(9)
結論から言えば、千里は無事だった。
全身を打ちつけ、何か所か骨も折れてはいたが、落下の最中植えられている木々に途中体がひっかかり、降下速度が緩まった事が大きかった。ただ、頭を強く打ちつけていた事で今も意識はない状態だった。いつ目覚めるのかは今の所医者にも分からないとの事だった。
千里の自殺未遂から、美恵をとりまく環境が大きく捻じれ始めた。千里の自殺現場に立ち会わせていた事から様々な噂が蔓延し、その結果、その噂は美恵の状況を悪くするものに落ち着いた。
人殺し。
それが今の美恵に対するレッテルだった。
千里は実際には生きている。だが周りからすれば殺したようなものだという認識だった。
残念ながら、美恵と桧並以外は千里の本性を知らない。明るく元気で可愛らしい女の子。それが皆の千里だった。
そんな幼気な女の子を美恵達が追いつめ自殺に追いやったという説が、有力なもの流布してしまったのは残念ながら必然であった。警察の事情聴取もあり、もちろん美恵は事実をそのままに伝えたが、肝心の千里の証言がない事がその説を逆に強固なものにしてしまっていた。
えみり達との距離も前とは大きく変わった。
教室に居ても、誰も美恵に近寄らなかった。
正直、自分がみすぼらしく惨めに思えた。端に座るえみり達によく囲まれていたあの地味な眼鏡少女を見る。
絶対ああはならない。そう思っていたが、今自分は彼女と似たような立場にいる。いや、彼女よりもひどい。
そうして美恵は気付いてしまった。
自分は誰よりも、孤独を怖がっていたのだと。
周りを見下し優越感に浸っていたのではなく、ただ自分のしっかりとした足場に安心したくて、それてそれを失う事が怖くて必死だったのだ。
――自分が一番、くだらないじゃない。
「私も、似たような感じだ」
桧並の環境も美恵とほとんど同じらしい。だが、美恵に比べ、桧並はどこか心安らかに見えた。
毎日のように桧並の家を訪れるようになったが、顔色は前に比べ良くなっているように思えた。千里が自分の生活から離れた場所にいる事の安心なのだろうか。
その頃には、美恵達は自然と体を重ねるようになっていた。あの時の桧並の絶望を消す為の手段ではなく、ただ純粋に愛しい存在として。
学校は前にも比べて辛く窮屈なものになっていたが、桧並の存在が美恵の心に温もりを与えてくれた。この温度を離したくないと思った。
だが、美恵は気付けていなかった。
絶望は、そうも容易く晴れるものではない事を。
「ついて来てくれないか」
正直賛同しかねる提案だった。
桧並が千里の見舞いに行きたいと言い出しのだ。
理由をたずねると、あの子だって悪気があったわけじゃないから、という答えが返ってきた。縛られ、脅され、好きにされてきたのではないのか。そんな相手に長い時間を共に過ごし、辛い過去を知り得形はどうあれ支えてきた相手だからといって、寄り添う必要があるのか。美恵には分からなかった。
誰にも外せない鎖。
千里が残した言葉と鎖は、確かにそう簡単に外せるものでも錆びつくものでもない
目の前で人が死にかけた。その要因に自分自身が関わっている。罪悪感が全くないと言えば嘘になる。だが美恵にとっては桧並を苦しめた憎き相手に変わりはない。そういう意味で、いくら意識がないとはいえ、あまり顔を合わせたくはなかった。
結局は桧並の気持ちを尊重し、病院を訪れる事になった。受付で見舞いの件を告げると5分程度の時間なら面会してもいいとの事だった。
担当の若い看護師に連れられ入院病棟へと向かった。千里の部屋は4階の403号室で先程までは義理の両親がいたのだが家の用事で一旦病室を離れたとの事だった。
部屋の前まで来ると、5分という約束ではあるが少しくらいなら延びてもかまわないから、と笑顔を残し立ち去って行った。
「美恵は、入らないよな」
「うん」
部屋の前まで来ても気持ちは変わらなかった。脳裏に浮かぶ千里の顔は、輝く明るい笑顔ではなく、やはり怨念を宿した悪鬼の顔だった。
「先に帰ってくれてもいいぞ」
「え?」
「待たせるの悪いし。正直怖かったんだ、一人で来るの。だから美恵についてきてもらったんだ」
「……」
「無理言って悪かった。もう大丈夫だから」
「それはいいけど……どうせそんな長居出来ないんだから、別にここで待っとくよ」
「あの看護師さんも言ってたろ? ちょっとぐらい長引いてもかまわないって」
「……」
「わがままで悪い。思うようにさせてくれ」
桧並の部屋の中に消えた。それ以上何も言えなかった。言外にどこかに行って欲しいという事だ。なんだか腹が立って、美恵は部屋の前を後にした。元来た道を引き返し、病院の外に出る。振り返り4階部分を見上げる。桧並は、彼女に何を語りかけているのだろう。二人が時間を過ごしている事に美恵は嫉妬を覚え、それを振り払うように歩を速めた。