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災害遺構2 『一級建築士 被災地を行く 』

作者: 北風 嵐

p1

私、多村克茂は1級建築士である。神戸生まれ、神戸育ち、今も神戸で住んでいる。身長1m80cm、体重90kg。高校時代から大きかった。相撲が好きで、水戸泉という力士が贔屓だった。その優しそうな風貌がなんとも好きだったわけで、大阪場所が来ると稽古場によく見に行った。

「僕、そんなに好きやったら、相撲取りにならへんか」と誘われた。

「僕大きいけど、力が全然ないんですわ」と答えたと言うと、父は「男やろぅ、情けない答えを返すな!」と言ったけど、無いものはしょうがない。


 大学は私大の文学部心理学科を卒業している。別に文学や心理学に興味があったわけでない。偏差値的にそこしかなかったのである。それでもその大学は心理学科の教授陣はいいと評価を得ていたのである。

 地理クラブ、適当に旅行出来る、一人で旅行してもつまらないが選んだ理由。部長もしたりして、キャンパスライフを楽しんだ。お陰で、どこの就職試験にも落ちた。落ちたというよりほとんど寄せてもらえなかった。


 仕方なしにパチンコ屋のアルバイトを2年した。何となくこのまま行きそうになって怖くなったので、建築専門学校に入った。なんか資格を取れば就職出来ると考えたからだ。2年行って建築士2級を取った。就職先は小さい土建屋に毛が生えたようなとこしかなかった。またパチンコ屋のアルバイトをした。

 

 父に「ええかげんにせぇー!」と叱られた。勢いで「1級建築士目指してるんや」と言ってしまった。2級はなんとか取れる。1級となると数段難しい。物理や数学の基礎学科も半端でないし、構造設計や専門科目、おまけに設計製図の実技まである。

 勢いとはいえ、後悔した。「男や後には引けん」と建築学校の1級のコースに行き直した。1年勉強して何とか受かるかと思ったが、耐震強度偽装問題(姉歯事件)が起きて問題がかなり難しくなっていた。

 又、パチンコ屋でアルバイトしながら、翌年受験、何とか合格。そして建築事務所に2年就職。同じなら早いほうがいいと独立、自分の事務所を持った。事務所と言っても自宅マンションが事務所である。今のご時世、最初からそうそう仕事があるわけではない。もっぱら銀行に勤める妻の収入に頼っていた。子供の保育所の送り迎えは当然しなければならない。


 設計依頼だけではやっていけない。それでマンションの購入時のアドバイザーを加えた。何千万もする購入を素人が業者の話だけで判断しなければならない。耐震設計は、環境配慮は、契約条項は、インテリアの相談にも乗った。これは受けた。そして人的な繋がりも増え、設計依頼も徐々に来だした。

 そんな時に、保育所の設計依頼が舞い込んで来たのである。娘の行っている保育所の園長の友人が新設の保育所を運営することになったのである。よくぞ、保育所の迎えに行っていたことかと思った。


 設計に当たり、娘の保育所の先生に色々聞いた。先生方の一番の関心は「安全」であった。何かあると、一番困るのである。娘に聞いた。何しろ利用者である。聞いたと言っても何しろ年齢が年齢である。模型を作っては、それに話を加えた。目の輝きや、表情や、ポツンと喋る一言から判断するしかない。

 利用者の喜ぶのは安全と限らない。管理者と利用者の意見が食い違うのはどこでも同じことである。


 徹底して利用者目線で設計してみた。勿論適度な安全にも配慮しながら、何より依頼者の1番喜ばれる費用についは最大限考慮した。斬新で暖かみもあってと評判になった。

 次の依頼も保育所で、気仙沼であった。どうして気仙沼か?保育所は流され潰された所は多い。その中で保育所を2つ持っていたところが、ネットで見て、見学に来て気に入ったのだ。2つとも是非にということであった。

 特に気にいってもらった所の一つに、部屋の中に中2階を作ったことだ。園児の身長なら普通の天井高で作れる。空間の有効利用である。大人でもそうだが、幼い子は特にこの中2階を好む。どう使うかは先生次第。


 当然、現地を見て設計すべきである。また、建設に着工しても、工程管理、監督の責任はつく。思わぬところから被災地に行けることになった。建築士でなくても今回の震災は誰もが関心を持って見ているものである。まして、仕事柄、興味、関心は特別なものがあった。

 実は神戸の震災を高校時代に経験しているのである。見慣れた三宮の大通りに、ビルが昼寝しているように寝転がっているのには驚いたし、高速道路が崩壊し、バスが半分折れたところから乗り出しているのを見て、よくぞ助かったことと自分のことのように思った。

 その後の復興の過程も見聞した。懐かしい風景が失われ、見知らぬ街になっていく寂しさも経験したのである。そして、コンクリートや安全神話に不信を持ったのである。だからと言ってそれが建築士になった動機ではない。


 仕事からだけでなく、もう一つ被災地に行ってみたいと思っていた動機に、父が書いていた文章にある。父は先年亡くなったが、投稿サイトに小説らしきものを投稿するのを趣味にしていたようである。その中に『津波・春の旅立ち』という作品があった。

 父らしき男性と風俗嬢の恋愛らしきことが書かれてあって、主人公の女性が気仙沼出身で、故郷の被災するありさまを見て、故郷に帰る決意をするという物語である。何となくこれは実話であると、息子の直感で思った。父が最後に好きになったその女性はどんな女性だろうと思ったのである。名前は多分、源氏名だろうし、そこに書かれている以外、手がかりはない。


p2

気仙沼駅には保育所を運営する園長が迎えに来ていた。神戸に見学に来た時に会っている。年齢は30半ばだろうか、綺麗な人だった。上品さと親しみ易さが同居している不思議な魅力がある。娘を迎えに行く保育所の園長もかようであったらと不埒ふちらな思いが浮かんだ。車で市内を案内して貰った。真っ先にあの共徳丸に連れて行って欲しいと頼んだ。

 解体途中だった。「何だか、寂しいなぁー。どうして残さないんだろう?」と言うと、園長は、「そう思われますか、友人が小学校の先生しているのですが、今回の災害についての作文なのです」と言って、一冊のノートを開けて見せてくれた。


小学3年 〇〇信夫


ぼくのおうちから


きょうとく丸が見えます。


ぼくが大人になって つなみがきたら


あの船をみて まっさきににげます。


みんなにも にげろといいます。


「百の言葉より、実物は一言で語るですよね。子供って素直に切り込んで来ますね」と園長は笑った。


 次に内湾地区に車をやってもらった。この地区は震災前、港町の雰囲気を伝える気仙沼市の「顔」で、海の玄関口としてにぎわっていた。今は見る影もない。

 今、高すぎる防潮堤計画が町づくりの足かせになって問題化しているのである。同地区一帯を、海抜5.2メートルの高さの防潮堤で囲う計画が昨年7月、県から住民に知らされたのである。これに対して「景観が台なしになる」「海が見えなくなるので、かえって危険」との反発が住民から湧き起こった。(住民側は3.8メートルを主張)

 

 生鮮カツオの水揚げ量全国一で知られる気仙沼の観光客数は震災前、年間160万を数えている。防潮堤の高さを下げたシミュレーションに基づくと、内湾地区の大部分が「災害危険区域」(=浸水区域)に指定され、そうなると現行法では、厳しい建築制限が導入され、建物の1階部分での居住が困難になる。防潮堤の高さが決まらないと町づくりも進まないのである。


 鮪立漁港や小鯖漁港でも、9.9メートルの高さの防潮堤建設計画に対して住民側は5メートルを主張して対立している。大島の小田のこだのはま地区は人気のある海水浴場があるが、高さはさらに高く、11.8メートルである。もはや、城郭である。

 気仙沼市の復興タイトルは『海と共に生きる』である。海をめぐって県と住民側の意見が合わず、市は中に入って苦慮し、村井知事にもう少し柔軟な姿勢を求めている。


 東南海地震も言われている。私は何だか日本中の海が高い塀で囲まれそうな気になってきたのである。万里の長城との異名を貰った宮古田老地区の高さ10米の防潮堤は壊された、約30年の整備期間と総事業費1200億円以上をかけて2009年に完成した釜石港湾口防波堤も津波を防ぐことは出来ず、破壊され甚大な被害を受けた。復旧に500億円を要する。

 住民側はこれらを例に上げて「高ければいいと言うのではない」と主張しているのだ。行政側は津波を防ぐ発想ばかりで、海と共に生きる暮らしが人々にはあることや、生きてきた文化があることが忘れられているように私には思われた。硬いのはコンクリートだけにして、発想は柔らかく、建築やその分野にあるものは注意しなければと肝に命じた。


 肝心の保育所の建設場所を見に行った。一つは高台地区に建っているもので、老朽化してきたのでこの際建て替えたいとのことである。高台から見える海は美しく、園児たちは毎日この海を見て遊び育つ。やはり住民の側に理があるように思われた。もう一つは被害にあって、平坦地にある代潜地に新たに建てるものである。

 2階建てを言ったら、「何があるかわかりません。大丈夫と思うのですが、平坦地ですので、何かの時に避難場所になるように一部に高いところを作って下さい」と園長は言った。ヨーロッパのお城の様な塔がいいと思った。前から作りたかったのだ。子供たちもきっと喜ぶだろう。


 その夜は園長が予約してくれていた『ホテル望洋』に泊まった。ここは高台にあり、被害には遭わなかったが、被災者を50日間受け入れ、共に生活をしたところで、今も何人か被災者も住んでいて、復興支援ホテルとして、工事関係者やボランティアが多く宿泊している。

 なんといっても、カツオ、マグロの刺身が美味く、地酒も良かった。旅の疲れもあって、ぐっすり眠れ、気持ちのいい目覚めであった。


p3

あくる日は南三陸町防災庁舎を見に行った。気仙沼線は一部不通なのでBRT(専用軌道を走るバス)で行き、志津川駅で降りた。いきなりむき出しの三階建ての赤い鉄骨が見え、痛々しかった。ぎりぎりまで防災無線放送で繰り返し住民に避難を呼びかけ続けた女性が犠牲者になった話は美談として有名になったが、悲しい話である。屋上2メートルまで津波が押し寄せ、かろうじて市長を含む11名が生存しただけで、43名が犠牲者になり、役場職員39名を失うことになったのである。

 

 遺族の2名は市長が高台へ避難させず、庁舎に留まらせたのが原因で町職員らが犠牲になったとして、業務上過失致死容疑で市長を告訴している。市長は当初は保存の方向であったが、その後、解体・撤去に方針が変わった。市長は自らも生死の危機を味わっている。いい加減な気持ちで保存を言ったのではあるまい。変わった理由は何故だろうと考えた。


 私はそれより南三陸町で知りたいことは、高台移転の問題であった。南三陸町は時の政府(民主党政権)の高台移転に一番に手を上げたのである。津波で被災した沿岸部の22地区の市街地・集落を移転するために28の高台造成地を2015年度末までに整備する計画を立てた。


 時の首相、菅直人が高台移転を政策として言ったとき、なんと軽々しくせっかちに言うことかと呆れたのである。津波⇒命⇒高台というアホみたいな短絡思考である。評判通りの空き缶のカッラポさかげんに呆れたのである。

 三陸は幾度も津波を経験してきている。それでも海傍に暮らしてきたことを考えたことがあるのだろうか?所によって異なる地形、莫大な予算と時間、労力、利害の調整、自治体の力量、何よりその間の人々の暮らしがある。それらを総合して考えねばならない。

 いくら空き缶でも一国の宰相ではないか、一言言えば政策になり、政策になれば予算がつく、予算がつけば動き出す。動き出せばもう後戻りは出来ないのがこの国だ。

 

 進捗状況を知りたいと思ったのだ。役場に行ってもネットを見てくださいか、パンフを貰って帰れと言われるのがオチである。それを園長に言うと、「私の従姉妹の旦那が役場にいるから手を回してみる」と言ってくれたのである。

 仕事終わってからであるから、なんならこちらで泊まって貰っていいと言われ、恐縮した次第である。名前は伏せる。Bさんは9時に帰って来た。これでも、早い帰りだと奥さんは言った。こちらは、先にお風呂を貰い、食事もし、ビールまで呼ばれてしまっているのだ。更に恐縮した。Bさんは風呂を浴びたあと食事をし、私にもビールを次ぎながら話してくれた。


「大変でしたね」と言うと。

「ああ~、被災のこと、丁度、県庁に出向いていてね、僕は、被災は免れました。みんなに悪くってね。倍働いたって申し訳ないや」と言ってから、私の質問に答えてくれた。


p4

「今、一番大変なのは?」


「応援の職員もこの時期帰り出して、手が足りないのが一番です。ともかく、所轄官庁への書類提出に明け暮れているのが実情です。関連する所轄は50近くあるのです。不備があればただ突っ返すだけです。普段と違うのです。不備ならそっちで直してよって言いたいですよ」


「復興庁が出来ましたね」一本化されるのでは?の思いで聞いた。


「出来たのはいいけど、先日担当者が来て、何分出来たばっかりの組織なので、資料を読んで勉強してからってぬかすの。ああ~、また初めからだと皆でガックリでした」


「高台移転の予算は全額国庫負担になりましたね?」


「ええー、そうでないと私らの小さな自治体はやっていけません。住民の皆のまとまりがある内にやらねばなりません。スピードが肝心なのです。最初からそう決めていてくれていたらね」


「これからの1番の問題は何ですか?」


「予算の目途は着いたのですが、今度は長引く中で住民が苛立ち、被災していない近隣自治体に離散していっているのです。特に私の町は平坦地がなく、仮設を隣の登米市に建設したのですが、そこで暮らし始める人が出てきているのです。1万7千人の町ですでに1割ほどが離れて行き、残っている住民にアンケートを取ると2割近くが他に住む予定に○が入っていることにショックを受けました。しかもその予定者はほとんどが働き盛りの所帯です。このままでは新たな町は出来たけど、住む人のいない町になりかねません。たとえ残っても、老人ばかりの町になってしまいます。計画の進捗状況は28地区のうち、5箇所だけです。計画ですよ、計画が出来て、これからかかるのがたった5つですよ。三陸全体でも計画の進捗は1割に過ぎません。高台移転に熱心な自治体ほど離散率が高いって皮肉ですよね」と、尽きない悩みをBさんは自嘲気味に語った。

 何かと言うと、官僚の横暴、お役所仕事と言うが、小さな自治体職員の働きには被災以降頭が下がる思いである。しかも自らが被災者でもあるのだ。


 ちなみに、これにかかる予算は1400億で、当初はその四分一の350億(町予算の5年分)が町負担になっていた。他県の人は住民に土地や家が与えられると思っている人もあったりするが、全て自己負担である。旧居住地の買い上げと、(買い上げ金額は不明、浸水地域として評価は低いだろう)一定額の範囲の利息が援助されるだけである。

 高台移転の最大のネックはその予算規模の大きさと、かかる時間だと思っていたことが残念ながら当たってしまった。


p5

私は都市計画の専門家ではないが、関心は高い。このように考えている。


 三陸は幾度も津波に合い、被災を体験してきている。それでも海傍に何故町を作り続けてきたのか、それは海が限りない幸を分け与えてくれたからではないか。山の頂上まで段々畑を作る民である。人力か機械かの違いはあるが、高台に住居を作る技術がなかった訳ではない。高い防潮堤といい、高台移転といい、そこのとこを考えていない。高いところに住みたいと思うのは人情である。しかし、気持ちと現実の生活とは異なるのである。

 

 私の最大の疑問は、役所は一律に網をかける。旧被災地区には一切建物は立てられない。(小屋や、倉庫の人の住まない仮設はいい)。神戸でもそうだった。計画者にはそれがベストであろう。しかし戦後の復興は、戦災の跡地に粗末なバラックを建てるところから始まった。もはや戦後ではないと言ったのにかかった時間は10年である。

 

 10年の期限付きで、元の所に仮設でいいから人が住み、元のように商売をし、工場で物を作り、海で漁をし、人の暮らしを始めるところから始められないのか。住む人を離さないのが先だ。千年に一度の津波ではないか。明日かも知れない。千年先かも知れない。一度来てしまっているのであるからその分リスクは少ないとも言える。そんなこと言っておれば、東京などは今すぐどっかに移り住まねばならないことになる。

 

 10年の間に町づくりを考え、他の所に住む、高台に住む、元の場所に定住するを決めればいい。高台に住むところと、平坦地の元に住むところと二つ町が出来てもいいではないか。その間海側には避難ビルの建設でしのぐ。それでも千年に一度が来たら、人々は逃げることには一流になっている。安上がりで、人々の活気を持った復興が可能なのではないかと…。

 高台移転の復興計画書を見てみると、住居は高台、リスクのある海傍の平坦地(嵩上げはする)には水産加工場や工場の業務地域とする。津波は夜来るとは限らない。昼間来たらそこで働いている人たちが犠牲になることにかわりはない。残るは高台の老人と幼子だけになりはしないのか?単純な疑問である。

 

 海を今は敵視していないか、千年に一度の津波に立ち向かうことに必死になっていないか?防ぎきれない災害もあると考える。ある以上それを柔らかくかわす、減らす。高くして波に向かうだけでなく、波を逃がしてやる、分散させるの発想はできないのだろうか。それが言われている減災思考ではないか。いつからこの国はすぐにコンクリートと土木の発想しか出来なくなったのだろうか。


p6

今回の災害は想定外であったがゆえに学ぶことは多い。しっかり学んでそれを活かす方にお金を使えないか。例えば今回、車で避難した人は5割を超える。しかるに国の避難基準は原則徒歩避難以上には出ていなかった。


園長が見せてくれた作文にこんなのがあった。


小学校5年生 ○○健太


僕のおうちには


車があります 車椅子です


玄関に置いてあります


おばあちゃんは まだ必要ないわよと不機嫌でした


いずれいるようになるとお父さんは言いました。


津波がきたとき おばぁーちゃんを乗せて


ぼくが押して 避難しました。


お父さんは偉いなーというと


「そんな積りやなかったんやけどなぁー」と


苦笑いしました。


参考になると、私は書き写した。


 車で避難は今回の災害だけでない。北海道南西沖地震47% 十勝沖地震74%である。車で避難した理由として、こんなデーターがある。「車で避難しないと間に合わないと思ったから」が34%と最も多く、次いで「家族で避難しようと思ったから」が32%、「いつも移動には車を使っているから」が23%、「安全な場所まで遠くて、車でないと行けないと思ったから」20%である。項目になかったが、「被災後に車が必要だから」があるだろう。既に車は人の足である。


 家族で避難は多分、高齢者や傷病者や幼い子がいる家だと想像できる。高齢者のいる家に車椅子を置いておくだけで、この車で避難の比率はかなり減らされるのではないか。いずれいるものである。行政が補助したからといっていくらの費用がいるのだろうか。

 車は特に地方では既に人の足であるのだ。原則禁止ではなく有効な指針が必要だ。車で災害に遭った一番は踏切の渋滞であった。予め車での避難経路を決めておき、そこを立体交差にしておけばいい。車を使う予定、使わねばならない人を入れた合同の避難訓練も必要だろう。人命が助かる方策は一杯あるのだ。


「何が何でも高台移転にこだわることがないのではないか」と疑問を呈すると、

Bさんは「うう~」と唸ったあと、「駄目です。もう走り出しているのです。予算が付いているのです。予算がないと何も出来ないのです」。一旦ついた予算は変更出来ないのがこの国のシステムなのである。

 私の住んでいる街に駅前再開発の計画ができたのが30年前、近隣駅の方が発達してもうその必要がなくなって、計画は消えたのかなと思っていた。地権者との調整がついて、それが実行されることになった。呆れるを通り越して、尊敬の念すら覚えた。


 最後に防災庁舎の保存*に市長の方針が変わった理由を聞いた。

「財政です。復興を進めて行けばそれどころでなくなったのですよ。住民の感情は都合が良かったのです」。

 Bさんは本音で話してくれ、「参考になりました。保育所が出来上がったら見に行きますよ」と言ってくれた。小さな自治体の職員の奮闘に敬意を込めてBさんと握手して別れた。


p7

宮古市田老地区は、陸中海岸国立公園内にあり、優れた景勝地をもつ観光とアワビやウニなどの磯漁業のほかワカメ、昆布などの養殖漁業が盛んな漁業の町で、サケの水揚げ量が多く『さけの町』としても知られている。 人口4千5百人程である。


 田老地区では家屋435戸が流出し、200人近い死者・不明者を出した。田老地区では明治三陸地震(明治29年)、昭和三陸地震(昭和8年)の2回の大きな津波被害を被った。昭和三陸津波による田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32%)と、三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪であった。昭和三陸では集落の高所移転が政府方針であったが、海岸から離れては主要産業の漁業が困難になるという問題もあった。そこで当時の村長以下、村当局が考え出した復興案は高所移転ではなく、防潮堤建造を中心にした計画であった。


 昭和9年から防潮堤を建設し、昭和33年に完成した。三陸沿岸で被害が発生したチリ地震津波(昭和35年)では防潮堤が功を奏し、三陸の他の所より被害を最小限にとどめることが出来た歴史を持つ。その後も増築が行われ、実昭和41年に最終的な完成を見た。総延長2433メートル、高さ10メートル、万里の長城の異名を持った。しかし、東北地方太平洋沖地震の津波の高さは防潮堤を上回るもので、防潮堤を破壊し、田老地区は壊滅状態になってしまった。

復興計画は、高台移転地区と嵩上げ地区の2本立てである。


 防災意識も高く、避難路も整備されていたが、地震発生後3分後の高さ3メートルの発表(15時14分には予想10メートル以上に修正、28分最大波がやってくる)や、チリ地震に対応した高い防潮堤が返って逃げ遅れの原因になったとしたら皮肉な悲劇である。地震の揺れから最大波まで30分以上もあったのである。


 破壊された田老地区の中に立っているのは『たろう観光ホテル』*だけである。6階建ての同ホテルには津波が4階まで押し寄せ、現在は1階と2階部分の骨組みがむき出しになっている。市が貴重な建物として保存を決め、国の支援を求めている。

同ホテルの6階では、観光ホテルの社長、松本氏がホテルの同階から撮影した津波の映像(報道関係者、マスコミには未公開)が松本社長の解説付きで流される。

窓から、破壊された街と、その向こうの海が見える臨場感は、見る者の胸を打たずにはおかない。


 他にも見ておきたい所はあったが、保育所の件で度々来ることがあるだろうから、切り上げて帰ることにした。色々と尽力願った園長にお礼を兼ねて食事に招待した。

 昼間の仕事の時と違ってドレスアップした姿に別人を見るようで、私はしばし戸惑った。私は見てきた感想を語り、彼女は被災後から今までを手短に語った。

「私たち、保育所の話ほとんどしてませんね」と彼女は笑った。

 もう一つの目的、手がかりもないし、最初から諦めていたのであるが、父が書いた小説の中の彼女のことを聞いて見ようと思った。一番は父の書いた冊子を見てもらい、「こんな女性に心当たりありません?」と聞くしかない。


 手渡された冊子を読み終えた彼女が言った言葉は意外なものだった。

「これ、私です。お父様は亡くなられたのですね」

私は驚いて、しばし言葉が出てこなかった。

「お父様が、あなたを遣わし、私に冊子を届けられた。なんと運命的なことでしょう」

と彼女は感激に震え、私の手を取って、ポロポロと涙を流した。


 被災地に帰って来てからの、困難。そして応援してくれる人たちとの出会い、保育所を任されるようになった経緯を彼女は堰を切ったように話した。私はその話を、感動を持って聴いた。そしてその話を父のようにいつか文にしたいと思った。

 懸命に復興に向かう人々から色んなことを学んだ。また、思わぬ出会いもあった。

彼女が言う、シンシンと降る雪の気仙沼はどんなだろう。父は見れなかったが、私は今年の冬に見れるだろう。私は気仙沼を後にした。


p8

私は神戸に帰って来てから、保育所の設計にかかった。

高台にある方は思いっきり海に向かって開放された造りにするとして、平坦地に立つ方はどうしたものかと考えた。


 避難場所にもなり得るように、高い部分もと園長は言った。その時は西洋のお城の塔を思い浮かべたが、被災地の遺構を見て歩いた後は、西洋がイメージではなくなった。やはり、津波や災害からのイメージが強すぎた。子供たちにも夢があって…避難場所にもなる。どのように考えたらいいのだろうか?

 マンションの窓からは神戸の海が見え、港に停泊する外国船が見える。考えに疲れた時はタバコの煙をくゆらせながら、ボーとする。妻から言わせると、手が動くよりその方が多いらしい。


 私は業者との打ち合わせで、2回目の気仙沼に出向いた。園長の顔を思い浮かべ、彼女が喜ぶものが造れると思った。

 正月も終わり、寒気が東日本を覆い、雪景色がテレビに映し出されていた。東京を過ぎ、栃木県に入れば雪景色であった。気仙沼はかなり積もっており、園長が車で迎えに来てくれていた。


「寒いでしょう。今年一番の雪なんですよ」

「雪の気仙沼を見たかったから、良かったです」


「園長、いいものを作ります。少し高くなりますがいいですか?」

「大丈夫ですよ。私についている人は気前のいい人ですから」と、園長は悪戯っぽく笑った。

「どんなものです?」

「出来てのお楽しみにして貰えませんか」。

ウンと言ってくれるだろうかと顔を伺うと、

「じゃー、楽しみにしています」と園長はあっさり答えた。

 私は変わった人だと思った。何しろ、被災して明日の食べ物も、寝るところも無いかも知れないのに、西の国から帰ることを決意した人だ。


 私は業者にも一切出来上がるまでの口外を禁じた。さらに外から見えないように幕を貼った。人々は保育所の建設にしては仰々しいので、野次馬根性で「どんなのが出来上がるのだろう」と興味津々であった。

 突貫工事で、4月の入園式に何とか間に合わした。出来上がり、幕を取って現れたものに関係者のみならず、興味を持って見ていた人たちも一斉に驚いた。出てきたのは第18共徳丸そのものだったのだ。


 びっくりした顔の園長に、私は少し得意げな気分で話した。

「なくなったものなら作ればいいのです。これしか浮かばなかったのです。小学生のあの作文が忘れられなかったのです」と言って、あのメモしたものを読み上げた。



ぼくのおうちから


きょうとく丸が見えます。


ぼくが大人になって つなみがきたら


あの船をみて まっさきににげます。


みんなにも にげろといいます。


「避難にこれほどピッタリの言葉はありません。そして子供たちは船が好きですし、船室風にした教室はキット気に入ると思うのです。気仙沼は『海とともに生きる町』ですから、船はシンボルたるものです。甲板から上は避難場所になります。ダメですかね」

「ダメも何ももう出来上がっているんでしょう。私、園長ではなく船長と名乗りますわ」と、園長は克茂に向かって、笑顔で敬礼をした。

「新しい船出ですね」と、私も敬礼を返した。


 岡崎由美子は復活した共徳丸の新聞記事の写真を見て、大変に喜び、記事を切り抜きスクラップ帳に貼り付けた。


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