ばなな 1
余命なんて言葉を聞くのは、テレビの向こうや本の中だけだと思っていた。
普通に生きていれば、自分が死ぬなんてことはほとんど考えもしないことだろう。
人がいつか死ぬというのは当たり前のことで、大抵の人はそのことをわざわざ考えたりしない。考えても答えは出ないし、そもそも答えはないようなものだ。
そんな現実味のない、余命というたった2文字の言葉。
私と一緒に病院へ来てくれた母は、医師のその言葉を聞いた途端に顔色が悪くなり、次の瞬間には泣き出してしまった。
母が泣いているところを見たのはそれが初めてだった。その日の夜、母からそのことを聞いた父も、がっくりと項垂れて手で顔を覆っていた。
私本人はと言えば、いたって普段どおりにしていた。
医師が話していた長ったらしい病気の名前なんて頭に入ってこなかったし、
「あなたはあと1年で死にます」
なんて突然言われたって困る。
私は健康体だと思っていたし、具合が悪くなったのもただの風邪だと思っていたくらいだ。余命宣告されるくらいの病気なら、もっと苦しいとか血を吐くとか、そういうことがあると思っていたのにそんな気配もない。
おまけに、余命宣告を受けてからも普通にご飯も食べられる。
学校にも通っている。
運動も制限されているわけではない。
学校のほうには何も伝えずにおこうと両親が話し合ったらしいので、私は普段とあまり変わらない学校生活を送れている。
強いて変わったことを挙げるなら、薬をもらっていることくらいだ。
突然の宣告から何事もなく時は過ぎ、自分が病気だと自覚の薄いままカレンダーは10月のページになった。
そろそろ文化祭の時期ということもあって、学校全体が文化祭モードに切り替わり始める。
私は2年生なので、クラス単位で教室展示を作るんだけど、それは前日までの作業なので当日は暇になる。
部活もしていないし、委員会の仕事もない。
友達は皆部活の出し物や委員会の仕事があるので、一緒に過ごす相手もいない状態だ。
「ミノリは当日どうするの?」
文化祭前夜祭の前日。
浮ついた雰囲気の教室で昼食をとりながら、友達は私に尋ねてきた。
彼女は風紀委員会で来場者のチェックや生徒の風紀チェックやらがあるらしく、当日は学校中を回っているらしい。
大変だなぁ、なんて呑気に考えながら、私はお弁当のおかずの卵焼きを口に運んでいた。甘い卵焼きは母の得意料理だ。程よい甘さは癖になる美味しさで、毎日食べていても不思議と飽きない。
「みんなの部活の出し物見に行くよ」
「でも、暇になるんじゃない?」
「うーん、その時は適当にぶらぶらしてるから平気」
「そう? ごめんね、仕事が抜けられたら一緒に回るのに」
申し訳なさそうに言う彼女に、私は笑ってひらひらと手を振った。
「謝ることないよ、委員会の仕事なんだからしょうがないし、それが普通なんだよ。私みたいな暇人がいるのがおかしいんだって」
そして、文化祭当日。
案の定すぐ暇になった私は、朝の内に売店で買っておいたパンを持って屋上へ向かった。
きっと、今日も彼はあそこにいるのだろう。
階段を上って行くと、屋上へ続くドアの前に座り込んでいる彼の姿を見つけた。
「あ、おはよ」
彼はそんなことを言ってパンを齧った。食事を続ける彼の隣に同じように座る。
文化祭の仕事はないの、と聞くと、
「ない」
パンを齧りながら素っ気なく答えられた。
友達と回らないのか聞くと、彼はパンの最後の欠片を口に入れて咀嚼しながら、
「俺友達いないし」
と、何でもないことのように答えた。
本当に言っているのか冗談で言っているのかいまいちわからない。彼が教室にいるところを見たことがないせいもあって、真実味を帯びているように思えてしまう。
私はそれ以上聞かずに自分のパンを齧った。
「そっちこそ、友達と回らないのか」
友達は皆仕事があると答えると彼は、
「ふぅん」
と相槌をうって缶ジュースのプルトップを開けた。
「何それ?」
彼が飲んでいるジュースの缶には、バナナソーダと書かれてあった。そんな名前のジュースは見たことがない。
彼はぐびぐびとジュースを飲み、パッケージを見つめて唸った。
「うーん、いまいち」
「飲む前にまずそうだってわかりそうなのに」
「見えてる地雷にもあえて足を差し出すのが男ってもんだろ」
意味がわからない。
聞けば、彼は最近バナナ系の飲料を手当たり次第に飲んでみては気に入る物を探しているらしい。あきらかにまずそうなものでも、自分の舌で確かめてからまずいと認識したいのだそうだ。
「……今度はバナナコーラにしてみるか」
真剣な様子で呟いた彼を、私は敢えて止めなかった。
それにしてもどうしてバナナなんだろう。
私はそう思いながらも聞かずにさっさとパンを食べ終わり、ポケットに入れておいた薬を取り出して、ペットボトルの水で流しこんだ。
この薬も飲み始めて随分経つなぁ、としみじみ考える。
飲み始めの頃より錠剤の数は増えたけど、体調を崩すことも増えてきたように思う。体調を崩すと言っても風邪のような症状なんだけど、やっぱり頻繁に崩していると辛い。
「薬、ずっと飲んでるよな」
彼が唐突にそう呟いた。
「うん。食べ物のアレルギーだからね」
薬のことは突発性のアレルギーということにしていた。
「ふぅん」
彼はまた同じように相槌を打った。
その時、チャイムが鳴った。腕時計を見ると、もう文化祭が終わる時刻だった。
「文化祭……終わっちゃった」
「そうだな」
「あんまり遊ばなかったなぁ」
「来年遊べばいいだろ、3年の方が時間はあるだろうし」
来年、という言葉に顔が強張ったのを感じた。普通なら何気ない言葉のはずだったが、私にとっては違う。
私に来年はない。
余命1年の宣告を受けてから、もう半年以上が経っている。
私には、来年の文化祭を過ごす時間はない。
もしかしたら、言われた余命より長生きするかもしれないとも言われたけど、伸びて数カ月。
次の文化祭までは生きられない。
「どうかしたか?」
黙り込んだ私を見て、彼は尋ねてきた。私は慌てて取り繕った。
「な、なんでもない。そうだよね、来年……ね」
笑ってみたけど、うまく笑えている自信がなかった。居たたまれなくなって、私は立ち上がった。
「そろそろ教室戻るね。それじゃ」
彼の方を見ずに、それだけ言って階段を駆け下りた。
途中で来年という言葉が何度も頭の中で繰り返されては消えていく。
今まで意識しなかったわけではなかった。
でも、どこかで考えないようにしていたのかもしれない。
考え始めたら、頭がぐるぐるしてきた。
たまらずその場に座り込む。
目の前が霞んでくらくらしてきた。
だんだんと、意識が沈んでいくのを、どこか他人事のように感じていた。
このまま死んでしまうのだろうか。
そんな考えが浮かんだ。
完全に意識が途切れる直前、誰かに肩を叩かれたような気がしたけど、確認する前に私の意識は沈んでしまっていた。
気がついた時には、私はベッドの上にいた。
ぼんやりした頭で辺りを見回すと、見慣れない部屋だった。
真っ白な部屋だ。開いていたドアから看護師さんが通り過ぎていくのが見える。
あぁ、ここは病院なんだ。
ゆっくりと思いだす。確か文化祭が終わって、教室へ行こうとした時に目の前がぐるぐるして動けなくなって……。
「あ、ミノリ。起きた? 具合はどう?」
部屋に入って来た母がそう言いながらベッドの横のいすに座った。
「私、なんで病院にいるの?」
「学校で倒れたって電話があったのよ。もしかしたらって思って、病院に連れてきて先生に診てもらったの」
あの時、確かに私は意識を失った。
だけど、私は階段から動けなかったし、そのまま階段で意識を失ったはずだ。先生があの時間にあんなところを通りかかるはずがないし、誰が私を助けてくれたんだろう。
そんなことを考えていたら、担当の医師が部屋に入って来た。母が何も言わずに医師に頭を下げる。医師は柔らかく微笑んで私の顔を覗き込んだ。
「気分はどうですか?」
私は大丈夫ですと答えて、それを聞いた医師はそうですかと頷いた。
その後、病気のことについていろいろ話をされたけど、さっぱり頭に入ってこなかった。
ただわかったのは、病気が進行してしまっているのでこのまま入院してもらうと言うことだけだった。療養して少しでも長く生きられるようにとのことらしい。
どうせ死んでしまうのだからそんなものは無駄なのに。
そう思ったけど、さすがに母の前でそれを言う気にはなれなかった。
医師が部屋を出ていくと、母も父に連絡をしてくると言って部屋を出て行った。
一人になって改めて部屋を見回す。よくテレビドラマで見るような病院の一室だ。特別変わったところはない。
体を起して時計を見ると、夜の8時と画面に映されていた。文化祭が終わった時間は午後4時のはずだから、私は4時間意識を失っていたことになる。服も学校の制服のままだった。後で母に着替えを持ってきてもらおうと呑気に考えていると、丁度母が戻って来た。
「お父さん、明日来てくれるって。着替え持って来たから着替えなさい」
私は母が差し出したバッグを受け取って、中から着替えを取り出した。
「明日、担任の先生にお話ししようと思ったんだけど、ミノリはどうしたい?」
そう聞かれて少し考えた。
担任に話すということは、クラスのみんなにも話されるのだろうか。でも、話したこともないクラスメイトの余命を突然聞かされて困る人もいるだろう。
私は、クラスには言わないでほしいと答えた。母は何も言わずに頷いた。今にも泣き出しそうな顔をして。
余命宣告を受けてから珍しくなくなった母のその顔を、私は未だに見慣れることができない。
そもそも、そんな顔をさせているのは他でもない私自身だ。
もう私のことで泣いて欲しくない。
でも、私がどれだけ泣かないでと言っても、きっと母は泣いてしまうだろう。
私がどれだけ生きたいと願っても、もう生きられないように。
消灯時間が迫ったので、母は名残惜しそうに帰って行った。部屋に一人残された私は、することもないので大人しくベッドに横になっている。
体調は自分で感じる限り、まったく問題ないように思えた。
このまま明日には退院できるような気さえするほどだった。
本当に私はもうすぐ死ぬ体なのだろうか。
そんなバカなことを考え始めてしまったので、大人しく寝ることにした。
さっきまで気を失っていたのに、ベッドの上で目を閉じてしばらくすると、私はあっさり眠りについてしまった。