災厄の魔女の話 魔女の右片
私にとって、どうにもこの世界は難易度が高い。
自分の正しさには自信があるが、世界はそれを受け入れてくれはしない。
それは例えば今この状況にしてもそうだ。私は今わりと高地の山奥に居るわけだが、この状況も不満だらけだ。初夏の木漏れ日の中、優雅にベンチに腰掛けて読書しているからといって、私は全く納得できていない。
私は間違ってはいないと思うのだが、それでも私の考えは受け入れられず、私はこの人里離れた研究施設に隔離されてしまっている。理由は簡単で、それはこの世界が理不尽だからだ。
つまり何が言いたいかといえば、私はこの世界が嫌いだ。
周囲の人間とは相容れないし、どこにいてもなんとなく居づらさのようなものを感じる。私は間違っていないのに、なぜ私が居づらさを感じなければならないのか。
そして、同じように理不尽さを感じているはずの人が、それに憤ることなく、不平不満を言うわけでもなく、諦めたように受け入れているところが、私にとっては不満だった。
「アス、検査だよ」
声をかけられ顔をあげると、三メートルほど先に彼女の姿があった。
蓮見はるか。
私と同じように、彼女もまたこの施設に隔離されてしまっている、私の幼馴染。
「怠い」
再び文庫本に目を落とし「かわりに受けて」と言うと、彼女は「私はもう受けてきたの」と言って苦笑する。別に冗談を言ったつもりはないのだけれど。
「スカート、珍しいね。似合ってる」
不意にそう言われ、一瞬心臓が跳ねたように感じる。「似合ってる」と言われただけでこんな心持ちになるのは心当たりがある。「暑いから」と努めて冷淡に切り返し、読んでいた文庫本を閉じた。
「三十一度だって」
たぶん今日の最高気温なのだろう。山奥と言えど、そんな気温になるのかと辟易する。
建物の中なら幾分ましだろう、ついでに検査も受けてやるか、など考えながらベンチから立ち上がる。改めてはるかの顔を伺うと、彼女の髪型が気になった。昨日までセミロングくらいのストレートだったはずが、前下がりのミディアムボブみたいになっている。
「これ?」
と私の視線に気付いたのか、彼女が毛先で手遊びながら問うのでこくりとうなづく。
彼女は笑いながら「さっき佐藤さんにしてもらったの」と答えた。佐藤さんと言うのはこの施設の若い女性職員で、驚くことに美容師の資格を持っている。私もたまに髪を切ってもらうのだが、はるかのように洒落っ気がないのでいつも適当なショートにする。
「どう、かわいい?」
はるかの上目遣いは、すごい破壊力だ。
思わず一歩近づいてしまうが、「っと」とはるかは逃げるように一歩下がった。
「どしたの?」
なぜ近づくの?というはるかの問い。
それは、拒絶ではない。別の理由があるのだが、やはり私は寂しく感じてしまう。
「近づかないと、可愛いかわからないわ」
露骨に不満を露わにするが、彼女は可笑しそうに笑っている。
「大丈夫、この距離でもアスの可愛さはよくわかるよ」
なんて、そんなことを言われた。その言葉は先ほど「似合ってる」と言われた時よりも直接的に私の心を揺さぶった。その気持ちを誤魔化すために、顔をできるだけ不満そうに歪める。
そんな気持ちを見透かすかのようにはるかが笑うので、恥ずかしくなって顔をそらした。そんなところまで見透かされそうで、誤魔化すように研究棟のほうに歩きだす。
歩き出した私のあとを彼女がついてくるので、「ついてくるの?」と尋ねると「検査のあと、検証だって」と彼女から告げられる。
思わずため息をついてしまった。検査だけでも怠いのに、またくだらない検証に付き合わされなければならないのか。
「いつまで、こんなに意味の無いことばかりするのかしら。あの日以来、一度も起きてないのに」
ついぼやいてしまう。このくらいの愚痴は許されるだろう。
「意味の無いことがわかることに、意味があるの」
はるかは笑っている。
「それに、もしかしたら私達にとって、とても大切な発見があるかもしれないでしょう?」
彼女はそう言うが、私は「だといいけど」と言ってもう一度ため息をこぼしてしまう。
彼女は私と同じような立場だが、あまり不満はないらしい。私なんか、もしはるかが居なかったらすぐにでもこんなとこ出ていきたいと思っているのに。
いや、少し違うか。
この施設での生活自体には大きな不満はない。不満があるのは一つだけ。
私は自分の左手に目を落とす。正確には、左手首にはめられた白いプラスチックの腕輪である。
『アスちゃん、検査だよー』
折良くなのか、腕輪から声が聞こえた。腕輪にはスピーカー機能もついているので、小さな穴が開いている。そこから聞こえてきている。
さっきの声は佐藤さんのものだ。こうやって何か私やはるかに用事があるときに使われることがある。
しかし、この腕輪の本来の目的はそんなことではない。
この腕輪ははるかもつけているのだが、簡単に言うとこの腕輪で私たちを見張っているのだ。
それは、私たちが隔離されている理由でもある。
それは三十年くらい前に見つかった現象で、一部では『魔法』と呼ばれる。いわゆるネットスラングってやつで、正式な名前は付いていないらしい。
契機は簡単、二人の人間が触れ合うこと。
現象は複雑、周囲に何らかの物理的な影響が及ぶ。
これくらいのことしかわかっていない。
例えばちょっと肩がぶつかっただけで周囲の五人くらいが火だるまになったとか、握手をしたらガラスや花瓶にひびが入ったとか、手を繋ごうとしたら五〇〇人くらいの頭がはじけ飛んだとか、まあそんな話。
詳しいことは私も知らないどころか、たぶん世界中のだれもが知らない。ただいま検証中の現象だが、進捗は芳しくないそうで。
今まで人間が見つけて名前を付けてきた物理法則とは大きく異なるのだから仕方ない。ネット上で『魔法』などと呼ばれるのは、未知なる法則への期待というよりも、どちらかというと理解できないものに対する諦念から来るものかもしれない。
その『魔法』を引き起こしてしまう二人、『魔法使い』と呼ばれる二人には全く共通点はない。
今まで発見された『魔法使い』は老若男女、血縁の有無から育った環境までバラバラで、相手を入れ替えたりすると発生しなくなる。
つまり魔法使いになるのは。運命の二人ということだ。
一説によると世界中のすべて人間が『魔法使い』だが、パートナーに出合っていないだけだとする主張もあるらしい。たぶん根拠はないのだろうが。
私とはるかはこの『魔法使い』のペアだった。国内ではたしか三番目に見つかった例で、世界的には九十八番目くらいだったかな。
もともとは幼馴染で、同じ女子校に通っていたのだが、ある日私がはるかに触れた瞬間に『魔法』は発現した。
五〇〇人くらいの頭がはじけ飛んだ、らしい。国内の『魔法』被害としては過去最低の数値だそうで、海外でもあまりない。
私たちの情報は世間には出回らなかったが、一番被害者が多い場所が女子校だったため『魔法使い』も必然的にその女子校の生徒だろうと推測されている。
過去最低被害の『魔法使い』の女子高生。
『災厄の魔女』。
それが世間が私たちに与えた渾名だ。なんの咎もない人間が背負っていくには、すこし重い。
事故のことを、私はともかくはるかは随分と気にしていたようだ。彼女はとても優しいから、事故が自分のせいだと思っているのかもしれない。
事故のあと、私たちはこの山奥の研究施設へ隔離された。たまに検査や検証に呼ばれ、『魔法』の解明に協力している。
ここでの生活は悪くはないのだけれど、ひとつだけ制約がある。
それは、はるかと触れ合わないこと。
この白いプラスチックの腕輪はペアリングされていて、常に私たちの距離を測っている。その距離が二メートル以下になると、この施設中にけたたましいアラートが鳴り響く。その後は取り押さえられて引き離されるらしいが、場合によっては私たちは殺されることもあるらしい。
到底受け入れがたい話だ。私たちの自由はどうなるのか思うのだけれど、はるかは仕方ないと受け入れていた。
何が仕方ないものかと思うのだけれども、はるかが受け入れるのであればと、私も止む無く従った。
だから私たちの距離は、常に二メートル以上の間隔を開けている。はるかが髪型を変えた時にも、近づいて眺めることはできない。
何人死のうが私たちには関係ないと思ったことは一度や二度ではないし、なぜ彼女なのかと運命を呪ったことは十回や二十回ではない。
「アスちゃん」
と呼ばれ、そちらを向けば佐藤さんが近づいてきた。研究棟の一階には誰もいない。ひんやりとした空気があふれていることを期待したのだが、棟内は外気より幾分ましくらいの温度だった。
「まずは血液検査ね、いつものとこ」と言って、「いつものとこ」を指でさし示す。示されたいつも採血や採取で使う部屋では、いつもの年配の看護師の女性が待っていた。
左腕をアルコール消毒する看護師さんに「アスちゃんはいつも血管見つからないねぇ」というよくわからない感想をいただいた。何も言わず黙っていると「はるかちゃんはすぐに見つかるのよ」と笑いながら言っていた。よくわからない。
採血のあと、後髪の毛と爪の欠片を採取していた。また別の検証に使うらしい。
その後少ししてから佐藤さんが顔を出した。
「終わった?」と聞かれ「わからない」と答える。何を採取するのか知らない私に終わったかと聞かれても困る。私のかわりに看護師さんが「終わってるよ」と答えていた。
「じゃあ行こうか」と部屋から連れられ、待っていたエレベーターに乗った。佐藤さんは地下三階のボタンと閉のボタンを続けて押す。
手持無沙汰でぼーっと階数表示を眺めていると、「アスちゃんも、もう少し伸ばさない?」と佐藤さんが言う。佐藤さんを見ると髪の毛をいじっていたので、どうも髪の話らしい。
「アスちゃんももう少しいじりたいんだよね」
美形だからロングも似合うと力強く語っていたが、手入れの手間を考えるとどうにも面倒だと思ってしまう。なによりショートははるかが似合うと言ってくれる。
「考えとく」と、心にもない嘘をつくと、佐藤さんは「お嬢さまっぽいストレートが似合うと思うんだよね」と楽しそうに笑っている。
そんな話をしていると、地下三階に到着した。佐藤さんに鋼鉄の扉の前まで連れていかれる。物々しい雰囲気にたじろぐが、努めて顔には出さないようにする。
鋼鉄の扉の横についていた機械に佐藤さんが手をかざす。がじゃんという重そうな音で扉が開いた。
「入って」と促され中に入ると、目の前にはるかが立っていた。ミディアムボブは良く似合っている。
よく見るとミディアムボブの美少女の手前に透明な壁のようなものがあり、ミディアムボブの美少女の奥には私が入ってきた扉と同じような扉がある。たぶんミディアムボブの美少女は向こうの扉から入って来たのだろう。
はるかが手を振っていたので私も振り返しておいた。「はるか」と呼びかけたが、なぜかはるかは噴き出して笑っていた。その声はこちら側には届かない。防音なのだろうか?
『じゃあそのまま、そのガラス越しに手を合わせてみて、アラートは切っておくから』
佐藤さんの声がプラスチックの腕輪から聞こえてくる。
中央の透明な壁はガラスらしい。厚みはかなりあるが、向こう側は割とはっきり見えている。光は通るが音が通らない環境での検証と言うことだろうか?
向こう側でも同じように声が聞こえたのか、はるかはぺたりとガラスに手を当てて私を見ている。はるかに一歩近づくと彼女は柔和に微笑んでいる。
こんなに近づくのは、『災厄の魔女』となったあの日以来だろうか。そして、こんなに近づいてもはるかが私を避けようとしないのも、たぶんあの日以来だろう。
ガラスの前に立つと、はるかの顔がよく見える。彼女は笑顔で、ほんの少し上気しているように見えるのは気のせいか。
あの日もそう、差し出された彼女の手を取ったのだった。そういえばあの日、彼女に言えなかったことがあったことを思い出した。
ゆっくりとガラスに手を当て、はるかの手と重なるように手を合わせる。
たったこれだけなのに、胸は高鳴る。
毎日顔を合わせる。同じ屋根の下で生活している。
それでもこんな風に彼女の顔を近くで見て、疑似的とはいえ手を重ねるという行為が、私には新鮮で嬉しかった。
もっと彼女に近づきたいともう一歩踏み出そうとしたときに、私の手首のブレスレットから異音が聞こえた。
『ひぎ』とか『あが』とか、そんな音。その音は、佐藤さんの喉から出てきたものだとわかった。
だってその音は、あの日私たちと同じ図書館にいた人から発せられた音と同じだったから。
はるかの方も同じことを思ったのだろう。彼女はガラスから手を離して、おびえたようにこちらを見つめている。
しばらくして『ぼごん』という音が聞こえ、スピーカーは切られた。
そのまま、数分。
『ちょっと、そのまま待っていて』
スピーカーから知らない人の声が聞こえてきた。
はるかの方を見ると、彼女は真っ青な顔色で、泣きそうな顔をしていた。
日がだいぶ傾いてきた午後六時。私は生活棟の自室に戻ってきていた。あの後、しばらくしてから私とはるかは別々にこの生活棟まで戻された。
現象が発現したのはあの日以来の二度目。正直、もう二度と発生しないんじゃないかと高を括っていたので少しばかり驚いたし、ショックでもあった。
はるかも相当ショックを受けていたが、私の受けていたものとは少々趣を異にするだろう。
私は現象が再現されたことに驚きを受けたが、彼女はたぶん身近な人の死に対してショックを受けているだろう。はるかはとても優しい子だった。
私がはるかに惹かれた最初のきっかけも、彼女の優しさに触れた時だった。
幼い時からはるかはとても常識的ですごく大人びていた。変にませた感じじゃなくて、自然と大人な立ち振る舞いをしている人だった。先生やクラスメートからも信頼されていたと思う。
そんな彼女が、大泣きしながらひどく取り乱したことがあった。
小学校の調理実習の時だったと思う。私がシンクでお米を研いでいたとき、はるかは隣で油揚げの油抜きをしようとしていた。だが、近くでふざけていた子がはるかにぶつかり、バランスをくずして私の腕に熱湯をかけてしまった。
驚きはしたものの、すぐに水道からの流水で火傷した箇所を冷やした。ひりひりする程度だったのだが、ことが大げさになってしまい、結局救急車まで呼ばれてしまった。
母親に付き添われて向かった病院でもあまり大した治療を受けることなく終わったのだが、病院の出口のところにはるかが立っていた。学校から直接来たのだろう、ランドセルを背負ったままで、履いていたスニーカーはボロボロになっていた。
驚いていると、彼女は半泣きになりながら近づいてきて必死な顔で大丈夫かと尋ねられた。
「平気」と答えると、今度は本当に泣きながら私にしがみついて、「ごめんね」とか「よかった」とか言っていた。
それは、私にとっては本当に衝撃的だった。
いくら自分で火傷を負わせたからといって、そんなに心配するのかと驚いた。本気で心配してくれた彼女が新鮮で、少し恥ずかしくて、でも嬉しかった。
そのあと彼女があまりに泣くものだから、私もつい泣いてしまった。
病院の入り口でわんわんと泣く子供たちは、結構異様な光景だったのではないかと思うのだけれど、当時はそんな余裕はなかった。
その日から、私は彼女に少しずつ惹かれていったように思う。
それまであまり自分の着るものや振る舞いを気にかけなかったのだが、はるかがいる場では少しだけ気にするようになった。
はるかに嫌われないように少しだけはるかのように常識的に振る舞ってみたりもした。
そして、あの日を迎えた。
同じ中学に入り、同じ高校に入った夏の日。
はるかと二人で図書室にいた。私が探していた本を彼女が一緒に探してくれていた。
はるかがどんな本を読むかという話になり、最近読んだ恋愛漫画の話になった。そして、リアルの恋愛の話に話題が移った。
とてもドキドキしていた。
どんな相手が好きなのかと問われ、優しくて、賢い、常識がある人が好きだと答えた。もちろん、はるかのことだ。
同じ問いを、はるかに返したとき、彼女は私をまっすぐに見つめた。
『私は、貴女が好きです』『恋人になってください』と。
自分の身体と思えないくらいに心臓がドキドキと脈打って、自分の感情とは思えないほどコントロールできなかった。よくその場で叫びださなかったものだと思う。
嬉しさがあふれだし、彼女の手を握った。
そして、私たちはその日『災厄の魔女』となった。
あらゆるところから悲鳴が上がり、私たちはよくわからないままこんなところまで連れてこられた。
はるかの告白はうやむやとなり、私は結局自分の思いを彼女に伝えることはできなかった。
そして今でも、私ははるかに思いを伝えたられずにいる。
はるかは今でも、私のことを想ってくれているのだろうか。
あんなことがあった今でも、私の手を取りたいと思ってくれているのだろうか。
気付くと部屋は真っ暗になっており、日は完全に沈んでしまっていた。
時間の経過に気付くと、それに伴って空腹を覚えたので、食堂に向かうことにした。
廊下に出ると思ったよりも暗い。もともと生活棟はあまり人が活動していないので、静かだし暗いのだが。近くの窓から漏れる月明りを頼りに廊下を進んでいく。
と、反対側から接近する人影を見つけた。見覚えのあるその人影に声をかけた。
「はるか」
すると彼女もこちらに気付いたのか「アス」と私の名前を呼んだ。
昼間の出来事で相当参っているのか、顔には疲労が色濃く出ていた。
「どう?」と体調を伺う旨で尋ねたが、「どうって、何が?」と返されてしまった。普段の彼女ならここまで伝えなくても察してくれたりするのだが、やはり相当疲れているらしい。
「体調」と改めて問うと、彼女は苦笑いしながら答えた。
「もう平気だよ。心配してくれてありがとね」
彼女にお礼を言われ、私は首を横に振る。お礼言われるようなことは何もしていない。
すると、彼女は突然思いつめたような表情となった。何か考え込んでいるような、不安そうな表情に、私もつられて不安になる。
「ねえ、アス」
そして、はるかは今にも泣きそうになっていた。
私が首をかしげると、彼女の口から出た言葉が、私に届いた。
「私が告白したとこを、忘れて欲しいの」
……それは、最も恐れていた言葉だった。はるかは悲しそうに笑っている。
「なんで」という言葉が口から出た。それだけ言うのが精いっぱいだった。涙腺がおかしくなったかと思うほど、涙が零れている。こんなに泣いたのは、たぶん小学生のあの時以来だろうな。
「だって、はるかは」
何とか袖で涙を拭う。
「私の、こと、好きだって」
そう、言ってくれた。
あの日、私たちを取り巻く環境がすべて変わってしまった日。余りに色々な事が起き過ぎたけど、私にとって最も重要な出来事は、はるかが告白してくれたことだ。彼女が私を求めてくれた時の、ぎゅっと心臓が圧縮されたような感覚は、もう二度とないだろう。
「ごめん、もう忘れて」
だから、その言葉は聞きたくなかった。「いやだ」と声に出して拒否をした。自分でも驚くほど大きな声が出た。
「私、はるかが好き」
あの時の返事、待たせてごめんなさい。
「私も貴女の恋人になりたいの」
あの時言えなかった言葉を、やっと彼女に届けられた。
それでも彼女は苦しそうな顔をして、私を拒否する言葉を重ねた。
「もし、私がアスのことを好きだってこと、ここの人が知ったら」
苦しそうに、泣きだしそうに。
「私がいつも、貴女に触れてしまいたいと思っている事が、バレてしまったら」
悲しそうに、辛そうに。
「私たちは、今度こそ二度と会えなくなってしまうかもしれない」
そして、彼女は私の前から去ってしまう。
彼女があんな顔をしなければならないような世界なんて、必要ない。
はるかと私が居れば、この世界は十分だ。
私は彼女を追った。
彼女はすぐに見つかった。
月明りとぬるい夜風の中で、ベンチに腰掛けて泣いていた。
はるかは、本当に優しくて、私よりずっと聡明で大人だ。その彼女の鳴き声は、どうしようもなく苦しくなる。
彼女は言ってくれた。
貴女に触れてしまいたいと思っていると。
その気持ちは、間違いなく私も同じものだ。
私はもう、我慢する気はなかった。
アラートが作動する前に一息に近づいてしまおうと考えていたのだが、幸いなことにアラートが作動しない。もしかしたら昼間のごたごたで切りっぱなしになっているのかもしれない。
「はるか」
泣いている彼女の目の前に立って声をかける。
「……アス?」
なぜ聡明で優しい彼女が、こんなにも苦しまねばならないのだろう。あまりの世界の理不尽さに、怒りが湧いてきそうだったが、その前に彼女のことを何とかしてあげたい。
「好きな人が泣いているのなら、抱きしめてあげたい」
素直な気持ちを、彼女に伝える。
「……だめ、離れて」
はるかは否定の言葉を口にするが、私はもうこの世界のことなんてどうでもよかった。
「泣いている貴女を抱きしめられないような世界は、いらない」
私はもう一歩近づく。膝がぶつかりそうな距離だ。
「だめ……」
はるかの後ろの背もたれを両手でつかむ。私の胸の前に彼女の顔が来るような格好だ。そして彼女の腿を挟むように両膝をベンチに乗せた。
わずか数センチの距離に、彼女の存在があった。
下を見ると、うるんだ瞳ではるかが私を見つめている。
つかんだ背もたれ離して、ゆっくりと彼女の背中に腕を回す。優しく壊れないようになんて無理で、ぎゅっとぎゅっと、もう離れないように力強く抱きしめた。
彼女の体温が、感じられることが嬉しい。
「はるか、好き」
ずっと彼女に伝えたかった言葉。
「私も、大好き」
そう言って、はるかは優しく私の腰のあたりに手を回した。
キスがしたい。
そう思って腕を緩めてはるかの顔を見る。
彼女は目を閉じて、唇を突き出した。
私の気持ちが彼女に伝わったようでとても嬉しかった。
ファーストキスは、とくに何の味もしなかった。
これからのことなんか、もうどうでもよかった。
カクヨムにてはるか視点を公開しています。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886166713