人ならざる
本能の話です。
楽しんでいただけると幸いです。
蜂蜜が苦手だと気付いてしまった夜。けものの声がする。
「犬?」
「いいえ」
彼女は左手で長い髪をかきあげながら、右手でクワトロフォルマッジョ・ピザを食べている。
ピザから金色の蜂蜜が滴れて、ぽたりと彼女の露出した太ももに落ちた。
蜂蜜を大量にかけたせいで、彼女の口元は金色に光っている。
彼女はそれを躊躇せずに、赤い舌と、細い人差し指で拭った。
わたしはそのときに、人の舌がどれほど赤く、どれだけ長いのかを知った。
「じゃあ、何が鳴いてるの?」
わたしは卓袱台の上の宅配ピザに手を伸ばし、マルガリータを一切れ抜き取った。
「狼よ」
引っ越したばかりの彼女のワンルームには、ソファはおろか、クッションさえも置いていない。
だらりと座った脚から、フローリングの床のひんやりとした、突き放すようなつめたさが伝わってくる。
「狼?」
「ええ」
ピザを物色する、伏し目がちの彼女は美しかった。
「あなた、狼を見たの?」
「5年前に図鑑で見たきりね」
「じゃあ、どうして、狼だって分かるのよ」
「だって、犬の声じゃないもの。わたし、昔、犬を飼ってたのよ。中学三年生のときに死んじゃったけど。犬じゃないなら、狼しかないじゃない?」
「……呆れた…………」
彼女はまたトマトソースを口に付けて、それを赤く長い舌と、白く細い指で拭った。
わたしはそれをあまり見ないようにして、きのこと照り焼きのピザにタバスコをかけた。
けものはまだ鳴いている。
言われてみれば、犬ではない。犬よりも凶暴で、深くて、手がつけられない感じがする。
ということは、案外彼女のいう通り、本当に狼が住んでいるのかもしれない。
「……名前は、なんて言うの?」
「狼の?」
「あなたが飼っていた犬の名前」
「あら、あなた、そんなことが知りたいの?」
「あなたのことなら、何だって知りたいわ」
彼女がふふふと笑う。手で口元を隠す、彼女の笑い方が好きだった。
「うれしいわ。あなたがそんなことを言うなんて。何かわるいものでも入っていたのかしら、このピザ。ふふふ」
実際は、度数強めの赤ワインが有力説だったが、そんなことはどうでも良かった。
ただ、わたしは割と酷く酔っていて、彼女は美しくて、外では狼らしいけものが鳴いていた。
「りん、よ。りん。きれいな名前でしょう。わたしが付けたの」
「……冗談でしょう?」
「本当よ。小学校一年生のとき。確か夏だったわ。神社の裏で拾ったの。ちいさくて、汚れてて、鳴き声はかすれてて、でも、とっても、可愛かったのよ」
「わたし、からかわれているのかしら」
彼女の白くて、細い腕が、わたしの首回りにゆるく絡みついた。
つめたく湿った、花ような女の匂いがする。
彼女の赤い唇が、うすく真珠のような歯を覗かせて、笑うのが見えた。
彼女が触れているところが、すべて心臓になってしまったみたいで、わたしは彼女から顔を逸らすべく、何もない左下を見つめた。
「そのとき、好きだった人の名前をつけたの。わたしってば、乙女よね。弱冠七歳にして。あら、そう言えば、あなたも、そんな名前だったわね。りんちゃん」
彼女の手が頬に触れるだけで、一々、驚いてしまう。へんな汗がふきだしそうだった。
「真っ赤にしちゃって、可愛いのね」
わたしは彼女の柔らかい身体を抱きしめて、そのちいさな頭を固い床にぶつけてしまわないように、手で支えながら、彼女の上に覆いかぶさった。
だから、この部屋には、ソファなり、クッションなりが、必要なのだ。
散々言ったのに、彼女がわたしの助言を聞いた試しがない。
唇を重ねようとしたら、触れたのは彼女の指だった。
「まだ、いやよ。太ももが、べたべたするの。取ってくれる?」
ショートパンツから覗く、白い太ももに金色の蜂蜜が垂れている。
どこまで彼女の計算通りだったのか考えても切りがないので、わたしは大人しく、まるでよく調教された飼い犬のように四つん這いになって、太ももの蜂蜜を舌で拭った。
彼女はくすぐったいのか、くすくすと笑った。
「犬みたい、りん。りん、ふふ、りんの話、ききたい?」
わたしは舌を彼女の脚に這わせたまま、彼女を見上げた。彼女の頬は赤らんで、とても楽しそうだった。
「りんもね、すぐに舐めようとするの。手とか、顔とか。わたしのこと、大好きだから。ふふ、ふふふ」
彼女がわたしの髪を弄る。
わたしは本当に、自分が彼女の犬になったような気分だった。
外では、けものの声がする。先ほどまでよりも大きな声で、鳴いている。
彼女はうっとりとして、うっとりとしている彼女はとても美しい。
「りんちゃん、大好き」
「……奇遇ね。わたしも、あなたのことが好きだわ」
すると、彼女は、口をくわっと大きく開けて
(赤い)
なんて思っている間に、噛みつくようなキスをされた。およそ、人間らしく理知的なそれではなく。
「大好きじゃなきゃ、ゆるさない」
歯を見せて、笑っている。
けものと、けもの。犬なんて、可愛いものじゃない。
わたしはがばりと起き上がって、動物らしい柔らかな彼女の身体を抱きしめた。
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