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とほかみえみため  作者: FRIDAY
弐:椿大神社
17/17

17 猿田毘古神のお戯れ2

 椿大神社から伊勢湾までは、直線の最短でも20km以上はある。まさか歩くのか? しかもそれを数日ということは、何度も往復するのか? 戦慄した俺の予想は、いい意味で裏切られた。

 テレポートだ。

 いや、どこでもドアの方がイメージとしては近いだろうか。

「鳥居を抜けるとその先は、伊勢湾だった……」

「上手いこと言えてないぞ」

 バッサリ。

 しかし実際、そんな感じだ。猿田毘古神の先導で鳥居を抜けていき、最後の鳥居をくぐったところでトンネルを抜けたような感覚があった。くぐる前後で鳥居の向こうに見えている景色がぐにゃりと全く変わったものだから、それは結構気持ち悪くなってしまったけれど、しかし振り返って見ると浜に不自然にぽつんと建てられた鳥居があるだけで、山中の社殿はどこにも見えず、前を見直せばそこは伊勢湾だった。

「そうは言うがお前、目の前のこれが本当に伊勢湾なのかどうかなんて把握できているのか? 実は琵琶湖かも知れんのだぞ」

 正反対じゃねえか。

 さすがにここまでの流れでそれはないと思いたいのだが……。

「御心配なく。ここは確かに伊勢湾です」

「おいおい、ここはこいつを惑わせるターンだろう。こいつは淡水と海水との区別もついてないぞ」

 折角巫女さんがフォローしてくれたのに、わけのわからない注意をするハルカ。そうでしたか、ともっともらしく巫女さんは頷いているが、真に受けないで。

 そういえば猿田毘古神はというと、いそいそと海の方へ向かい、釣りの準備を始めていた。

 見ていると、腰に魚籠を提げ、釣り竿を肩へ無造作に引っ掛けるとまっすぐに海へ歩いていく。その先にあるのは、

「……堤防?」

 そのように見える。台形の足場が、沖の方へまっすぐ伸びている様は現代の堤防のそれに酷似しているが、遠目に見てもあれはコンクリートではなく、

「土です。しかし強度は折り紙付きですし、このあたりは波も穏やかなので、高波に攫われる心配はありません」

 巫女さんが太鼓判を捺してくれる。まあ、止める間もなく猿田毘古神がスタスタその上を歩いていくので、そういうことなのだろうとは思うけれども。

 ……一応、心配は心配なので、距離があるとは思いつつも声を潜めて巫女さんに問う。

「ここ、阿邪訶あざかからは遠いの?」

 椿大神社の社伝で、猿田毘古神が比良夫貝に手を挟まれて溺れたのは、伊勢湾の阿邪訶という土地だったはず。それが具体的にどのあたりなのかは、調べたことがないので詳しくはないけれど……。

 俺の心配に、巫女さんは笑顔で首を振った。

「それも御心配なく。ここは阿邪訶からは遠く離れておりますし、たとえ阿邪訶であったとしても、再び貝に手を挟まれるということはありません」

 本当だろうか。こっそりと窺うと、猿田毘古神は既に堤防のへりに腰掛け釣り糸を垂らし、そわそわと釣果を待っている。――正直、“うっかり”が再来しても不思議ではないような。

 まあ、巫女さんがそういうのなら、大丈夫ということなのだろう。俺は自分を納得させるように頷いて、ようやくそちらへ歩き出した。ちなみに、魚籠は釣り竿と同じく四人全員に配られている。

「そういえば、阿邪訶ってどのあたりなんだろう」

 堤防は意外と長い。何となく猿田毘古神に聞かれてしまうのは憚られるような気がして、距離のあるうちに誰ともなしに訊いてみる。

「なんだ、知らんのか」

 応じたのはハルカだ。

「阿邪訶。“延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう”には『阿射加あざか神社三座』という記述があって、現代の三重県松坂市大阿坂町、小阿坂町に一社ずつ鎮座している阿射加神社が、それに比定されている。阿邪訶、ないし阿射加神社に纏わる記述はいくつかの歴史書に見えるな。“皇大神宮儀式帳”、“倭姫命世記”などがそうだ。いずれにも、倭姫命の遷幸を妨害した阿射加の神を祀り上げたという話が出てくる」

 “皇大神宮儀式帳”というのは、皇大神宮というとおり内宮の行事や儀式についてとりまとめたものだ。似たようなものが豊受宮にも、止由気宮とゆけぐう儀式帳として存在している。“世記せいき”はこれまでにもたびたび話に上がっているとおりだ。

「祀り、社を造営したのが阿坂山の山上だったというわけだな。どうしてそれが今や二か所に、それも1キロと離れていない近距離に分かれているのか、『三座』といいながら二社しかないのはどういうわけなのか、というところは諸説ある」

 で。

「この阿射加神社の鎮座地は猿田毘古神の溺れた阿邪訶なのか? というところだが、これは江戸時代、外宮の世襲神職だった度会わたらい家の出口・延経でぐちのぶつねが“神名帳考証”の中で唱えた説による。ちなみに本居・宣長も“古事記伝”でこの説を支持しているな。なお現在は両社とも、主祭神は猿田毘古神になっている」

 うーん、出口・延経は、以前調べたことがあるな。ちょっと細部は曖昧だが……“神名帳考証”。“延喜式神名帳”は江戸時代になると式内社の大多数が神名不明、鎮座地不詳となってしまっていて、それを憂えた出口・延経から始まり数代かけて考証したという大巻だった、はず。本居・宣長と“古事記伝”は中学校や高校の教科書にまで必ず出てくるビッグネームだから、言うに及ばず。

「まあいずれの阿射加神社も、伊勢湾からは内陸に5、6キロ入るわけだが。当時は海岸がもっと内陸にあったのかもしれんな」

 成程ね。これまではあまり気にしていなかったが、卒業論文で何かに使えるかもしれない。覚えておこう。

 ……卒業論文、か。

「ん、どうした?」

 別に、何かを顔に出していたつもりはなかったのだが、目敏くハルカが俺の顔を覗き込んできた。でも大したことじゃない。俺はやんわりと首を振った。

「何でもないよ。それより、やっと猿田毘古神に追いついた」

 堤防の先端。その右側に胡坐をかいて座る猿田毘古神は、釣り糸を垂らしたまま水平線を睨み付けている。凄い集中力なのか、あるいは仮面の下では寝ているのかもしれないが。いずれにしても猿田毘古神も釣り糸も微動だにしない。

「ええと、とりあえず始めればいいのかな」

 俺も、猿田毘古神の反対側へ腰を下ろし、巫女さんから受け取った釣り餌を鉤につけると、無造作に海面へ放り込んだ。気持ち遠くに。見ると、ハルカも俺の隣で、巫女さんは猿田毘古神の隣で同じようにしている。

 波で上下する釣り糸を漠然と眺めていたが、すぐに魚が当たるわけもない。無意識に視線は水平線へと上がっていく。

 車や船や人ごみの喧噪。そんなものは当たり前だが一切存在しない。聴こえるのは風と、潮騒のみ。次第、無心になっていく。


 ――そして。

 驚くなかれ、そこからあっという間に一時間が過ぎた。

「いやいや、あっという間にも程があるだろう」

 やはり疲れていたのだろうか。思えば、椿大神社に着いてほとんど休む暇もなく釣りだったからな。でも別に居眠りしていたわけではない。冴えてもいないが、眠くもなかった。これも豊受大神との神今食の効果なのだろうか。そう思いながらふと横を見ると、ハルカは釣り竿は握りしめたまま盛大にいびきをかいて寝ていた。涎まで垂らしている。

 おい。

「そもそも、だよ……いや、いの一番にこれは訊いておかなきゃいけないことだったんだけど……猿田毘古神。あの、ここに来る前に巫女さんが言っていた“ちょっとした目標”って、何です?」

「あ、それはですね」

 応じたのは巫女さんだ。……これも今更だが、どうして猿田毘古神は一切喋らないのだろう。喋らないというか、声を全く発さない。しわぶきひとつ、だ。ここまで徹底していると、何か已むに已まれぬ事情がありそうにも思うが。

 まあそれはそれとして、課題についてだ。

「先にお話ししました通り、釣果の多寡ではありません。そもそも競うものでもありません。これは、是非賽原さいばら様御自身に達成していただきたい目標となります」

 ん、俺ひとり?

「え、じゃあ猿田毘古神や巫女さん、ハルカが釣りしてるのは?」

「猿田毘古神は御自身の趣味で、私とハルカ様はその付き合いです」

「なに? じゃあ私までやる必要はないというわけか? じゃーやめだ! 私はもう飽きた! いつきがひとりでやっていろ!」

 不意に覚醒したハルカは言うなり釣り竿を脇へ放り出して寝転がった。……別にいいけど、ほんと正直だなお前。

 しかし、俺ひとりでクリアすべき課題、か。

「うーん、何尾以上釣り上げる――ってのはないか。釣果の多寡ではないって話だったもんな。それじゃあ、何種類以上釣り上げるとか?」

 伊勢湾に何種類くらいの魚が棲息しているのか知らないけれど。しかし巫女さんは首を振った。違うのか。

「じゃあ何だろう……レアな魚を釣るとか……?」

 図鑑コンプでないのならレアものの捕獲か。ゲームじみた考え方だが。

 ところが巫女さんはにこやかに頷いた。

「御明察です。賽原様には、この伊勢湾のヌシを釣り上げていただきたいのです」



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