(7)
『少し話せるか?』
桧並からメールが来たのはその夜の事だった。直感的に千里の事だと思い当たり、美恵はすぐにいいよと返事を返す。送信してまもなく電話が鳴る。
「千里と何があった?」
やはりそうか。という事は、桧並の元にも千里から何らかの行動があったという事か。美恵は屋上での千里との一部始終を桧並に話した。
「……美恵、ごめんな」
聞き終えた桧並の口から出た一言は苦しげだった。
「わたしは大丈夫。それより、桧並は? あんたもあの子に何か言われたんでしょ?」
「……」
「ねえ、どうなのよ」
「……」
「――桧並!」
「……さない」
「え?」
「渡さない……って」
「どういう意味?」
「……美恵」
「何?」
「今から来てくれって言ったら……迷惑か?」
桧並の声には怯えがあった。何にも動じないような、何にも揺さぶられないような毅然とした桧並が、あんな小さい女の子一人に怯えている。
「遠慮するような仲じゃないって言ったの、あんたでしょ」
桧並の声を聞く前に電話を切った。
黙って自分に全てぶつけてくれればいい。
美恵は、桧並のもとへと急いだ。
「桧並、来たよ」
扉の先に見えた桧並の顔は予想通りすぐれたものではなかった。だが、思ったほどではなかった事に美恵は安心した。
「入るよ」
黙って桧並は美恵を迎え入れた。いつも通りのスウェット姿の桧並はぐったりとベッドに腰掛けた。美恵も桧並に腰を下ろす。
「ありがと」
力ない声に、桧並らしさはなかった。
「気にしないで。ところで――」
「ああ……そうだな」
そう言いながらも、桧並の言葉は続かない。話し出すのにためらいを感じているようだった。そのためらいの要因が何なのか。苦しみか。痛みか。いずれにしても桧並の心を蝕んでいるものは千里の他にない。
桧並の心が開ける事を願いながら、美恵はあえて先に言葉を始めた。
「わたしさ。ずっと周りをくだらないって馬鹿にしてた」
「……」
「やる事なす事全部、なんてしょうもないんだって思いながら過ごしてた。一ノ瀬に来てからはもっとひどくなった。必死で自分の居場所を守ろうとしてる周りの姿が滑稽で仕方なかった」
「……」
「そんなだから、なんにも楽しく思えなかった。何やってても、自分のラインを相手にすごく下げて無理してる感じだった。だから、すごく嬉しかった。桧並みたいな人がいてくれて」
「……」
「こんなに居心地いいの、久しぶりだよ。安っぽくなりそうであんまり言いたくないけど、一ノ瀬で唯一心が許せる相手が出来たって、思った」
「私もだよ」
「そんなの知ってる」
「そうか」
「だから、千里に縛られてる桧並を、私は見過ごせない」
くだらないと世界を蔑んでたからといって心を失ったわけじゃない。
大切なものくらい、自分にだってある。
出会ってからの時間なんて関係ない。かけた時間と心の距離はイコールとは限らない。
桧並が、大事だと思うから。
それだけで、時間なんて超えられる。
「ちょっとだけ貸してくれ」
そのか細い声が桧並の声であった事も、桧並の頭が自分の胸の中におさまってる事も、何も不思議じゃない。これがわたし達の距離なんだ。
美恵はそっと、桧並の頭に手を置いた。
「あんたの言う通り、私はあの子に縛られてる」
ようやく吐き出し始めた桧並の苦しみに、美恵は静かに耳を傾けた。
「あの子は、私をあまりにも頼り過ぎてきた。少し目を離せば、命で私の気を惹こうとした。その都度私はあの子に手を伸ばして、慰めた。それが当たり前になってしまった。気付けば私はすっかりあの子に支配されていた。私が慰めれば生きる。でも私がそれを怠れば死のうとする。あの子の命は私と直結している。リミットの見えない時限爆弾を、ずっと握らされているような気分だよ」
千里に対しての怒りが美恵の中で濃くなっていく。二人をどうにかして引き剥がしたいという気持ちが強まる。
「そしてあの子は好き放題に私を求める。私にも求めさせようとする。拒むなんて出来ない。私の体も、心も、あの子が牛耳ってるようなもの」
その瞬間自分の身に起きた事を、美恵は一瞬把握出来なかった。
先程まで自分の胸にうずくまっていた桧並の顔は、今ぴったりと自分の顔に寄り添っている。そして、自分の唇に桧並の唇が触れている事に、美恵はようやく気が付いた。
驚きが消えぬままに、ふっと桧並の顔が離れていく。
桧並はそのまま、流れるように自分の衣服を取り払った。
下着はなく、一糸纏わぬ姿が露わになる。
「桧並……?」
桧並は裸のまま美恵に抱きつき、そのままベッドへと押し倒した。
「ごめんな、美恵」
「え?」
「一目見た瞬間に、あんたを気に入った。話すともっと好きになった。そして、美恵なら私を解放してくれるような気がした。あんたを部屋に招いた時から、千里がこうなる事は予想出来てた。私は分かってて、自分の為にあんたを巻き込んだ。最低だよな。でも、それでも言わせてくれ」
覆い被さった桧並の瞳から、水滴が零れ落ちた。
「美恵」
震える声。
「助けて」
それ以上、何も聞きたくなかった。
耳を塞ぎたくなるような痛々しい声を。
絶望をまき散らすような悲しい声を。
美恵は桧並の頭を掴み、自分の顔へと強く引き寄せた。
もう、何も言わなくていい。
――私がいるから。私があんたの絶望を消すから。