16 猿田毘古神のお戯れ
「――あ、どうも」
巫女さんが用意してくれたお茶を受け取る。程よく冷えたそれが、ここまでの道中で熱を持った喉を潤してくれる。横では受け取るなり喉を見せる勢いで呷ったハルカがお代わりを要求している。「こら、はしたない」
「お疲れさまでした。ここまで、長い道のりでしたでしょう」
労ってくれるのは、というか、話しかけてくれるのは巫女さんだ。ええまあ、と頷きながら、俺は庭に下りている神様を見やる。猿田毘古神は、例の御面に無言のまま、袂に手を入れて庭先の古木を見上げている。
巫女さんに通されたのは、拝殿横の、人世であれば社務所であったそこだ。その縁側で、俺とハルカはお茶を飲んでいる。
ぷは、とハルカが湯呑から晴れやかな顔を上げた。
「美味いな、この茶! 水がいいのかな!」
元気だなお前。
「ええ、御水はかなえ滝、茶葉はかぶせ茶を使っています」
「かなえ滝、というと別宮の椿岸神社横にある滝だったな。万病に効果のある御神水であるという。かぶせ茶というのは?」
「三重県特産品のお茶だったかな。椿大神社の周辺でも、広がっていた茶畑はほぼこのお茶だろう」
実際に飲むのは初めてだ。お茶を嗜む習慣はないからなあ……飲んでもコンビニで買ったペットボトルだ。お茶の良し悪しはよくわからない――正直に言うと、このお茶がかぶせ茶なのかどうかもよくわかっていないのだが、ともあれ冷えたお茶は疲れた喉に染み渡る。
「――さて、では、本題だが」
がぶ飲みし、その後も三度お代わりを要求したハルカが、まるで何事もなかったかのように冷静な顔で巫女さんに向き直る。
「私たちが、というより私の隣に座る間抜け面が、こちらへ参拝した目的は、御存知のことと思う」
間抜け面とは何だ。
居住まいを正したハルカに対し、巫女さんも姿勢を伸ばした。こちらの様子の変化に気が付いたのか、いつの間にか庭で落ち葉を掃き始めていた猿田毘古神がやって来た。……いや、神様が何やってるんですか。
草履をそろえて脱いで、巫女さんの横に座る。正座だ。並んだ神様と巫女さんは顔を見合わせ、頷き合うと、こちらへ向けて巫女さんが口を開いた。
「天照大御神から伝え聞いております。既に八百万の神々が知るところでしょう。賽原・斎さん。――人世へ還るべく、日本を巡拝し、集印し、集まり過ぎた神気を朱印帳へ込めていく、そのための旅をあなたが始めたということ」
そして、と巫女さんが俺へ微笑みかけた。
「そのために、神々の戯れにお付き合いいただく、ということ」
「それでは」
「はい。猿田彦神からも、ささやかな課題を御用意しております」
巫女さんの言葉に、猿田毘古神は懐手のままうんうんと頷く。
「勿論、課題と言っても十二の試練を課そうというわけではありません。これはあくまでも戯れ、余興ですから、相応のものとして御用意しております」
うんうんと猿田毘古神は頷く――喋らない。
「既に道具も用意してあります。……こちらです」
巫女さんの言葉を待っていたかのように、猿田毘古神が背後から無造作にそれを引き抜いた。
釣り竿だ。
現代性のメカニカルなものではなく(当然、リールもない)、伸縮もできるものではなさそうだから、隠しておけるものではないだろうと思うのだが、どこから引き抜いたのだろう……神通力だろうか。
取り出された釣り竿は四本。一本を俺に、もう一本をハルカに、残る二本を猿田毘古神とその巫女さんが手に持った。巫女さんの横にはいつの間にか、大きめの魚籠も置いてある。
しかし、釣りか。
ここまでの道中で少し話に触れていたから、驚くほどのことはないが、しかし。実際に提示されてみると。
「釣り、ということは……つまり、釣果を競い合うとか、そういう」
まさかただ漫然と水面に垂らした釣り糸を眺めて過ごすのが課題、なんてことは……ないと願いたいが……しかし忍耐力を鍛える目的、とかならありえそうだな。
しかし幸いにして、猿田毘古神は首を振った。
「競う、ということはありません。猿田毘古神は釣りがお好きですが、腕利きというわけではありませんし」躊躇いなく言う巫女さんに驚いて猿田毘古神を窺うが、猿田毘古神は別段のこともなく、やはり無言で頷いている。「釣りにスポーツ性を求めてはおりません。しかしながら、漫然と釣り糸を放り出しているだけでは張り合いもないだろうということで、ちょっとした目標は考えております」
目標? なんだろう。特定の魚を釣り上げる、とか?
「そのようなものです。ちなみに、一朝一夕にいくものではないということはお含みおきください」
それはまあ、わかっている。釣りだからね。嗜んでいなくとも、(ハルカの言葉ではないが)『運ゲー』の要素はあるわけだし。
「それで、どこで釣るんです? 近場で行くと……川ですか」
周辺を思い出すに、水場というと近くに鍋川という川が、あるいは数キロ行けば内部川という川があったはず。それ以外に手近な湖沼があるかどうかまでは知らないが。
問うと、巫女さんは微笑みのまま言った。
「伊勢湾です」