居酒屋と美容院
暫くは居酒屋にも来られないなと思ったので、以前から気になっていた「肉うどん」という看板の出ている店に来た。肉うどんは好きだし、何より佇まいが良い。引き戸は江戸時代の民家のような引き戸だが商事ではなく硝子が嵌めてあり、暖簾ではなく精霊流しで流すあれのような光源を中に持つ和風の物体が外に出してある。あれは何と呼ぶのが正しいのだろうか。
勇気を出して飛び込むと、こういう店の人はいつも虚を突かれた顔をする。それも当然、大体こういう日の私の髪は美容院に行ったばかりで、顔は化粧しているものの服のセンスが壊滅的に悪い。そんな女が一人で入ってくるのは珍しいのだろう。相手の反応に慣れた私は
「一人です」
と告げる。
メニューは手書きの本日のオススメ料理から見る。無農薬な花のおひたし、よもぎ豆腐京みそ風味、蒸し鶏と春わけぎのごまポン酢和え、どれも気になる。単品の価格はさほど高くない。
次に定番メニューを見る。
「本日のオススメ料理は季節物であり、おいしいかどうかは分からない。その点グランドメニューは確実」
と言うタレントを見たことがある。慌てて季節物を頼んで後悔してはならない。
まず初めの候補はうどんだしのお茶漬け。出汁は好きだし、お茶漬けも丁度食べたかったのだ。次の候補はうるめいわし。昔小説に登場したので気になっていた。
「お飲み物は……」
とまだ仕事に慣れていなさそうなアルバイトと思しき若者に聞かれた。
「アルコールが飲めないので…」
と言うと素っ気なく
「ノンアルコールはありません」
と返された。しかしジュースやお茶はあったので、私はグレープフルーツジュースを頼んだ。
するとどうだろう。厨房から出てきたちょっとEXILE風の男性が、
「すみません、僕男性だからよく分からないんですが…」
と切り出した。何事かと身構えると
「うるめいわし結構塩辛いんですけど、お腹に大丈夫でしょうか…」
何ということだろう。恐らく彼は、私が鞄に付けているマタニティーマークに気づいたのだ。私はこういう店員の心遣いが好きで堪らない。
私はそれではとうるめいわしをキャンセルして、「鳥の和風レバーペーストと蓮根の天麩羅」と「沖縄もずく素麺」を頼んだ。
もずく素麺とは素麺に酸っぱい水雲が乗っているのだろうと予想していたのだが、実際には素麺のような太さの海蘊で、酢ではなく出汁が掛かっていた。(余談だが、私はかけつゆとつけつゆの区別をするとき少し考えてしまう。かけつゆに麺が「浸かっている」という印象を受けるからだ)
中年のサラリーマンが一人入ってきた。彼が愛想なく自分の名前を告げると件のアルバイトが慌てた様子を見せたが、中堅と思しきスタッフが朗らかな笑顔で
「あちらのお座敷です」
と案内した。
彼は何歳だろう。私より少し年上だろうか。何年働いているんだろう。
私はさっき行った美容室でのことを思い出していた。
今日は3月31日だ。明日新人が3人来るんですよ、と30代の髭を生やした男性スタッフが笑顔で言った。
「でも、全員女の子なんですよ~」
私には分かる。「女の子だから嬉しい」とはしゃぐ役職でも年次でももうないのだ。彼は上司として先輩として彼女たちに接することになる。
「あら~、それじゃあ大変ですねえ。下手に振舞うとセクハラですもんね」
話が読めた私は彼が話を続けやすいように笑顔で相槌を打った。すると彼は続けた。
「そうなんですよぅ、毎日誘っていいんですかね?」
毎日は誘いすぎだろ。と心の中でツッコんだ私は適当に答えた。
「毎日はねぇ……でも相談できる人は周りにいた方がいいですよねえ」
「そうなんですよー、同期か先輩か、どちらかに悩みとか話してほしいんですよぅ」
そうだろうなあ。自分の最初の配属先には同期がいなかった。クラスや班でワイワイするのが好きな私は、同じグループで一番年次が近い先輩が10年上という環境で、不満はなかったものの1年も経たずに辞めてしまった。
ところで、その店には一人新人がいる。前に行った際に見た自己紹介ボードでその美容室が彼にとって初めての職場だと知り、私は
「頑張ってね」
と笑顔で励まし、彼の笑顔に癒されたのだ。それを思い出して、今日私を初めて担当してくれている男性スタッフに聞いた。
「今ドライヤーで乾かしてる彼は育ったんですか?」
彼は曖昧に笑い、
「マイペースですけどね、地道に淡々と仕事する子が続きますよ」
と答えた。
それから彼は、その店に去年3人入ったが2人辞めて彼しか残っていないこと、一昨年も3人採ったが3人とも辞めてしまったことを話した。
「華やかに見えますけどね、地味な仕事ですよ」
私は前に担当してくれた女性スタッフを思い出した。彼女は手首に肌色の湿布を張っていた。私がそれに気づいて
「手首どうされたんですか?」
と聞くと彼女は
「ヘルニアなんです」
と悔しそうな顔で答えた。私が驚いて
「じゃあ病院に行かないと」
と言うと、彼女は
「そうなんですか?ヘルニアって言っても大体どんな感じか分かってもらえないんです……」
と哀しそうな表情を見せた。
その店は確かに店構えが洒落ている。白い壁にオレンジのロゴ、お洒落な店員。客層も流行りの服というよりワンランク上のお洒落をした女性や男性が多い。ここに憧れて入社し、働いてみたら耐えられなくて辞める若者は多いだろうと容易に想像がつく。
今日担当してくれた男性はサラリーマンを経て美容師になって9年だそうだ。彼が一人前になるのはいつだろう。
こんな時私がいつも思い出すのは、銀座の一等地に店舗を構えた古い美容室である。年季が入ったというよりも清潔な城にレトロな字体で「シロー」と書かれた美容室は、大学時代私のオアシスだった。
そこに初めて行ったのは、2007年だったと思う。私は卒業論文のテーマを決めるのに真面目に悩みすぎて頭が疲れて、通りがかりのその店に入ったのだ。
そこで担当してくれたのは当時のチーフだった。女性だったと思う。だったと思う、というのは、もう約10年前のことであり記憶が定かではない。記憶とはあやふやで不確かなものだ。彼女は就職活動中だが黒髪は気が滅入るので明るくしてほしいという私の要望に完璧に応えてみせた。だから私はそこを気に入ってたまに行く。今は都内に住んでいないので、本当に何年かに一度なのだが、この前奇跡が起こった。
勾配の急な階段を用心して降りていくと、見覚えのある顔が見えたのだ。
(あっ!確か前に会ったことがある!)
そんな経験は誰にでもあるだろう。しかし名前は覚えていない。
こういう時のセオリーがある。
(あ、あの時の!就職活動中だったお客様だ!)
というところまで思い出せたら、そのエピソードから話すのだ。
「僕新人の頃お客様のシャンプーしました~」
でもいい。何でもいいから、何年経っても覚えていてくれる店はいいものだ。翻って言うと、こちらが相手を覚えているのに相手が覚えていないと切ない。