俺が訪れたことでこの世界が……? それって、ええと、どういうことなんだ」
考える。けれど、考えたところで何か光明の見える類の難題ではないだろう、これは。少なくとも、俺が今まで蓄えてきた神道知識じゃあまるで歯が立たないことは明白だ。
だって、神話に俺は登場しない。
「ハッ、……まさか俺は、記憶がないだけで実は誰か特別な英雄の生まれ変わりだった……!」
「なわけがなかろう。何を言ってるんだお前。自意識過剰か」
横の少女に半目で言われた。辛辣だった。でもまあ、それもそうだ。俺はただの神社好きの平々凡々なしがない大学生。日本一周して神社巡りを決行したっていうのは確かにちょっと変わっているだろうけど、特異というほどではない。ましてや世界をどうこうできるほどではないのだ。
「いえ、斎さん。その、類稀な神社好き、というところが重要なんですよ」
え? そうなのだろうか。俺は首を傾げる。
「いや……そんなことはないと思いますよ。確かに珍しいでしょうけど、日本中探せばもう二、三人はいると思います」
「そうかもしれません。けれど、あなたはその二、三人とも明らかに異なる、あなただけの特異な点をお持ちでした」
はあ。心当たりは全くない。
「その、何なんです? 俺だけの特異なところって……」
問いに、天照大御神は頷いた。いいですか、と言う。
「あなたはずっと、この日本を巡りながら、数多くの社を巡りましたね。期間は、あなたの暦でおよそ二か月ほど。非常な短期間です。そしてその間、あなたは――巡った社で、何を願いましたか」
何を願ったか? その問いの意図を図りかねて、俺は困惑してまた首を傾げた。俺が何を願ったか?
「今更隠すことなんてないぞ。願いは口にすると叶わない、という俗信もあるそうだが、ここは神前、願いを叶える神の御前だ。遠慮なく言ってみろ」
横の少女に急かされる。けれど、俺は何も言えない。どうした、強情だな、と少女はせっついてくるが、違う。俺は隠して言わないんじゃないんだ。
「その……あの、天照大御神」
俺は、静かな表情で俺の答えを待つ天照大御神に言う。
「何も……願ってはいません」
は、と横の少女が素っ頓狂な声を上げた。
「何だお前、馬鹿なのか? 百以上の神々を前にしておきながら何ひとつとして願わないだと? それならお前は一体何のために日本一周なんて大業をやったんだ」
「そんなことを言われても……」
確かに、参拝すれば人は神に何かを願い、祈り、望む。それが普通だ。
けれど、俺は何も願わなかった。
「百を優に超える数、社を巡りながら、あなたはただの一度として、神々に何かを願うことをしなかった。そうですね? 斎さん」
天照大御神の静かな声に、俺は頷く。
「どうしてか、聞いてもよろしいでしょうか?」
理由。俺が何も願わなかった理由。誰かに話すのはちょっと気恥ずかしいけれど、それこそ隠すようなことでも何でもなくて、はっきりと言える理由。
「そもそも、“願い”って何なのか、みたいな話にもなるんだけれど」
あん? と眉根を寄せる少女にも、俺は話す。
「俺みたいに別段の崇高な意志や目標も、壮大な野望のひとつも何も持たない平凡な人間の抱くような願いって、大概は自分の努力次第で十分叶えられるものだと思うんだ。どれだけ自分で頑張ったかで成否が分かれて、つまり神様に成就を託すほどのことじゃあ、ない」
神様に祈るなんて畏れ多いような望み。そんなちっぽけな願いしか、俺みたいな普通の人間は抱かない。
本当に神様に縋らなきゃいけないような願いというのは、自分の努力や能力じゃ到底届かない、言ってみれば世界を変えるような希望なんだと、そう思うんだ。
「あるいは自分の力じゃ及びそうでないような望みであるとしても、まずは自分で限界まで頑張ってみなきゃいけない。何の努力も苦労もなく、いきなりただ神様に願うような願いなんて、神様だって叶えてあげようとは思わないんじゃないかって、そう思って」
天は自ら助くる者を助く。そういうことだ。そして、
「俺にはそんな大それた願いなんて、なかった……というわけですよ」
これが理由。そう締めて顔を上げると、天照大御神は微笑みで、少女は、
「……なんて顔してるのお前」
「いや、クサいことを言うものだなあと」
言下にクサいクサいと鼻をつまみながら手を振る。放っといてくれ。
「すみません……何だか変な話で」
天照大御神に小さく頭を下げるが、いえいえ、と天照大御神は首を振った。
「なかなか感じ入るお話でした。あなたのような人間がまだいるのだなと……それゆえに、あなたはここにいるわけですが」
ん、と俺は首を捻る。そうだ、これとそれとで一体何の関係があるのかという話だ。
「そうですね……では、私からは、どうしてあなたがこの世界に来たのか――来たのか、というと語弊がありますが、それはまあいいとして、あなたがこの世界に来た理由。そこまでをお話しましょう」
天照大御神の言葉に、はあ、と俺は頷く。理由まで、ということは、そこからまだ話は続くということだろうか。ともあれ、聞きの姿勢になる。
「私たちは神々。人々の願いを受ければ、それを叶えることも吝かではありません。それがどんなに個人的で、小さな願いでも、です。とはいえ、その願いに対して私たちが直接干渉するということは、滅多にないのです」
直接干渉しない……というのは。
「神々にも得手不得手、というものがあるのです。例えば私は太陽神ですから、長雨の際に祈りがあれば陽光を与えることも、逆に旱魃の際には弱めることも可能です。ですが、私に対して交通安全や安産を願われても、それを十全に叶えることはできない。ある程度まではできますが、本来担っている神ほどの恵みは与えられません」
ああ……言われてみれば、そうなのかも。今どきはどこの神社でも判で押したように交通安全、安産、学業成就等々の御守やら何やらを扱っているけれど、大元を辿れば交通安全は宗像三女神(厳密には海運だけれど)、安産は木花之佐久夜毘売だし、学業成就なら菅原道真公なのかな、そんな感じで、専門家がいるはずなわけだ。もっともそこは神道、専門とかそんな垣根を飛び越えて広い意味での“神様”というわけだけれども。
「やっぱり、困るんですか」
「困るというほどのものではありませんよ。人世の恋愛事情など、見ていても楽しいですからね」
ころころと、天照大御神は笑う。ああ、あるよねえ。あんまり見ちゃいけないとは思いつつも、奉納されている絵馬なんか見てると、結構面白いのが。
「それに恋愛や学業成就などについては、仮に専門に担う神であっても、願われたからといって必ず願われた形で叶えるわけではないのです。人というのは神であっても、指運ひとつで自由にできるものではありませんから。私たちがするのは、人々の背を後押しし、ささやかなきっかけを導く程度のものです」
成程……でも確かに、そんなものなのかもしれない。特に恋愛なんかに関しては、時に結果が矛盾してしまうような願いが生まれることもあるだろう。全てを無限定に叶えてしまうと混迷してしまうようなものが、いくらでもあるはずだ。
それで、えーっと。興味深くてついつい引き込まれちゃったけれど、この話がどう繋がるんだろう。
俺の内心が顔に出ていたのか、天照大御神は微笑んだ。
「お話はここからです。人々の無数の願いを受け取ったとき、私たちは必ずしも直接に手を下し、世界や運命を動かすわけではない。実際にどうするかというと、参拝に来た人々に、ほんの少しだけ、願いを叶える力を授けるのです」
願いを、叶える力? それはどういうものなのだろう。いまいちピンと来ないが……要領を得ていない顔の俺に、そうですね、と天照大御神はちょっと考えた。
「では仮に、これを“神気”と呼びましょう。要するに、神々の力です」
「え……それって、そんなものを人に与えちゃって大丈夫なんですか」
神々の力というと、凄まじいものを与えられているような気がするんだけれど。そう思ったんだけど、横の少女が鼻を鳴らして突っついてきた。
「だからお前、ほんの少しだけと言ってただろうが」
「そうだっけ。いやでも、神々の力なんだろ? ほんの少しって言ってもなあ」
「ふふ、本当に少しだけなのですよ。各々が抱いている願い、それを叶えるために背中を押す程度の、ささやかな力です」
そうだったのか……何だかんだ言って、現代においても神様は人の願いを聞いていて、力を貸してくれていたのか。そう思うと、なかなか感慨深いものがある。
今じゃあすっかり、信仰心のない日本人、だもんなあ。
「私たちが授ける神気は、本当に少しだけ。願う人が、その願いへ一歩を踏み出す一助となる程度のものであり、どのような願いであっても力となるために無色透明のもの。この神気はその人の願いに応じて役目を果たすと、つまり願いへ何らかの形で関与すると、また神々のもとへ戻って来るのです」
成程ねえ、とふんふん聞いている俺だけれど、しかしまだ話が見えてこない。それと俺とにどんな関わりが?
「さて、この神気ですが、基本的に参拝した人々に等しく授けられます。加えて、授けられた人々の願いに何らかの形で寄与するまでは、私たちのもとへ戻ってくるものではありません」
はあ、成程。頷いて聞いてはいるけれど一向に話が見えてきていない俺に、とうとう業を煮やしたらしい横の少女が突っついてきた。
「お前、まだわからんのか? お前は人世で何をしてきた?」
俺が、人世で? うーん……。
「神社巡りをしてきた……」
そして、ただの一度も何かを願うことをしなかった――あ、もしかして。
「俺にもいろんな神様から神気が授与されてるけど、俺が何も願わないものだから何かを叶えることもなくて、ずっと俺の中に残っちゃってるってこと?」
借りっぱなしの神気を、早く神々に返却しなさい、ということだろうか。
しかし、天照大御神はゆっくりと首を振った。
「別に、早く返してほしいということはありませんよ。神気というものは制限のあるものではありませんから、私たちにとって足りなくなるということはありません。問題は、あなたが神気を受けすぎているという一点のみなのです」
俺が受けすぎている……欲張りすぎってこと?
「阿呆かお前。そんな単純な話じゃないぞ」
「確かに俺の物分かりが悪いことは認めるけど、それにしてもお前、さっきから俺に対して当たりが強過ぎない?」
お前だって別に、わかってるわけじゃないんだろ?
「要因はいくつかありますね。まず非常に短期間であったこと、あなたが巡った社がいずれも神々と縁の深い大社や総本社であったこと、そしてあなたが一度として願いを心に抱かなかったこと……これらが重なった結果、授けられた神気が役目を果たすことなく集まり続け――斎さん、あなたは」
天照大御神は俺をまっすぐに見据え、言った。
「あなたは今、一柱の神へと成りかけているのですよ、賽原・斎さん」