ばなな 2
入院生活一日目の朝。
目が覚めてすぐ看護師さんがやってきて、検温や体調はどうかなどの当たり障りのない会話をした。そして看護師さんは備え付けのテーブルに朝食の載ったお盆を置き、きちんと食べるよう念を押して、病室を出て行った。
よく病院食はおいしくないと聞くけれど、消化器官に問題がないなら普通の食事とほとんど変わらないメニューが出されるらしい。塩分とか健康上の配慮はもちろんあるけれど、この日の朝食は普通においしかった。ゆっくり朝食を取ったのは久しぶりな気がする。
今日は検査がないらしいので、朝食を終えた私は暇になってしまった。寝てなければいけないわけではないので、病院の中を回ってみようかと考えたけど、父と母が来ると言っていたし、入れ違いになったら心配をかけてしまうかもしれない。
かといって、部屋の中ですることもない。いつもなら暇つぶしに携帯をいじったりするんだけど、病院で携帯は使えないはずだ。他に暇を潰せるようなものは何も持っていないので八方塞がり。
どうしようかと考えあぐねていると、部屋のドアが開いた。母が来たのだろうかと思ってそちらを見ると、そこに立っていたのは彼だった。呆けてベッドの上にいる私に、彼はいつもの調子で、
「なんだ、元気そうだな」
と言ったのだった。
「え、どうして……私、入院していること、教えてないのに」
「あんたの母さんから電話で聞いた。入院するって言うから、部屋の番号聞いておいたんだ」
なぜ母が彼に電話をしたのだろう。そもそも、彼のことを母は知らないはずだ。
「倒れてたあんたを保健室に運んだの、俺だし」
「え?」
「階段下りてったら、あんたしゃがみ込んでて苦しそうにしてたし、声かけても反応ないし。だから、あんた背負って保健室行って、迎えに来たあんたのお母さんにすごいお礼言われた。その時に番号聞かれて教えた」
「……そ、そう……あ、ありがとう」
意識を失う直前に肩を叩いたのは彼だったのか。迷惑をかけてしまったと申し訳ない気持ちになる。
でも、なぜわざわざ病室まで来てくれたんだろう。
そんな私の疑問を察したのか、
「一応、見舞い。これ、大したもんじゃないけど」
そう言って彼が差し出したのは、小さな籠に入った花だった。
「さっき近くの花屋で買った」
「あ、ありがとう」
差し出された花を受け取って戸惑いながらもお礼を言った。
こういったものをもらうのは初めてだ、少し緊張してしまう。
花の香りが漂って来て、ついスンスンと嗅いでしまった。
「あ、立ったままもなんだし、そこ座って」
私はベッドの横の椅子を指した。彼は素直に座ってくれた。花はあとで母に花瓶を持ってきてもらおうと思って膝の上に置く。
「調子はもういいのか? 元気そうだけど」
「うん。今はなんともない」
「ふぅん」
いつもの素っ気ない相槌の後、彼は持っていたバッグから缶を取り出した。パッケージにはバナナコーラと書かれていた。
「それ、買ってきたの?」
「あぁ、花屋にいくついでに」
彼がよくわからない。
そんな私の呆れた視線を余所に、彼は缶のプルトップを開けて呷った。喉を鳴らして一口飲んだ彼は、パッケージを見つめて唸った。
「うーん、まずい」
「……残念だったね」
「今度はバナナコーヒーにする」
本当に彼がよくわからない。
というか、そんなにバナナ飲料の種類があることが少し驚きだ。
「あんたも飲むか?」
「まずいって言ったものを人に勧めるのはどうかと思うよ」
「そういやそうだな。あ、それにあんたアレルギーあるんだっけ」
そう言って彼はまた一口飲んだ。まずいものでも残さないのは偉いと言うかなんというか。
少し気が引けたので、私は正直に話すことにした。
「その、アレルギーって嘘なの」
「え、まじで?」
それほど驚いた様子ではなかったが、声が少し上擦っていた。
「何の病気?」
私は医師から聞いた病気の名前を教えた。彼はよくわからないといった様子で難しい顔をしている。
正直、私も自分の病気が具体的にどんなものか理解しているわけではない。
「いつ治る?」
「治らないよ」
「ずっと付き合わないといけない病気か?」
「ずっとというか……私、もうすぐ死ぬから」
自分で言っておいて現実味のない言葉だなと思った。
そして思っていたより、抵抗なく口にできたことが自分でも意外だった。
私は自分で考えているより、自分の病気を受け入れているのかもしれない。
「……なにそれ」
彼は意味がわからないと言った様子で訝しげにこちらを見ていた。もうバナナコーラは飲み終わったらしく、脇の台の上に空の缶を置いた。カンと軽い音がやけに大きく響いた。
「何? そんな重い病気なわけ?」
少し怒ったように聞こえるのは気のせいだろうか。
「重い……みたい。少なくとも余命宣告されるくらいだし」
「いつ?」
「あと……4ヶ月くらいかな。春くらいに、余命1年だって言われたの」
数えてみるともう1年の半分もないのだと改めて実感した。
ただし、これは医師から聞いた余命の通りになったらの話。縮むかもしれないし、伸びるかもしれない。要は気の持ちようだと医師は言っていた。
医師がそんな軽く言っていいのかと思ったが、下手に現実的なことを言って患者を不安にさせてはいけないという配慮なのだろう。
「……4ヶ月か」
「うん」
「学校は?」
もう行けないと答えると、彼は黙ってしまった。
嘘をついていたことに怒っているのだろうか。次の声をかけられずにいると、彼はぼそりと呟いた。
「嫌だ」
「え?」
「あんたと話せなくなるのは、つまらない」
「……そんなこと言われても」
私にはどうしようもない。彼はまるで駄々をこねる子どものように口を尖らせた。
「あんたとは1年も付き合ってないけど、俺はあんたと話をするのが好きだし、話せないのはつまらない」
そう言ってくれるのは嬉しいけど、どうしようもないのだ。
それに付き合うと言っても、新学期が始まった頃にたまたま彼に会って、時々話をしていただけの関係だ。彼にとってはそう思ってもらえるほど、深い付き合いだったのだろうか。
私が何も言えずにいると、彼は脇に置いてあった缶を持って立ち上がった。
「今日は帰る」
「あ、うん。来てくれてありがとう」
「また明日」
「え?」
予想外の言葉に驚いて聞き返すと、彼は踵を返して部屋を出て行った。
また明日。
明日もお見舞いに来てくれるということだろうか。本当に彼のことがよくわからない。
私は彼が出て行ったドアの方を見つめ、そういえば今日の学校はどうしたのだろうと思い至った。時計を見ると、まだお昼にもなっていない。今日は文化祭後の後片付けの日のはずだ。当日の仕事がない人でも、クラス単位で仕事を分けられるから全員参加しなければいけない。
サボったのかな。
それに、明日も平日だ。当然学校では普通どおりに授業が行われる。文化祭の代休日は明後日からのはずだし、授業が終わってから来るということかな。
一人でそんな事を悶々と考え込んでいるうちに、父と母が病室にやってきた。母に彼がお見舞いに来てくれたと話すと、あらそうなのと嬉しそうに笑った。
笑った母を見たのは久しぶりな気がして、ちょっと嬉しくなった。
次の日、検査を終えて病室に戻ってくると、病室の前で彼が壁に背を預けて立っていた。私が驚いて立ち尽くしていると、
「また明日って言ったろ」
彼は素っ気無く答えて、壁から離れた。制服を着ているから、この後学校へ行くのだろうか。本当に来てくれるとは思っていなかったので、驚いた反面嬉しかった。
「来てみたらあんたいなかったから、待ってた」
「あ、うん。今日は検査だったから」
「ふぅん」
そう相槌をうって、彼は紙袋を差し出した。
「お見舞い」
「えっ」
「アレルギーはないって聞いたから、適当に食べ物」
半ば押し付けられるようにして受け取った紙袋の中には、きちんと包装された箱が入っていた。お店の名前を見ると、とある洋菓子店の名前が書かれてある。
ここ、最近評判になっているお店だ。
「家の近くの店で買ったんだけど、俺食べたことないから味の保証はできない」
彼は悪びれもなくはっきり言う。
彼の家はこのお店の近くなんだ。
そういえば、私は彼のことをほとんど知らない。
彼については、いつもあの場所でご飯を食べていて、バナナ味の飲み物ばかりを飲んでいることくらいしか知らなかった。
クラスも知らなかった気がする。
「……ありがとう。でも、高かったんじゃない?」
「別に」
いつもの調子で返された。嘘なのか本当なのか掴めない。
「あ、じゃあ病室に寄ってって。一緒に食べない?」
「あんたがいいなら」
そう言って彼は私に続いて病室に入ってきた。昨日と同じように椅子を勧めて座ってもらう。私はベッドに座って箱を開いた。箱の中には小分けされたマドレーヌが入っていた。おいしそう。
「お茶とかいる?」
「あんたが何かいるなら買ってくるけど、何か飲むか?」
彼なりに気を使ってくれているようだ。
私は首を振って断った。朝の内にベッド脇の小さな冷蔵庫にペットボトルの飲料をいくつか買って来て入れておいたのだ。
そのことを伝えると、彼は自分の鞄からペットボトルを取り出した。パッケージにはバナナティーと書かれてあった。
「あれ、バナナコーヒーは?」
「ちょっと、予定変更」
彼はペットボトルのキャップを捻って開けると、一口飲んだ。
「想像していたのと違った」
そう言ってまた一口飲んだ。
果たして彼が気にいるバナナ飲料は存在するのだろうか。
私は自分の分のペットボトルを取り出して、マドレーヌを一つ手に取った。袋を開けて、一口齧る。程よい甘さと口の中に広がった風味はバナナだった。
「うん、おいしい」
素直に感想を言うと、彼も一つマドレーヌを手にとって、それなりの大きさのあるそれを一口で放りこんでしまった。
「うん、うまい」
咀嚼しながらやや不明瞭にそう呟いた。
一応、彼の味覚も人並みなんだなと失礼ながらも認識した。もちろん口にはしなかった。
「あんたさ、何か思わないの?」
唐突な彼の言葉に私はマドレーヌを銜えたまま首を傾げた。
「もうすぐ自分が死ぬって知ってるのに、随分落ち着いてるな」
それは私も思う。
「なんていうかな……実感みたいな、それが湧かなくて」
「……ふぅん」
「それに、死ぬって突然言われて信じられる? 何かの冗談だって思うでしょ?」
「でも、余命宣告されたの春なんだろ。だったら、まだ冗談だと思ってるわけじゃないんじゃないか?」
それもそうだ。
確かに私はもう余命宣告が冗談とは思っていないし、ちゃんと現実のこととして受け入れている。そのはず。。
でも、実感できないものは実感できないのだから、仕方ない。
「あんた、死ぬ前に何かしたいことってないのか? こういう時って、そういうこと考えたりするもんだろ?」
彼は呆れたように聞いてきた。
それを聞いてふと気づいた。私は死ぬ前に何かをしたいと考えたことがなかった。
「全然考えなかった」
今度こそ呆れたのか、彼は黙ってしまった。
「だって、そんなこと思いつきもしなかったし」
私は口を尖らせてそう言うと、マドレーヌを飲み込んだ。
本当においしい。
ついでにペットボトルのお茶を一口飲む。
「本当においしいね、このマドレーヌ」
「この流れでそれ言うか。
バカなこと言ってないで、
なんでもいいから
何か話せよ」
「なんでもって……じゃあ別にばかなことでもいいんじゃないの?」
矛盾したことを言うなぁ、と思ってそう言うと、彼は口を尖らせてそっぽを向いた。
子どもみたい。
「いいんだよ、なんでも。時間……ないんだから」
どうやら、彼は私よりもずっと私の余命のことを気にかけてくれているらしい。両親にもそうだけど、周りがこんなに気を使ってくれているのに、私自身が病気のことをほとんど意識せずに生活していることが申し訳なく思えてしまう。
「俺はいつもあんたに話を聞いてもらってたから、今度はあんたの話したいことを俺が聞く」
話を聞いてもらったとは言うけれど、彼から相談を受けたりとか愚痴を聞かされたりしたことはない。話すことと言えば、クラスのことや学校行事のことなど日常的なものだった。それに、彼の話を一方的に聞いていたわけでもない。
「別にいいよ、いつも通りでいいじゃない」
すると、彼は俯き気味に呟いた。
「あんたがそれでいいなら……」
納得してくれたようだ。
まるで小さい子供を宥めていたような気分になり、思わず笑ってしまった。
すると、彼は真面目な顔になって姿勢を正す。
「何か、死ぬ前にしたいことはないのか?」
「したいこと……かぁ」
私は考えてみた。
特に今まで考えなかったせいか、咄嗟に思いつかない。
やり残したことや、やってみたいことが特別あるわけではない。
私は悩んで悩んで、ふと目に入ったのは、彼の持ってきたペットボトルのパッケージだった。
「じゃあ、一緒に探そう」
「は?」
彼の声が少し上擦った。
「バナナ味の飲み物でおいしいの探してるって言ってたじゃない? それ、一緒に探そうよ。私が死ぬ前に見つけよう」
「……そんなことでいいのか?」
私は頷いた。
彼が気にいるものを、私は知りたいと思っていたから。
「じゃあ、今度飲むのは、二人分買って来る」
彼はそう言って、頭を掻いた。
「また、来るよ」
「うん、待ってる」
私は笑顔で答えた。
死ぬ前にしたいことが、見つかった。