(10)
『学校の屋上で待ってる』
病院を訪れたその日の夜、桧並からメールが来た。簡潔で、それでいて強制力を伴った内容だった。
わざわざ何故屋上なのか。意味も分からず、また千里が飛び降りた場所を指定した事に美恵は苛立ちを覚えた。
――結局、千里なの?
恐怖政治の絶対支配の中で、千里への想いが桧並の中で育まれてしまったのか。ともかく会わないわけには行かず、美恵は学校へと向かった。
闇の中に佇む校舎という存在はどうしてこうも不気味なのか。
日中はにこやかに迎え入れてくれる正門は、何者をも拒絶する無骨な門番へと様相を変えていた。しかし、この先に桧並がいる。美恵は門を飛び越え校舎内へと踏み込んだ。
思った以上に暗い校舎の中を歩くには光があまりにも足らず、美恵は持っていた携帯で辺りを照らしながら上へと進んだ。
階段を昇り、屋上の扉の前に辿り着く。そして桧並に会う為に扉を開く。ぎいっと重々しい音と共に夜が視界に入る。その先に、制服姿の桧並が見えた。
「悪いな。今日はわがままが多くて」
「まったくだわ」
月が照らす桧並の姿は神秘的にすら見える程に美しかった。太陽よりも月光の儚さが彼女の魅力を引き出していた。
「ねえ、何を話すつもり?」
目的もなくこんな呼び出しをする人間ではない。はっきりとした意図が桧並にはあるはずだ。
「ありがと。一人じゃ不安だったから。おかげでちゃんと顔を合わせられた」
「……そ。よかったね」
思わずそっけない返事になってしまう。千里に会えた事を嬉しそうに話している事に、美恵は無性に苛立った。
「おかげでちゃんと殺せた」
「ああ……え……?」
――殺せた?
「桧並、今なんて……?」
「ちゃんとお別れを言ってきた」
「お別れって、あんた……千里を……」
桧並がこちらに近付いてくる。そしてその手には、カッターナイフが握られていた。
刃にはべっとりと血がついていた。
「あの子のご機嫌とりの人生、長くて辛かった」
「……桧並」
「これでやっと、私は私の気持ちに遠慮しなくてよくなる」
桧並の笑顔にいつもの不器用さはない。綺麗にあがった口角が、逆に美恵には不自然に見えた。
「あの子がここから落ちた時、ようやく解放されたと思った。晴れ渡るような気持ちだった。千里はいない。そして美恵がいる。でも、しばらくして、夢にあの子が現れるようになった。終わってないんだ。何も。ずっと意識が戻らなければいいと思った。でもいつ目を覚ますか分からない。そうでなくても、あの子は夢の世界にまで来て私を縛る。本当の意味で絶望を乗り越えるには、ちゃんと終わらせるしかないと思った」
自分の胸の中に込み上げている感情が、悲しさなのか、辛さなのか、怒りなのか、虚しさなのか、怖さなのか。負の類ではあるが、それがどれに該当するかははっきりしなかった。
「なあ、美恵」
「……何?」
「こうならなきゃよかったって思ってる?」
桧並と出会わなければ、確かにこんな事にはならなかっただろう。
無味乾燥ながらも、それなりの平和と平穏の中で悪態をつきながら歩めただろう。
だが、それを肯定してしまえば、桧並の全てを否定する事になる。
桧並との出会いも、時間も。
それは、絶対に違う。
「そんな事、ない」
本心を口にすると、桧並はその答えが当たり前のように笑顔を見せた。
「私も一緒」
ほんの少しだけ、体温が上がった。
ほのかに、微かに。でも桧並でしかあげる事の出来ない美恵の温度。
その暖かさが欲しくて、その暖かさが幸せで、美恵は桧並と一緒にいる事を選んだ。
沈黙。
そして一際強く、風が吹いた。
それを合図に、桧並の口が開く。
薄く整った唇が冷気でかさついていた。
「死んでくれるよな、美恵」
笑顔のまま、桧並の目からは涙が流れ落ちた。
そしてあっという間に微笑みが崩れていく。
桧並の絶望は、全く救われていなかった。
「消えないんだ! 心拍音が止まって、あの子が死んだ事が証明されて、これで本当に解放されたと思った! でも、消えないんだ! 鎖が切れないんだ!」
桧並の嘆きが虚空に広がる。
「甘く見てた、あの子の事。そう簡単には、解放してくれないみたい」
「それで、自分も死んで、わたしも殺すのね」
「一人じゃ無理なんだ。一緒に鎖を切って欲しい。美恵じゃないと、駄目なんだ」
最後のセリフが、千里のセリフと重なる。
桧並に懇願した千里の言葉が脳裏をよぎる。
「桧並」
「私があの子を殺した事なんてすぐにばれる。どっちにしても、もうここにはずっといられない。私は、ちゃんとやり直したい。私の人生を。本当に大事な人と一緒に過ごせる世界を、やり直したい」
絶望の果てを見ているようだった。
もう何もかもが、最初から手遅れだったのだ。
出会った時から、こうなる事は決まっていたのだ。
「希望の端が絶望でも、その先はただの終わりじゃない。またその向こうに希望があるって、私は思ってる」
――だったら。
「この世界に絶望の先はないかもしれない。でも別の所にならあるかもしれない。だから、私は、その先に進みたい。美恵と一緒に」
――わたしは、あなたと一緒にいる。あなたの絶望の為に。
「行こう、美恵」
――全ては、あなたの絶望の為に。
「うん、行こう。桧並」
美恵から噴き出した鮮血が、桧並もろとも世界を塗りつぶしていく。
その先にあるものが桧並にとっての、希望の世界と信じて。
全てはあなたの絶望の為に(完)