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くだもの  作者: ケヤキ
5/8

なし

 最悪だ。

 もうその言葉しか頭に浮かんでこない。

 私は今きっと絶望的な表情でこの紙きれを見つめているに違いない。

 最悪だ、本当に最悪だ。

 そんな私に対して隣の席に座っているタツキは能天気そのもの。


「どうだった?」


 軽い調子でそんなことを聞いてくる。彼女はいつだってこうだ。


「……最悪」

「まじで? どんだけ最悪?」


 わざわざ聞いてくることに少し苛立った。


「最悪ったら最悪なの!」


 突き放すように答えて、私は持っていた紙きれを乱暴に折り畳んだ。

 教壇では、担任が次々と生徒たちに紙きれを配っている。こんな紙きれなんか、と割り切れたらどんなに楽だろう。


「まぁ、落ちる時は落ちるんだから、あんまり気にすんなって」


 この時期には禁句となっている言葉をさらっとタツキに言われ、私はますます気が重くなった。私は最悪な模試の結果が書かれた紙を、クリアファイルの中に押し込む。

 現実逃避。

 結果が変わるわけではないけれど、そうでもしないとやってられない気分だった。


 


 中学三年の秋。

 言わずもがな、受験生は追い詰められている時期。私もその一人。目指す学校の偏差値と自分の偏差値を見比べ、ため息をつく毎日だ。

 そんなことは誰だって一緒。中には結果の紙きれをため息なしに眺める人もいるのかもしれないが、少なくとも私の周りにそんな人はいなかった。一人、例外を除いて。


「あっちゃー偏差値がっつり下がっちった」


 そんな能天気な声を上げて模試の結果表をひらひら振っているのは、私のクラスメイトであるタツキだ。彼女はいつだってへらへら笑っていて、何事も気楽に考えているような人間だ。それは受験シーズン真っ只中でも変わらなかった。


「ねーねー、そっちは最悪って言ってたけど、どんだけ下がったの?」


 私の模試結果の紙きれを覗き込もうとしてきたので、私は咄嗟に自分の体で隠した。


「見ないでよ!本当にへこんでんだから!」


「そんなのへこんだって数字は変わんないよ。もっと前向きに考えなよ、下がっちゃったもんはしょうがないんだから、次頑張ればいいでしょ」


 簡単に言ってくれる。

 この時期の受験生はみんな追いこみモードで、どれだけ点数が上がっても偏差値はなかなか上がってくれないのだ。そんな中、急に下がってしまったとなると、落ち込むのも当然のことだった。ただでさえ、受験に追われて心が折れそうなのに。


「それよりもうお昼だからお弁当食べよう」


 そう言ってタツキは私の机にお弁当を置いて、椅子を引っ張って来た。私もしぶしぶお弁当を取り出して机上に置く。横には参考書も置いた。

 最近はご飯を食べている時間も惜しいほど切羽詰まっている。お弁当を開いて一緒に参考書を開いた私を、タツキはウィンナーを齧りながら見ていた。


「がんばるねーあんたも」

「そりゃ、もう秋だし偏差値危ないし」

「ご飯ぐらいゆっくり食べたらいいじゃない。あ、梨ちょうだい」


 こちらの返事を待たずに、タツキは私のお弁当に入っていた梨を一つ攫っていった。この季節は親戚から毎年梨が送られてくるので、お弁当にも入っていることが多い。普段なら楽しみにしているものだけど、受験のせいで素直に喜べなかったりする。


「はい、私のおかず好きなの取って」


 タツキは私に自分の弁当箱を差し出した。私は適当にたまご焼きを一つ取って食べた。タツキのたまご焼きはすごくおいしいので、時々こうしてもらうのだ。


「ありがとう」

「いやいやこっちこそ、梨ごちそうさま」


 お互いお礼を言って、私は参考書に目を落とした。


「ところでさ、あんたのそのペットボトル、何?」


 タツキに言われて気づいた。


「あ、間違ってお兄ちゃんの持ってきちゃった」


 お弁当用にと家の冷蔵庫から適当に持ってきた飲み物は、兄のだった。


「なにこれ?」


「お兄ちゃんの。お兄ちゃんずっとバナナ味のジュースばっかり飲んでてさー何考えてんのかわかんないよ本当」


 ため息交じりに言うと、タツキは笑った。


「あんたの兄ちゃん面白いね」

「変な人だよ、何考えてんのか全然わかんないし」


 ついつい兄に対する愚痴が出てしまう。

 別に兄を嫌っているわけではない。ただ、受験期ということもあり、二つ上の兄の成績と比べられ、最近は不満が溜まっているだけだ。

 兄はなぜか無駄に頭がいいから。

 私にもそのプレッシャーをかけられている。比べられるのは苦手だ。


「そういえばさ、ちょっと前にK高校の生徒が死んじゃったってニュースでやってたじゃない?」


 タツキが唐突にそんな話題を口にした。その話なら私も知っている。何しろ、その高校は兄が通っている高校だからだ。


「なんか男子生徒と女子生徒が事故で死んだって話だけど、実は心中したって噂が流れ始めててさ」

「……そうなんだ」

「その死んだ女子生徒が悪質なストーカーだったらしくて、男子生徒は被害者で無理心中っていう話が――」


 私はその話を半分聞き流してお弁当を食べながら、少し前に兄が夜遅くに帰って来た日のことを思い出していた。

 その日、夕食の時間をとっくに過ぎてから兄は帰宅した。両親は帰宅が遅くなったことを怒らなかった。

 兄が珍しく学校の制服をきちんと着ていたのを覚えている。少しお線香の匂いがしたから、お葬式に行ったんだとわかった。誰のお葬式に行ったのかは聞いていない。

 後日、ニュースで取り上げられた事件で死んだ男子生徒のお葬式だと知った。クラスメイトだったらしい。その日から、兄に変わったところは見られない。

 しいて言えば、イチゴ味の飲み物ばかり飲んでいたのが、バナナ味に変わったことくらいだった。


「おーい、聞いてるかー?」

「え、何?」


 我に帰ると、タツキがアスパラを咥えながら私の目の前で手を振っていた。


「上の空だったからさー考え事?」

「あ、うん、ちょっとね。何の話だっけ?」


 聞くと、タツキはアスパラを飲み込んで口を開いた。


「そこって私たちの志望校じゃん? その事件で受験者が減るかもって話だから、ちょっとは希望が見えるんじゃないかなって話よ」


 その事件の話からそんな考えに発展していたのか。私は呆れてしまった。


「そんなのわからないよ。大体そういう考えをする人がタツキだけとは限らないでしょ。下手したら増えたりするかもじゃない」

「その時はその時でしょ。

 なんとかなるって!

 心配すんな!」


 タツキはそう言って笑った。

 その明るさはどこからくるのだろう。私はため息をついて、お弁当の梨を齧った。

 彼女なりに励まそうとしてくれたのかなと考えて、私は梨をもう一個あげた。


 


 夕方帰宅すると、珍しく兄がすでに帰宅していた。


「ただいま、お兄ちゃん帰ってたんだ」

「おぅ、おかえり」


 居間にいた兄はこちらを振り返って手を振った。帰ってきたばかりなのか、制服のままだった。


「お前今日俺のバナナコーヒー持っていっただろ」

「あ、そうそう。ごめん、間違っちゃって。でも飲んでないよ、冷蔵庫に入れておくね」


 私は未開封のペットボトルを冷蔵庫に入れる。


「あのさー、すぐそこに菓子屋あるだろ?」


 唐突に兄がそんなことを聞いてきた。


「うん、よくお母さんと行くけど」

「あそこ、うまい?」


 兄がこんなことを聞いてくるのは珍しいなと思いながら、私は鞄を置いてお弁当を台所の流しに持って行った。


「おいしいよ。私はあそこのマドレーヌが好きだな」

「ふぅん」


 兄のいつもの相槌が返って来た。


「どうかしたの?」


 聞くと、兄は少し黙ってから、ぼそりと答えた。


「ちょっと、見舞いに」

「お見舞い?」


 入院している友達がいるのだろうか。兄は、クラスにもう友達はいないと言っていたけど。


「まぁ、ちょっとした知り合い」

「そうなんだ、女の人?」

「え、なんで?」


 意外そうに兄が聞き返してきた。


「だって、男の人のお見舞いにあんなおしゃれなお菓子屋さんのお菓子持って行こうとか、お兄ちゃん考えないでしょ」

「……また花持って行くものどうかと思って」


 兄は頭を掻きながらぼそぼそと答えた。

 あの日のお葬式以来、学校に友達はいないと言っていた兄だったけど、どうやら新しく友達ができたようだ。

 友達というより違った感情かもしれないけれど。


「あそこのマドレーヌ、おすすめだよ。その人が食べても大丈夫なら、お見舞いに持って行ったら?」

「……あぁ、サンキュ」


 兄はぼそりと礼を言った。


「ところで、今日模試の結果出たんだろ?どうだった?」


 さりげなく傷を抉るようなことを聞いてくる。


「……下がった」

「ふぅん」


 兄のいつもの興味なさそうな相槌にちょっとカチンときた。


「ふぅんって何よ!自分で聞いておいて!」

「それ以外になんて言えばいいんだよ」


 それもそうだけど。


「受験大丈夫か? 俺と同じ高校来るんだろ?」

「……そのつもりだけど」

「まぁお前なら大丈夫だろうからあんま言わないけどさ、下がったからって落ち込んでばっかは駄目だからな」

「わ、わかってるよ」


 タツキにも言われたばかりだ。

 自分でもわかってはいるけど、落ち込むものは落ち込む。


「……ねぇ、お兄ちゃん」

「ん?」


 私は今日のタツキの話を思い出して、ちょっと聞いてみたいと思った。


「お兄ちゃんの学校で、死んじゃった生徒がいたでしょ?」

「……それが何?」


 兄の声のトーンが変わった。


「あのさ、今日友達に聞いたんだけど、その事件って無理心中じゃないかって噂になってるらしいんだ」


 兄は無表情のままだ。


「お葬式に行ったって聞いたし、お兄ちゃんは、何か――」

「お前には関係ないよ」


 その一言で遮られた。

 私はそれ以上何も聞かずに、鞄を持って自分の部屋に行こうとした。

 その時、背中に兄の声がかかった。


「無理心中はない。そんなのは嘘だ」


 兄の声は少し寂しそうだった。


「あれは、あいつが望んだんだから」


 


 次の日、私は痛む足に鞭を打って家を飛び出した。

 寝坊だ。完璧に寝坊だ。

 ベッドから落ちた時に打った足がまだ痛い。でも、走らないと授業に間に合わない。

 昨日話したお菓子屋さんの前を通りかかった時、店内に兄の姿を見つけてつい足を止めてしまった。こっそりお店に入ると、兄はショーウィンドウをじっと見つめて動かない。


「お兄ちゃん?」


 声をかけると兄はこちらを振り返って、首を傾げた。


「あれ、お前サボり?」

「違うよ! 今日はちょっと寝坊しちゃっただけで」

「なら、急いだ方がいいんじゃないの?」

「お兄ちゃんこそ」

「俺は今日見舞いに行くから」


 つまりサボりね。

 なんで兄はこんなことしていて頭がいいんだろう。


「何悩んでるの?」

「……どっちにしようかと」


 見ると、普通のマドレーヌとバナナマドレーヌが並んでいた。


「どっちでもそんなに変わらないと思うけど」

「……あいつバナナ好きかな」


 これは本気で悩んでいるらしい。

 私はじれったくなって構わず店員さんに声をかけた。


「すみません、このバナナマドレーヌ十二個入り一つください!」

「あ、おい」


 兄が声を上げるより早く、店員さんが畏まりましたと奥へ入って行った。


「お前な……」

「お兄ちゃんは本気で悩んだら一時間は決められないでしょ。こういうのは直感でいいの」

「……人にやるもんだから真剣に悩んでたのに」


 兄はぶつぶつ言いながらも、財布を取り出した。


「じゃあ、私学校行くから。あんまりサボりすぎたら駄目だよ」

「あぁ、ありがとな」

「じゃあね」


 私は兄に手を振ってお店を出た。

 時計を見ると、もうすぐ朝のホームルームが終わってしまう時間だった。今から走れば、一時間目には間に合う。私は鞄を掛け直して走り出した。

 そうして全速力で駆けて学校に着いた時は、ちょうど一時間目が始まるぎりぎりだった。慌てて席に着くとタツキが笑って手を振った。


「おはよ」

「お、おは……よう」


 私はゼェゼェ息をしながら返事をした。深呼吸をして爆発しそうな心臓を落ち着かせる。


「今日はどうした? 寝坊でもした?」

「うん、起きたらいつも家出る時間で……」

「あははは、そういう時って時計見た時の絶望感が半端ないよね。思わず飛び起きるぐらい」


 私は力なく笑い返した。

 まさに今朝の私はそんな感じだった。おまけに飛び起きてベッドから落ちたのだった。

 心臓も落ち着いた頃、教室に先生が入ってきて授業が始まった。私は机の上に教科書とノートを出して、授業を聞く態勢に入る。最初に、先日の宿題を当てられた生徒が黒板に書くことになり、生徒が書き終わる間に私はぼんやり窓の外を見ていた。

 兄はちゃんとお見舞いに行っただろうか。

 お見舞い相手はどんな人なんだろう。普段の兄の様子を見ている身として、少し気になるところだ。

 来年、私が受験で受かればその人に会うことができるだろうか。私は来年会えるかもしれない先輩のことを考え、兄のことを考えた。

 家では見られない兄の姿が見られるかもしれない、と考えるとちょっと面白い。

 意地でも受かってやろう、と改めて決心した。


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