11 神今食
まずは米。熱過ぎず、ほかほかと暖かい白飯は程よく炊けており、噛むと柔らかな食感が心地よい。それに、仄かな甘みすら感じられる。
次いで味噌汁。入っている小さな貝は、
「それは蜆ですね~」
ぱっかりと開いた蜆の貝を箸先で摘まみとり、中の身を舌で絡めとるようにして千切り、口に含む。最初に広がる昆布出汁と味噌の風味。そして身を噛むとじゅわっと滲み出て来る海の塩味。
「この魚は……鮎か」
器用に骨を取り外し、身を口に入れた少女が瞳を輝かせる。応じて豊受大神も頷いた。
「鮎の塩焼きですね~。やはり旬の魚はシンプルな調理法が一番旨味を引き出せますから~」
成程、豊受大神の言う通り、うっすらと振られた塩が鮎の味を最大限に引き出している。添えられている大根おろしを時折一緒に口に入れることで、さっぱりとした清涼感さえ感じられるようだ。
「神今食とはいいましたが、斎さん~」
煮物を口に運びながら、豊受大神は言う。
「この食事には、私からの加護が含まれています~。今後、斎さんが神世に人として居る間、強いて食事を摂ったり、睡眠を取ったりする必要がなくなります~。加えて、疲労も取れやすくなりますよ~」
へえ。俺は思わずまじまじと箸で摘まんでいる鶏肉を見た。この料理にそんな効果が。さらっと何でもないことのように言われたけれど、それってもの凄いことだよな。
さすが神様。
「ん~、でもそれって、ある意味神様により近づいた、っていうことじゃないか?」
もぐもぐと口いっぱいに米を頬張ったまま、少女が言う。こら、お行儀の悪い。
「あー、でも……」
少女の言う通り、食事も睡眠も要らないとなると、人らしさから離れていっているような気もする。
「確かにそうとも言えるんですが~、こればかりは仕方がないのですよ~」
のんびりとした調子で、豊受大神は言った。
「今の斎さんは神になりつつある、つまりは半分が神、半分が人という状態なのですよ~。人ということは、食事も睡眠も休息も必要になってくるわけで~、これからの長い旅の道中、それはあまりに大変になりますから~、私たちとしてはできる限りのサポートをしてあげたいわけなんですよ~」
ははあ、と俺は味噌汁を啜りながら頷く。確かに、それはかなり助かる。
「それに加えて、神世というのは時間という概念が薄いのですけれど~、斎さんの人の部分は時間がどうしても進んでしまうわけなんですね~。ですので、神世へ斎さんがやって来たときと変わらない姿で戻ってもらうためにも、疑似的に神として存在してもらう必要があるというわけなんです~。……とはいえま~、そんなことは実のところ全部オマケなわけでありまして~」
ほうほう、と聞いていた俺だったが、ん? と顔を上げた。オマケ?
「一番の目的は、言ってみれば保険なのですね~」
「保険?」
そ~です、と豊受大神は頷いた。
「斎さんのように、神に成りかけてやって来た人というのは私たちとしても初めてのことなので~、あなたが今後どうなってしまうのか、ちょっと予想がつかないわけですね~」
「予想、というと」
「あ~、世界観が壊れるとか、第六天魔王がやって来るとか、そういう困った事態になるわけではないのですよ~? ええ、神世が困ることにはなりません~。困るとしたら、斎さんなのですね~」
んん? どういうことだろう。神々は特に困ることにはならず、俺が困る事態?
「天照大御神もはっきり明言はしていなかったものと思いますが~、実は今の斎さんは既に、一柱の神と成るに十分な神気を持っているんですね~。ですから、いつどの瞬間に神に変身、というより変成ですか~、してしまうのかわからないわけですよ~」
「…………」
俺は思わず手にしていた木椀と箸を置いた。じっと自分の手を見下ろしてしまう。
いつ神になるかわからない。
つまり、今この瞬間に成ったとしてもおかしくないということか。
……というか。
俺、ほんとにそんなに神気を得てしまうほどたくさん神社を巡っていたのか。
「ま~まだ私たちでも把握していない何かがあるのかもしれませんがね~。斎さん特有の条件があるのかもしれません~。けれど実際問題、斎さんがこういう状況にいるということも事実でして~」
俺と同じように箸を置いて、豊受大神は言う。まるで構うことなくがっついているのは少女だけだ。
「むがむがむがむが」
夢中だな。ちょっとは空気読んで自重してくれよ。せめてこっちに食べかすを撒き散らすな。
「神に成るだけであればまだしも~、他にももっと悪くなる可能性もありまして~」
「と、いいますと」
「斎さんが~、人の斎さんと神の斎さんとで真っ二つに分かれてしまうことなども考えられますね~」
……真っ二つ。
賽原・斎(人)と賽原・斎(神)のふたりに分かれるというのであればまだわかるが、豊受大神の言い様だとまるで頭からメリメリと引き裂かれるみたいに聞こえるんだけれど……。
それは勘弁だな。
「最悪の場合では~、人としての賽原・斎という存在が人世から消滅してしまう、なんてこともあるかもしれません~」
「しょ、消滅?」
「完・全・消・滅、です~」
スタッカートに謳い上げる。完全消滅?
「つまり……俺が人として生きていた二十余年が、なかったことになると……生まれてこなかったことになる、と」
「御明察ですよ~」
「おお、やったな。珍しく察しがいいぞ」
「お前ここぞとばかりに入ってくるなよ」
聞いてたのかよ。あと当たっても別に嬉しくないよ。
嬉しくなんて――
「ですので、そんな事態を防ぐための神今食なのですね~。ひとまず斎さんを神世に馴染ませて、人としての存在を保つためなのです~」
「……あの」
普通なら、考えるまでもないことなのだろう。悩むまでもないことなのだろう。折角ここまでしてくれている豊受大神に対して、恩を仇で返すような質問かもしれない。
けれど俺は、そうとわかっていても、後でどれほど非難されようとも、訊かずにはいられない。
「――俺が神になることは、マズいことなんですか」
ん~? と豊受大神は首を傾げる。問いに意図を図りかねているようだ。しかし横で意地汚く食事を貪っていた少女が、お前、と顰め面をした。
「天照大御神のところではあんなに神になりたがってなかったくせに、何を今更」
「いや、それはそうなんだけど。でもさ……もしも許されるのなら、神様になるっていうのも、いいんじゃないかなって……」
「何だそれは。遅咲きの中二病か」
「そうじゃないけどさ」
遅咲きっていう言い方はやめてくれよ。それじゃあまるで蕾はあったみたいじゃないか。
確かに天照大御神のところでは、俺が神なんて立派な、凄い存在になれるはずがないと思った。けれど、許されるのなら、神になってみたいとも思う。天照大御神も、俺が神と成ること自体には別に問題もないというようなことを言っていたし。
ほ~、と豊受大神は吐息をもらした。
「理由をお聞きしても? 人世に未練がないと?」
「未練……ええ、まあ。そうかもしれません」
未練になるようなものに、心当たりはない。
「家族や恋人、友人は? あなたがこれまで築いてきた人間関係は? あなたがこれまで積み上げてきた人生は? 神になってしまうと、それらのものを全て失うのですよ~?」
恋人はいなかったが、家族は全員健在だ。仲も、特別良いわけではないが悪いということもない。少ないながらも、親しい友人はいた。他にも、小さいながらも出来ていたコミュニティというものはあった。けれど、
「未練になるというほどでは……ありません。俺がいなくなったとしても、きっと何かが変わったりはしない。行方不明扱いになったら家族や友人は悲しんでくれるかもしれないけれど、その悲しみは百年も続かない。きっと十年だって続かないでしょう。俺が埋めていた席だって、自然と他の誰かが代わってくれる。どうしても俺がいなきゃいけない場所なんて、ないわけで」
薄情、なんだろう。けれども本音だ。
豊受大神は、何も答えなかった。細めた目で俺を見るだけだ。代わってというわけではないのだろうが、はン、と呆れたような声をもらしたのは横の少女だ。
「私が死んでも、代わりはいるもの……ってか。やっぱり中二病じゃないか」
「まあ、否定はしないけど」
これについては。
しかしコメントを聞きたいのは少女ではない、豊受大神だ。俺は豊受大神を見返す。
豊受大神は、細めた目で俺を見返したまま、しばらく何も言わなかった。穏やかな黒瞳でじぃ……と見つめられていると、だんだんと心の奥底まで見透かされていくような気がしてくる。何分そうしていたか、俺がそろそろ視線を逸らしてしまいそうというところで、ようやく豊受大神は口を開いた。
「成程~……諦念、いや、逃げ、ですか~。あなたは人の世で人として生きていくことに疲れ、諦め、逃げ出したいということなんですね~」
「…………」
疲れ?
諦め?
逃げ?
「…………」
いや、違う、そうじゃなくて。そう言おうとした。
「…………」
けれど、何の言葉も出てこなかった。掠れたような呼気がもれた、それだけだった。
想像以上に、心を抉られた。
でもそれは多分、図星だったからなんだろう。
自覚していなかった本音。そう、俺はそこまで自覚をしていなかった。
だから、絶句した。表情を失った。
疲れ。
諦め。
逃げ。
どうやら、豊受大神が見透かした通り、俺は生きることから逃げるために神になろうとしているらしい。
突きつけられて初めて自覚した、想像以上に身勝手な理由だった。
あまりにも……ショックだった。
俺は、こんなにも、ダメな人間だったのか。
そんな自覚が、痛かった。
余程顔色を失っているのだろう、横で文句を言おうと口を開いた少女は、俺の顔を見て目を丸くして思わず口を閉じていた。
豊受大神の表情は穏やかだった。箸を取り、食事を再開する。そして固まったまま動けなくなっている俺に、箸を勧めた。
焼き魚をほぐしながら、豊受大神は言う。
「そんな顔をしないでも、別に不遜だとか無礼だとか、そんなことは思っていませんよ~? 私は勿論、天照大御神も、他の神々もそんなことは思わないでしょう。ただ~……いずれにしても、神に成るなんてことは、お勧めすませんね~」
大根おろし絡めながら魚を口に運び、咀嚼し、嚥下して、豊受大神は続ける。
「確かにあなたが神に成って人世に帰ることがなかったところで、悲しみは世界のごく一部だけのもので、十年も経てば時間に希釈されているのでしょう~。絶対にあなたでなければダメという場所も、ま~ないのでしょうね~……けれど、そんな理由ではやはりお勧めできないのですよ~」
芋を口に運び、転がすようにして楽しんで、豊受大神は言う。
「神に何ができると思いますか~? これといって何かができるわけではないのですよ~。八百万の神々は世界そのもの、世界を作っているのが私たちなのです。あとは精々、参拝に来た人々に神気を授け、願いの成就を後押しするくらい。私たちは世界を支配しているわけでも~、運営しているわけでもなく~、ただ世界として在るだけなのですよ~。つまりは~――とても退屈なのですよ~」
いいです~? と豊受大神は言う。
「対してあなたが失うものは、人としての人生。あなたが今まで出会ってきた全てのものと、あなたがこれから出会っていくあらゆるものを、あなたは失うことになります~。
人でなければ得ることのできない出会いを、
別れを、
喜びを、
悲しみを、
怒りを、
楽しみを、
達成感を、
悔しさを、
爽快感を、
不快感を、
夢を、
挫折を、
希望を、
失望を、
勇気を、
恋を、
愛を、
友情を、
慈しみを、
痛みを、
辛さを、
苦しさを、
喪失を、
輝きを、
幸せを、
人を大事にする満ち足りを、
人と一緒に歩く安心を、
人とともに生きていく暖かさを、全て失うことになるのです~。
長いようで短い悲喜交々な一生を謳歌することなく、神になりますか~? 勿論、人生はあなたのものですから~、神になるというのも選択肢として十分に価値はあります~。けれど~……ときどき、神々は人々を羨ましく思うことがあるのですよ~。自分の人生に価値や、意味や、理由を見出して、自任して、煌くように生きていくあなたたちを――」
そんなことが、あるのか。神が、人を羨むなどということが。
豊受大神は、頷いた。
「人の生に生まれ持った意味や価値があるかどうかは~、誰かに授けられるものではないのです~。西方の智者も言ったそうですね~、大事なのは善く生きることだと~。生まれ出でた人間は皆白無垢なのですよ~。意味や価値は、生きていく中で自分で見つけ定めていくのです~。他者と比べる必要はありませんし、身の丈を顧みる必要もありませんのでして~」
つまりですね~。
「斎さん、あなたの人生の意味や価値は、あなたが決めていくのです~。あなたが今までもこれからも、自分の人生に最後まで全うする意味や価値が見いだせないというのであれば、それはそれで構いません~――もっとも~」
これは私見ですが~、と言いながら、豊受大神はふっと微笑んだ。
「斎さん~、あなたの今までの人生はいろいろありましたよね~。辛いことも苦しいこともいろいろありました~。いっぱい頑張ってきましたね~。今のあなたが人として生きているのは、あなたがずっとたくさん頑張ってきたからなのですよ~。
全ては無駄ではなかったし、無為にはなっていないのです~。あなたは決して、漠然と生きてきたわけではないのですよ~。
将来に対する不安もあるでしょう、先の見えなさに恐怖もあるでしょう。けれど、あなたがずっと、ちゃんと頑張ってきたことを神々はちゃ~んと見ていましたし、知っています~。だから、過度に悲観することや、卑下することはないのですよ~。大事なのは、あなたが本当の意味で自分を見つめて、自分を見つけ出すことなのですから~」
そういうわけで~、と豊受大神はまとめるように言う。
「不遜な動機だから、神になる資格はないとか、そんなことは全くありません~。人に戻るでも~、神に成るでも~、斎さんのお好きな方を選ぶのです~。ですから、これからの旅の途上で考えてみるといいでのですよ~。時間はいくらでもあるのですから~、今すぐに答えを出さずとも、朱印を全て集めた上で、どうするか決めるといいのです~。その後でも神と成ることはできますから~」
いいですね~? と豊受大神は優しく笑んだ。俺は。
「……はい」
小さく頷いて、箸を取り、米を口に含んだ。
噛む。
これだけ時間が経ってしまっていても、全く冷めることなくほかほかと柔らかなままの御飯は、とても優しい味がした。
俺は、大それた苦労なんてしていない。ちょっと周りを見れば、俺より余程辛い目に遭っている人はいくらでもいるんだろう。
けれど、その人たちは俺じゃない。俺はその人の苦しみを知ることはないし、その人たちが俺の苦しみを味わうことはない。
確かに俺は、苦しんでいた。もがいていた。先の見えない不安に苛まれて、押し潰されそうになって、諦めて、何もかもを捨てても構わないとさえ、思っていた。けれど。
神様は、全て見ていて、知っていた。俺が、俺の苦しみの中でもがいていたことを。
頑張っていたことを。
何の努力もしない人間を助けてくれるほど、神様だって助けてくれたりはしないだろう。
俺は、神様に助けてもらえるくらいに、頑張れていたのかもしれない。
そんなことが、胸に沁みた。
んん? と横の少女が俺の顔を覗き込んできた。そして、おやおや、と悪辣な笑みを浮かべる。
「何だお前、泣いてるのか?」
うるさいな、ほんとにお前、空気読んでくれよ。
泣いてなんか、いるもんか。