誤択
少年は立ち尽くしていた。
いつもいつも、何も言わずに立っていた。
何も言わなかったし、何も言えなかった。
家族に要らぬと言われても。
学校に居場所など無くても。
世間に息苦しさを感じても、何も言わなかった。
少しでもまともな空気を吸いたくて、上へ上へ昇る。気付けばビルの屋上だった。
飛ぶのも良いと思ったか、思わずか。迷わず柵を乗り越えていた。
世界が見える。小さな小さな、彼の世界。
檻の様な学び舎が、屑籠の様な自宅が、ごみ溜めの様な川が、空き缶を並べた様なビル群が。赤く、赤く染まっている。
近付く闇に抗う様に。鋭い斜陽に流される様に。それでも静かに、ただ、赤く。
とても綺麗だ。世界は綺麗だ。
綺麗でないのは、自分の方か。
恐ろしくなった。飛べなくなった。
柵の中へと、這って戻った。
綺麗な世界に飛び込むなんて。飛んで、醜い自分で汚すなんて。恐ろしい。
もっと暗い、もっと汚れた場所でひっそりと、今すぐにでも、消えなければ。
おかしくなる。自分が崩れてしまう。
綺麗な世界を駆け抜ける。ひとつの汚れが、顔を伏せて逃げて行く。
「それで、君は一体如何するのだ」
問われた。
自室に。少年の、薄暗く薄汚い部屋に、太いロープが掛けられた時だった。
椅子を引きずり足場にするつもりが、手を掛けたまま固まる。
それは突然現れていた。
バスケットボール程の大きさの真っ黒な達磨に、細い細い手足と、蝙蝠の様な小さな羽根と、鰐の様な尻尾と、ちょこんとした角が生えた見た目の、何か。
顔は、丸みを帯びた可愛らしい髑髏の仮面の様になっている。
「如何するのだ、と訊いている」
ロープの前で羽根を動かして浮かんでいるそれは、見た目に反して威圧の籠もった声音でもう一度問う。
「…この世界から、消えるんだ」
声を絞り出して答えると、乾いた声で、ふうんと返された。
「お前は何だ」
今度は少年の方から問いかけた。
それは羽根を速く動かし、少し彼の方へ近づいた。
「俺は、死神だ」
死神は言った。
これが今世だと。しかし、これは前世でもあり、来世でもあると。
少年はずっと立ち尽くし、ビルの屋上の柵を越えて世界を見て、自室で首を吊る人生ばかり繰り返していると目の前のものは言う。
なんてつまらない。なんて味気ない。
「それで、君は如何するのだ」
一見可愛らしい見た目の、死を司る神が問う。
その丸みを帯びた体越しに、ロープが退屈そうに揺れている。
少年は死神とロープを見比べた。
「もう少し、生きてみる」
動かそうとしていた椅子から手を放す。
死神が、背後から大きな鋭い鋏を取り出した。
「本当に、それで良いのか」
死神の、最後であろう問いに少し考えてから頷いた。
シャキンと鋭い音がして、ロープの輪が床に落ちた。それを見て視線を戻すと、目の前に浮いていた不思議な生物は消えていた。
カーテンの隙間から夕陽が射している。
少年は生き延びた。
前世でも、その前も、きっともう死んでいたに違いない。今世は何か変わるだろうか。
来世は少しでも幸せが増えるだろうか。
少年はもう一度、綺麗な世界を見たいと思った。綺麗な世界で生きているのだと云う実感が欲しかった。
その後はどうしよう。少し自分の為に生きてみよう。親の金の隠し場所は知っている。適当に掴み出し、家を抜け学校に行かず、仮令数日でも自由に生きてやろう。
希望が湧いた。生まれてはじめて、朗らかな明るい気持ちで家を出た。
少年は、死んだ。
―だからさ、一思いに死んでみれば良いものを、君は如何して留まってしまうのだ。
希望なんぞ見出してしまうから、鉄筋に敷かれたり、トラックに轢かれたり、ろくでもない死に方をして戻ってきてしまうのじゃないか。
今世で何度目だと思う。君の魂も見飽きてしまったよ。
見るに見かねたこの俺が、折角面倒を見に出向いてやっていると云うのに、君は如何にも死にやしない。
規則さえ無ければ、俺が直接殺してでも運命を変えてやるものをなあ。
なあ、聞こえているか。
来世こそ、ちゃんと首を吊るのだぞ。
(終)