(5)
「何それ」
「情緒不安定ってやつ。すぐに自分の存在に自信を持てなくなるんだ」
「ふーん……」
「続ける?」
「聞くよ」
桧並の口から聞かされた千里の話は暗く重いものだった。
千里の家庭は母と父と弟の四人。千里はその中においていわゆる“お荷物”だった。
人に物事を上手く伝えられず、失敗も多く暗い愚姉と、明るくそつのない弟。明確な差を持つ姉弟への親の対応はあまりにも分かりやすかった。弟は褒められ、姉は罵倒される。
ダメダメダメダメダメ。
強く押し当て焼き付けられた不出来の刻印は、決して消せない傷跡となって千里の体中に残った。
しかし、幸か不幸か、その生活は弟の自殺という出来事によって終わりを告げた。
首吊りだった。
遺書も存在しており、そこには親からの期待という大きな荷物に押し潰された弟のぼろぼろになった心が文字として存在していた。
魂の抜けた親に、残った千里を育てる能力はなく、この状況に責任を感じた父方の両親が代わりに千里の面倒を見る事になった。
環境が変わり、平穏な家庭の中で千里はようやく人生を取り戻した。
「でも、完璧じゃないんだ」
「完璧じゃない?」
「千里を見てどう思った?」
「なんていうか、底抜けに明るいって感じ」
「取り戻した自分本来の明るさもある。でもその半分は、おそらく弟さんの持ってたものを引き継いでるだけだ」
「それって……」
「明るく振舞わなければ、認めてもらえない。せめて明るくはしてなくちゃって。あの子はきっと、今もまだそう思ってる」
千里にとっての生きる手段が明るさだった。それが彼女の支えであり、弟への弔い、償いでもあった。
自分も弟のように明るければ、弟の背負っていた荷物を自分も担いでやる事が出来たかもしれないのに。
「あいつは怯えてる。まだ自分の事をちゃんと認めてやれてないんだ。そして、あいつのクズ親も、あいつの心にまだずっと巣食ってる。時折あいつらは千里の自信を奪っていく。そうした時、あいつは自分を消そうとする。傷つけようとする。そんなあいつは私の事を好いてる。どうも弟さんにちょっと似てるらしいんだけどな。顔じゃなくて雰囲気とか。私がいると安心するらしい」
「そんな関係だったなんてね」
「いるだけで誰かが救えるなら、まあ、いいんじゃないか」
桧並と千里。一見アンバランスな二人の関係性はその実、思っている以上の強い力でお互いを結び付けている。
「今聞いた話は、ちさにはもちろん内緒だぞ」
「分かってるわよ」
「ところで、腹減らない?」
「ああー……ちょっと減ってるかも」
「時間あるなら家来なよ。なんか作ってやるから」
「え、ホントに?」
「大したもんは作れないけどな」
「じゃあお言葉に甘えて」
美恵は快く桧並の誘いを受けた。いつもなら浮かんでくる負の感情はどこにもなく、素直な気持ちで文字通り桧並の行為に甘える選択をする事が出来ていた。
アパートの前に辿り着くと、一階の104と書かれた部屋の前で止まり、鞄の中をごそごそと漁り始めた。取り出したその手には部屋の鍵が握られていた。
「え、桧並」
「ああ、一人暮らしなんだ」
事もなげに言いながら、桧並は部屋のノブを回した。
「あがって」
玄関をあがってすぐ左手にキッチン、そして間の扉一枚を抜けた先がリビングとなっており、6畳程のスペースは女子一人住まうには十分なスペースだった。
部屋にはベッドや小さい机やテレビといった必要品が揃っていたが、ちょこちょこ置かれている化粧品を除けば女子らしい部屋という印象はあまり受けない部屋だった。
「ごめんよ。あんまり面白いものは置いてないけど適当にくつろいでて」
桧並は鞄を床に置き、いつも通りの流れで、制服をするすると脱ぎ始めた。
あっという間に下着姿になった桧並を、思わず美恵はじっと見てしまう。服を着ていても十分に分かるプロポーションの良さだが、贅肉と呼ばれる不要な肉はなく、またこうして見ると分かったのが腰の位置の高さだった。そこから伸びる股下の長さは少々日本人離れしているとすら感じた。すぐに部屋着である黒いスウェットを身に着けてしまったのでほんの僅かな時間だったが、美恵は桧並の姿に見とれてしまっていた。
「よし、じゃあちょっと待ってて。テレビとか見てくれてていいから」
桧並は冷蔵庫からぱぱっと必要な食材を取り出してキッチンの方へと向かう。その間暇になった美恵は部屋を見回していた所、部屋の隅にあった棚が気になりそちらを見てみた。自分の身長ほどの棚の中にはびっしりと小説が詰まっていた。いくつか手に取ってみるがそのほとんどがミステリーものだった。小説を読まない美恵にとってはどれもよく分からず美恵は本を棚に戻し、結局ぼんやりテレビを眺めるのに落ち着いた。
「はいどうぞ」
しばらくぼーっと流れる画面を目で追っていた所に、ことりと皿が美恵の目の前に置かれた。
「あ、おいしそう」
大き目の皿に乗って出て来たものは、ほんのり優しい黄色で覆われたふっくらとしたオムライスだった。真ん中には大根おろしが乗っており、一緒に出て来たもう一つの小皿はおそらくぽんずだろう。
和風おろしオムライス。シンプルだが、綺麗に焼かれた卵の形から彼女の丁寧さが垣間見えた。少しして自分の分のオムライスを持って桧並が美恵の横に座った。
「よし、食べよう」
「うん」
『いただきます』
小学校の給食のように声が揃って、二人は笑い合った。
ぽんずを少しかけてオムライスを口に運ぶ。ふわっとした感触と和風の味付けがじんわりと舌の上に広がっていく
「んーおいしい」
「よかった」
桧並もオムライスを口に入れてもぐもぐと頬張る。がつがつとスプーンを運ぶ姿がやけに勇ましくて可笑しかった。
「綺麗な顔してるくせに、がさつな食べ方だね」
「ダメか?」
「ううん、最高。ところで何で一人暮らしなの?」
「やってみたかったから。実家も正直すぐそこだからいつでも帰れるんだけどね。なんか自由じゃない。やっぱり一人って」
「そんな理由?」
「十分な理由だと思うけど」
「そんなもんか」
「そんなもんだろ。しかし、女子高ってとこがあんな窮屈だとはね」
「右に同じ。なんで一ノ瀬にしたの?」
「それは、ちさが一ノ瀬に行くって言うから」
また、千里が出て来た。そこの理由まで千里が絡んでいる事、それを当たり前のように言ってのける桧並に美恵は何とも言えない気分になる。
「……桧並は、それで良かったの?」
正直な気持ちだった。
いるだけで誰かが救えるならそれでいい。桧並はそう言うが、どうにも美恵には桧並の人生が千里に縛られているように思えてならなかった。
「あいつは私がいないと駄目だから」
少しの間を置いてから、桧並はそう答えた。
美恵にはあまり納得出来なかった。おそらく実感が湧いていないせいだ。今の千里と、桧並から聞いた過去の千里が美恵の中で繋がらない。
確かに重く辛い過去ではある。でもそれが、桧並の人生をまるごと縛っていいものには、どうしても美恵には思えなかった。
「ありがと」
「え?」
突然桧並が口にした感謝の意味が、美恵には一瞬分からなかった。
「でも、そういうもんなんだ」
桧並は美恵に笑って見せた。ぎこちないいつもの笑顔。
その綺麗な顔に浮かぶ感情は、美恵にはどこか悲しく見えた。
「なあ、美恵はなんで一ノ瀬に来たんだ?」
「あ、わたし? わたしは――」
美恵の理由なんて、大したものじゃない。少なくとも桧並のように、他人の命は関与していない。美恵は話ながら、桧並の抱える重さに何とも言えないやるせなさを感じた。
「じゃあ、またな」
「うん、また」
携帯の番号を交換しアパートを後にした後も、心の中に沈殿した淀んだ気持ちを拭いきれなかった。頭の中で桧並の笑顔がぼうっと浮かんでは消えていく。
桧並と千里。
美恵には、二人の抱えるものが、まだうまく理解しきれなかった。桧並の気持ちを、うまく心に馴染ませる事が出来なかった。