13 旅の始まり
外宮から内宮への道は、方向が反対とはいえ一度通った道なのだが。
「案の定迷ったではないか! お前、どんだけ方向音痴なんだ!」
「仕方ないだろ! 一回通ったくらいで道を覚えるなんて方向音痴でなくたって無理だろ! 向きが変わるだけで見える景色も結構変わるんだぞ!」
やいのやいのと言い合いながらも、ようやく内宮に戻ってきたのは結構時間が経ってからだった。それでも、頭上の太陽は傾きもしていない。
「まあ、この世界では時間の概念はあってないようなもの。基本的に昼間のようなものだな」
ハルカの言葉に、そうなのか、と俺は空を見上げる。まあ何にせよ、天照大御神のおわします地であればなおのこと太陽は天高くましますだろう。
こちらの世界で内宮に来るのは二度目。一度目は参拝することで天照大御神に会えたが、二度目は最初から、本殿の奥に天照大御神が座っていた。
「――無事に戻って来られたようですね。まずは、お疲れ様でした」
天照大御神はにこやかに迎えてくれる。巫女さんの案内を受けながら、再び俺とハルカは天照大御神の前に座った。
「いかがでしたか。様々、把握はできましたか」
天照大御神の問いに、俺は頷く。目標をしっかり定めることができた。全国を再び、それも時間や予算の制限なく巡拝し、さらには神々に直接相見えることができるというのだ、今では高揚感のほうが強くなりつつある。
俺の様子に、重畳、と天照大御神はにっこりと頷いた。
では、と厳かに口を開く。
「これを最後の確認といたしましょう。――あなたの名は」
「賽原・斎」
俺は答える。
天照大御神はさらに問う。
「あなたの旅の目的は」
「御朱印をいただいて、元の世界に戻ること」
「あなたの旅の道連れは」
「ハルカ。――半身が神となった俺に仕える、巫女」
天照大御神は頷いた。
「ハルカ。好い名ですね。……その名と斎さんとの個人的な縁については、深く詮索することはしませんが」
「ちょ、天照大御神まで」
なに、何なの? 皆さん全て御存知なので?
「これで全ての準備は整いました。あとは出立するのみです、斎さん。私は陽の光として、常にあなたを見守り、導きましょう」
よし、と横のハルカが立ち上がった。これで本当に、あとは旅立つのみになったわけだ。けれど――その前に、俺は天照大御神に、もうひとつだけ訊いておきたいことがある。
「はい? 何でしょう」
穏やかに小首を傾げる天照大御神に、俺は問う。
「その……重要な質問というわけではなくて、これは個人的な疑問というか、不思議、という程度のものなんですけど」
「ええ、構いませんよ」
「天照大御神は……いえ、神々は、どうして俺に、そこまでいろいろとしてくれるんですか?」
御朱印を集める。そのために神々の待つ神社を巡り、神々の出す課題を乗り越えねばならない。しかしそのためには、神々にその準備がなくてはならない。神々が俺の事情を知っていて、その上で俺が元の世界に戻るための手続きに、付き合ってくれるというわけだが。
俺は、今は半分が神様になりかけているとはいえ、どうしようもなく一介の人間に過ぎない。こんなちっぽけな人間に、どうして神々はそこまでいろいろとしてくれるのだろう。
ふむ、と天照大御神は少し考える様子を見せた。けれどその様は、答えを考えているというよりも、答えはわかりきっているが理解のためにどのように説明したものかを悩んでいる、というように見える。
「そうですね。――斎さんは、神という存在をどう思います?」
「え……神、ですか」
どういう意図の問いだろう。答えあぐねていると、天照大御神は「率直な所感で構いませんよ」と穏やかに促してくれる。
「うーん……神話の中の存在、でしょうか」
今こそ目の前に神様その人がいるわけだけれども、少し前までは神というのは神話の中での存在だった。八百万の神々だけではない、北欧や、ギリシャ・ローマや、インドや、あるいは一神教の神までも、俺にとっては宗教上の、神話の中の存在。
そんな、神そのヒトに向けて言うには失礼なんじゃないかと恐れ多い回答だったが、天照大御神はやはり穏やかに頷いた。
「科学や西洋の文化を知ったあなたの時代の日本人にとっては、神道というものは大きな意味を持ってはいないのですよね。元日には初詣、お盆には墓参り、冬にはクリスマスパーティ、年の暮れには除夜の鐘。宗教行為はあっても宗教意識が希薄だから、躊躇いがない。それは悪く言われることもあるでしょうが、良いところであるとも思うのです。……とはいえ、神道として強く意識されようとすると、あなたの時代では、よく知らない人にとっては先の大戦中のイメージから悪い印象がある人も少なくないでしょう。言ってみれば、斎さんの世界は神無き時代。かつてのような、神々の存在を自然と身近に感じ、溶け込んでいる時代とは違うわけですね。世界の始まりはいくつもある。伊邪那岐と伊邪那美だけが世界の始まりではない」
けれど、と天照大御神は続ける。
「それでも、神々にとっては日本は自分たちが創り、住まう世界であって、人々は自分たちの子孫、孫のようなものなのです。孫が可愛くない神なんていませんよ」
ころころと天照大御神は笑う。その柔らかな表情は、とても慈愛に満ちていた。
「こんな時代にあって、日本を一周してまで様々な神社を参拝してくれた斎さんという存在が嬉しいのですよ」
「でも……でも」
俺は、自分でもなぜかわからないままに反問してしまう。
「俺は確かに日本を一周して神社を巡りましたけど、特に信心深かったわけではないんです。神様を信じてたとか、そういうわけでは必ずしもなくて……」
「まあ、何ひとつ願いごとをしなかったわけだからな」
ハルカが茶々を入れて来るが、スルーだ。
「何も願わなかったというのは、神様を信じてなかったということに直結するわけじゃないですけど、こう……俺にとって神様っていうのは、信じるとか信じないとかそういうことではなくて、何というか……居ると言えば居る、居ないと思えば居ない、どちらかと言うと居てくれた方がいいな、みたいな……」
ああ、もう。何言ってんだろ、俺。自分でも何が言いたいのかわからなくなってきた。
けれど、天照大御神の表情は変わらない。
「それでも構わないのですよ。もともと八百万の神々は世界そのものであり、信仰心を必要としているわけではないのですから。ただ、あなたがそうして巡ってくれたことが、純粋に嬉しかったのだという、それだけの理由なのです」
――そう、なのか。
まだ、完全に納得したというわけではない。俺なんかに、という思いは、まだどうしても残っている。
でも、天照大御神の言う、神々の心。
その飾りない感情は不思議とストンと胸に落ちた。
ああ、そうなのか。
神々というのは、そういう存在なのか。
「――まあ、強いてもうひとつ言いますと」
口許を袖で隠しながらも、目許を笑みに彩りながら、天照大御神は言った。
「正直なところ、恰好の暇潰しが現れたから、という理由も、あるといえばあるのですが」
「あっれもしかしてそっちが本命!?」
さっきまでの感動がどこかに吹っ飛んだけど、そっちの理由のほうがよっぽど腑に落ちるよ!?
神様って、暇そうだもんね!? 豊受大神もそんな話してたしね!?
「年に一月、出雲に集まって色話や猥談で盛り上がりながらお酒を嗜むのが、数少ない楽しみなくらいですからね……」
「そうだったんだ……神去月の縁結びって、暇潰しの大宴会だったんだ……」
「ともあれ、そんな感じですよ。他にまだ訊きたいことは?」
ない。俺は首を振る。納得した。満足した。
これでようやく、俺は旅立てる。
俺の表情を見て、天照大御神は満足げに頷いた。
「よろしい。では出立と行きましょう。初めは、どこへ向かおうか決めておりますか?」
「あ、いえ、まだ」
「では、ここから北東の方向、椿大神社に向かうのがよいでしょう」
「椿大神社……猿田毘古神ですね」
「ええ。彼は道開きの神でもありますから、旅の門出にはふさわしいかと。――では」
立ち上がった俺とハルカを、天照大御神は小さく手を振って送り出す。
「どうかこの旅が、あなたにとって善きものとなりますように。行ってらっしゃい」
俺とハルカは一度顔を見合わせ、頷いた。
「「行ってきます」」
一礼して、俺たちは天照大御神に背を向け、踏み出す。
「じゃあ、改めてよろしくな、ハルカ」
「勿論だ。私の脚を引っ張るんじゃないぞ、斎」
「何で偉そうなの? 付き合わせるのは悪いような気がするけどさ」
「なに、気にするな。私にとっても必要な旅なんだよ、多分」
うん? どういうことだ? 俺は首を傾げるけど、ハルカは気にするなと軽くを振る。まあ、大事なことならいずれわかるのだろう。今は気にしないでおく。
長い旅の、始まりなのだ。
靴を履き直して、立ち上がり、前を見る。
行く先は、ついさっきまで歩いていた日本とは違う、神々の待つ世界。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
よし、と気を込め、傍らの少女と視線を交わし、頷き、
踏み出す。
行ってきます。