一周まわって戊戌
鈴が鳴った?
僕は、雪の中で倒れていた時のことを思い出した。
確かに、あの時鈴の音がした。なぜか、今はまた鳴らなくなってしまったけれど、これはやはり鈴だったのか。
でも、どうして鳴ったり鳴らなかったり――と、そこまで考えて、なにか大事なことを思い出した。
「そうじゃなくて! 鬼! 鬼が出たんだよ!」
「鬼? 角はあったか?」
鬼と聞いても、彼女は落ち着き払っている。それどころか、角はあったのかと、鬼の風貌までを詳しく聞いてきた。戸惑いながらも、僕は彼らのことをよく思い出そうとした。
「え? ――どう、だったかな。よく覚えていないけど……。なかったかも」
「ないだろうな。山神の使いに角はない。そもそも、鬼ではないからな」
「そういう問題!? だとしても、鬼っぽいものが出たんだよ!」
「鬼鬼言うな。あやつらにも、太郎と次郎という名前がある」
どう見ても鬼にしか見えなかったのに、やけに人間じみた名前だ。
「私が行かせた。縁弧の鈴が呼んだからな。そうしたら、お前が倒れていたというわけだ」
「お前って……僕にも、藤野真吾って名前があるんだけど」
「藤野――。お前、藤野宗吾を知っているか?」
「僕の祖父だよ。祖父がこの村に来たのは随分と昔なんだけど、君も知ってるの?」
「知っているとも。ではお前の持つ鈴は、宗吾の物か。宗吾はどうした、元気か?」
写真の女性にとてもよく似ているとはいえ、目の前の女性が祖父のことを直接知っているとは思えない。だが、目の前の彼女はまるで祖父本人ととても親しかったかのように、声を弾ませた。
「あ~……。祖父は、死んだんだ。もう、二年になる」
「死んだ……? そう、そうか……。思えばあれから随分と経つ」
途端に女性はしょんぼりと肩を落とす。しんみりとした空気に耐え切れず、僕は口を開いた。
「祖父が持っていた写真も古い物だったよ。ここに来たのは何十年も前なんじゃないのかな」
「そう、そうだな。何年になるか……。あの年は確か戊戌の年で……そうか。来年は一周まわって戊戌。最後にお前のことを知らせたか」
彼女は、また僕には理解できないことを話し出した。
つちのえナントカとか、祖父が知らせたとか、一体なんのことなんだ?
「なんのことかさっぱり分からぬ。そのような顔をしているな」
「……そうだね。あなたの言うことが、僕にはさっぱりわからない。一周まわって、なんだって?」
「お前は、来年の干支を知っているか」
「戌だろう? それくらい、知っている」
「違うな。確かに十二支は戌だ。だが、干支は何かとなると、正確には戊戌だ」
益々混乱する頭に無言でいると、女性は話を続けた。
「干支は、十干十二支で表す。十干と十二支には、それぞれ陰と陽がある。陰は陰で。陽は陽で結ばれ、その一周が六十年だ。その六十年の中に、陰と陽――良いことも悪いことも、喜びも悲しみも平等に訪れる。六十年かけて一巡すると、また新たに巡るのだ。縁弧の鈴も、また同じ。持ち主と共に六十年。鳴らぬまま過ぎると、完全に縁は途絶える。宗吾の縁弧の鈴は、まもなく六十年を迎えようとしていた。それが、なぜか死してから鳴ったということだ」
「――どういうこと?」
女性は呆れたと言わんばかりに、深いため息を吐いた。
「宗吾がお前を助けようと鳴らしたのか、お前が宗吾の念を形にしたのか、それは分からぬ。だが、おかげでお前は助かったということだ」
「そう……。そうなんだ。それは今度おじいちゃんのお墓参りに行ったら、大好きな大福でもお供えしてお礼を言わなくちゃ」
「まあ、そうだな。それはこの村から出た後になるがな」
女性はスッと音もなく立ち上がると、優雅な足取りで近づいてきた。そして、布団の近くに座り直すと、何枚かの紙を差し出した。
何気なくそれを見た僕は、一瞬心臓が止まるかと思った。
『救助費用請求書』
『搬送費用請求書』
『診察費用請求書』
『治療費用請求書』
「こ、これ……高すぎ! ません、か……?」
「ここは辺鄙な村でな。医者は村の外にしかいない。雪深い中、道路下の田んぼに転げたお前を背負って登り、医者に連れて行くのは大変だったぞ」
「ア……ええと……。ハイ。すみません。ありがとうございます……」
「お前が助けてくれたお礼だと、太郎に車を譲ったそうだが、それも高くは売れなかった」
いよいよ息が苦しくなってきた。
確かに言った。助けてくれる代わりに車はやると言った。生きるか死ぬかって時だったからだ。だが、こうして実際に聞くと、成人のお祝いに父親が買ってくれた愛車との思い出が胸を抉る。
「あ、あれ……結構いい値段するはずなんだけど……」
そうだ。この請求書すべての金額を払えるくらいには、いい値段がするはずだ。週末くらいしか乗る機会のない愛車は、二年経っているとはいえ、走行距離も長くはない。
「二輪駆動車がこの地で必要とされるわけがないだろう。しかも外国産ときている。取扱業者が近くにない車を誰が欲しがると言うんだ」
「ま、マジか~……」
がっくりと項垂れた僕の目の前に、もう一枚紙が追加された。
『宿泊費用請求書』
金額がまだ書かれていないことが、恐ろしさを倍増させる。
「私の名は界外みことだ。この村唯一の商店、『万屋界外』を営んでいる。万屋とは、なんでも取り扱っている商売だ。つまり、今日からお前が宿泊する民宿でもあるということだ。ここに金額は書いておらぬ。全額払うなら、客として扱うが、使用人見習いとして扱っていいなら、宿泊費は不要だ。さて、どうする?」
……ああ、どうして僕はここに来てしまったんだろう。
僕は春から有名企業の会社員になるはずだった。冬は滅多に雪が降らず、交通の便もいい都会で、ソツなく生きるはずだった。それがなんだって雪に閉ざされたこんな山奥で、奇妙なことを言う女性の元で働くことになるんだ。
「僕、腕を怪我してるんですけど……」
「折れてはいない。ヒビだな。添え木で動かさないようにしていれば、くっつく。できる仕事は限られるが、まあ片手と足があれば、なんとかなる仕事も多い」
なんとかって、なに……!?
背中がぞくりとしたが、背に腹は代えられない。それに、彼女が命の恩人であることには変わりはない。どうせ就職先は消えてなくなってしまったのだ。今日明日こんな身体で実家に戻ったところで、なにが変わるでもない。
僕は恐る恐る頷いた。
これまで自分が決めていたようで、なんとなく流されてきた人生だった。思えば、これが自分で判断した最初だった気がする。
「そうか。では、早速――駒子! 武子!」
みことさんが、よく通る声で部屋の向こうに呼びかける。すると、すぐに二つの返事が聞こえ、障子が開けられた。
「はい!」
「はぁい」
ひとりは凛とした返事で、ひとりはおっとりしたもの。声の印象は真逆だったが、やって来たのは瓜二つの女性だった。
「このふたりは、駒子と武子だ。ここに一緒に住み、私の世話をしてくれている。こやつは藤野真吾だ。怪我が治るまでの間、ここで万屋の仕事を手伝ってくれることになった」
「へえ。あんたが」
「そう。よろしくねえ」
「では、早速頼む」
「はい。駒子、ほれ」
「お兄ちゃん、ちょっとごめんねぇ」
言葉は柔らかいが、やや強引に僕の足を掴むと、そのまま大きさを測りだした。
「九寸ってところかね」
「そうねえ、武ちゃん」
「なになになになに!?」
「ふたりとも、明日に間に合いそうか」
「勿論です。みこと様。ふたりで片方ずつ。一晩で出来上がります」
そう言うと、ふたりはまた忙しそうに部屋を出ていった。
「な、なんなんですか、今の。なんで僕の足測ったんですか?」
「明日。仕事があってな。早速だが、それを手伝ってくれ」
「はあ。なにを……?」
「味噌作りだ」
「味噌?」
味噌というのは、味噌汁だとか味噌ラーメンだとか、日本人には馴染みの深い、あの味噌だろうか。でも、それに僕の足のサイズがどう関係するというのだろう。