(6)
「桧並ってさ、化粧あんましてないよね」
「ああ。あんまっていうかしてない。あんなの必要か?」
「桧並はしなくても出来上がりすぎてるからね」
「なんだ、出来上がり過ぎてるって」
美恵は度々桧並の家にあがるようになっていた。桧並もそれを嫌がらなかったし、むしろ快く迎え入れてくれた。久しぶりに本当の友達が出来たように思えて、美恵自身、正直嬉しさを感じていた。気にせず話せる相手がいるのは、心が楽だ。
ただ。どうしても千里の存在が頭から離れなかった。自分でもよく分からなかった。何をそこまで気にしているのか。でもどこかでずっと千里が見ているような感覚が付きまとった。桧並から聞いた話の衝撃が思いの外に大きかったようだ。しかし、それだけなのだろうか。桧並といる時間に心地良さを感じながらも、その一方でずっと胃をつねられているような不快な感触が離れなかった。
「んじゃ、また」
「おう、またな」
美恵が重ねる時間。千里が重ねた時間。
時間の多さが、絆を決めてしまうのだろうか。
「なあ、美恵」
「ん?」
桧並の目が美恵を射る。
「悩んでんなら、ちゃんと言えよ。遠慮する仲だなんて、まさか思ってないだろ?」
「うん、分かってる」
分かっている。その必要がない相手だと思ったから、美恵は一歩踏み出した。いや、踏み出してくれたのは桧並の方だったか。ともかく、それがあったから今こうしている。なのに、この不安定な感覚は一体何なんだろう。
「美恵ちゃん、ちょっといいですか?」
翌日、えみり達と正門を出ようした時、後ろから声をかけられた。
誰かと思えば、千里だった。しかし、その顔にいつもの笑顔はなく、まるで弾圧するような冷たい表情だった。
「ああ、うん」
「あ、ちーちゃん。じゃあ美恵、先行っとくよー」
えみり達の姿があっという間に遠ざかっていく。美恵はあらためて千里に視線を向ける。
「何?」
桧並の話を思い出し、美恵の声はどこか攻撃的なものになっていた。どうしても美恵の中では、わがままに桧並を縛り付ける存在としてうつっていた。
「二人で話せる場所に行きましょう」
そう言うと、美恵の返事も待たずに千里はくるりと背を向けた。黙って美恵は千里の後についていく。千里は慣れた足取りで校舎を上へと進んでいく。向かっている先が屋上である事に途中で気付いた。
案の定、到着したのは空が開けた屋上だった。確かに、ここにはあまり人は来ないだろう。
「千里の家で何してるの?」
無邪気さも可愛らしさもない。刺し殺すような強い口調だった。
「何って、話したりとか」
「何を話したの?」
「たいした事は話してないよ」
千里には内緒で。桧並からそう言われていたのもあったが、千里の高圧的な態度への腹立ちもあり、わざわざそれを教える気にもなれなかった。
「それだけじゃないよね?」
「一緒にご飯食べたりもするよ。桧並が作ってくれるの」
「気安く呼ぶな!」
桧並の名を口にしたその瞬間、小さな体からは想像もつかない怒号が美恵に放たれた。驚きはあったが、怯む事はしなかった。
そんな事を言われる筋合いなど、どこにもないのだから。
「何が駄目なのよ。桧並は桧並でしょ。わたしがどう呼ぼうが別にいいじゃない。何をそんなに怒ってるのよ?」
「呼ぶなって言ってんだろ! あんまりひなと馴れ馴れしくすんなよ。痛い目見るよ」
「痛い目? 何、脅してるわけ?」
そう言うと、千里はにたあと笑って見せた。
ゆっくりとこちらに近付いている。
美恵の体が少し強張る。
しかし、千里はそのまま美恵の横を通り過ぎた、かに思えた。
「脅しじゃねえよ」
真横から聞こえた呪詛の声。そして屋上の扉が激しく閉じられる音が続いた。
「……はーっ」
緊張の糸が切れた。途端にずしりと疲れが肩に圧し掛かってきた。
――あの子は、異常だ。
確信した。そして今の千里が、過去によって生み出された本来の千里の姿だ。奥底に押し込められた憎悪の念が形となって現れたもの。
だが、それがどうした。
同情までは出来る。でも、それが他人を縛るのはやはり違う。他人に対してあれだけの激情をぶつけるなんて普通ではあり得ない。
友達を奪われるとでも思ったのだろうか。だとすればとんだ被害妄想だ。たまったものではない。きっと他にも桧並に近付きすぎて、今みたいに脅しをかけられた者がいるだろう。別に美恵自身は脅されたって構わない。だが、千里があのままである以上、桧並は一生彼女の呪縛から逃れられない。
――どうする……。
考えては見たが、残念ながら特にいい案は思い付けそうになかった。