No.63 愛をくれし君
「もうたくさん! 私はお母さんの人形じゃないわ。出て行く」
怒号とともに響いた扉の音は、田舎の深夜だと外にまで大きく反響する。永遠の部屋の窓から見える隣家の窓に灯りがともった。
「永遠、待ちなさいッ。お母さんはあなたのためを」
「思ってるなら、いい加減私の将来に口出しするのはやめてよ!」
いつだってそうだった。高校受験も志望校を決めたのは母だ。行きたかった新設校に友達と目指していたというのに。
『女子高なら安心して通わせられる』
『お母さんの時代のとき、A高校と言えば女子高でトップの高校。鼻が高いわ。就職にも嫁入りにも有利な高校だから、ここへ行きなさい』
拒否したら入水自殺を図られた。永遠は泣く泣く志望高校を諦めた自分の弱さを今でも悔んでいる。だから大学受験のときは、断固として自分の志望校受験を貫いた。たとえ母があてつけがましくまた自殺を計ったとしても、それを曲げることなどしないと宣言した。
仲介した叔母がどうにか母を説き伏せてくれたお陰で、なんとか東京の大学を四年間まっとう出来そうではあった。
そんな矢先に今回のこれだ。いい加減、うんざりだ。それが永遠の抱く率直な感想だった。
「こんな田舎のどこに、これだけの初任給とやりがいのある仕事内容の会社があるっていうのよ」
今回の実家への強制帰還命令の理由に真っ向から反駁の声を上げた。いちいち呼び戻されるのは勘弁して欲しい。貴重なバイト代を交通費へ回すと、生活費がその分だけ苦しくなる。
「今が平成何年だと思ってるの? 私に昭和の価値観を押しつけないで! 専業主婦が女の幸せだと思うのは勝手だけど、それはお母さんひとりで満喫してればいいでしょう!」
言ってから、しまった、と慌てて口を手で押さえた。だが当然ながら後の祭りでしかなかった。
「……お母さんは……亡くなったお父さんのほかに夫と呼ぶ気は、ないの」
途端に声のトーンを低くした母のこれは、策略だ。永遠は自分にそう言い聞かせ、怯む自分を奮い立たせた。
「そう、それもそれで、お母さんの選んだ道だからいいんじゃない? 同じように、私も私の人生は自分で決める」
もう母の顔は見ていたくなかった。見れば負けるのが解っていた。永遠は母に背中を向けると、バッグに荷物を詰め込む作業に戻った。
「永遠、待ちなさい。天国でお父さんが泣いているわよ。こんな親不孝をするために生命保険を学費にしろと遺したわけじゃない、って」
「って、そこ? そこなの? またお金? 就職したら返していくって言ったはずよ。そういう意味でも、こんな田舎の安月給じゃ返せないって言ってるの!」
ろくな資格も免許もない母は、パート勤めと父の遺した遺族年金と貯蓄でやり過ごして来ている。この六年、その言葉ばかりで永遠を制して来た。自らをステップアップさせようともせず、愚痴と泣き言と他人頼みばかりなその姿は、永遠に「自立した女でありたい」と思わせるのに充分な反面教師だった。
「あなた、本当は仕事が理由で東京に留まるわけではないでしょう。知ってるのよ、お母さん」
冷ややかに畳を這った声が、永遠の手をぴたりと止めた。
「松木、洋祐くん、と言ったかしら。悠莉ちゃんのお母さんからお節介なお説教をされたのよ。お母さんに恥を掻かせてくれたわね」
ひやり、と背中に嫌な汗が伝った。心の中で小学時代からの親友をなじる。
(悠莉、おばさんにチクったのね。あれだけ内緒にしておいてって言ったのに)
永遠が腹の底でそうなじる間にも、母の愚痴めいた説明は続く。
「あなたの勤め先は、その松木くんとやらと同じそうね。恋愛なんて一時的な感情のために、総務職なんて誰にでも出来る仕事に決めてしまって。あなた、最初に大学の志望理由を“商社に勤めるには地方の大学じゃあ出世を見込めないから”と言っていたはずよね。言っていることとやっていることが矛盾しているんじゃないの?」
荷造りの手を、のろのろと動かす。母に返す言葉はない。
「悠莉ちゃんと旅行なんて、嘘だったのね。アリバイを頼んだだけらしいじゃない。あの日、悠莉ちゃんも彼氏と旅行だったそうね。そりゃ、あちらはあちらの教育方針があるから結構だけど、うちにはうちの教育方針があるわ。悠莉ちゃんのお母さんに、なぜ私が“永遠ちゃんの彼氏さん、優しくていい人らしいじゃない。交際を認めてあげたら”なんて言われなくちゃいけないの」
存在さえ知らなかったと声を荒げる母に、永遠は思わず振り返った。
「話せば難癖つけて反対するでしょう! ろくな質問をしないでしょう! ここぞとばかりに悪態をついて、今までだってそれで私の友達まで間引いて来たじゃないの! 悠莉ともつき合うなって言ったわよね、前。私は彼女がいなかったら、うちが普通じゃないって気づけなかった! お母さんはエゴイスト過ぎる。自分だけが正しいの? あなたが法律なの? 正義なの? 絶対に間違っていないの!?」
もう限界だ、と、心の中でゴングが鳴る。これ以上はもう反論出来ない。
「……と、わ……」
潤み始めた母の目を見れば、結局こうして怯んでしまう。その根底にあるのは、女手ひとつで再婚もせずに育てて来てくれたから、という負い目がそうさせるのだ。
「取り敢えず、郁ちゃんのところに行く。今はお母さんの顔を見ていたくない」
永遠はどうにかそれだけを言い残し、バッグのショルダーを肩に掛けた。数歩歩めば、母が永遠の足許でくずおれる。
「と、わ……お母、さんは、あなたの、ことが」
子どものようにしゃくりあげる、そんな母がうっとうしかった。
「……」
無言で、一瞥。見上げていた母は絶望の色を浮かべ、そして畳にひれ伏して嗚咽を上げ始めた。
「また郁ちゃんや山脇のみんなに迷惑を掛ける真似はしないでよ。自殺未遂をしたところで、私はお母さんに悪いことをしたなんて思わないから、命の無駄遣いよ」
永遠は捨て台詞とともに自室の扉をくぐり、今度はそっと扉を閉めた。
タクシー乗り場のある最寄り駅まで、およそ二キロ。それをとぼとぼ独り歩く。その間に済ませるべきことを済ませた。
「あ、山脇のおじさん? 永遠です。夜中にごめんなさい。またやからしました」
最初に連絡を取ったのは、母の住む家から灯りが見えるほどの近い距離にある近所の御一家だ。亡き父の幼馴染だった山脇のおじさんを始めとした山脇家とは、親戚以上の濃いつき合いをしている。
『やらかしたのは筒抜けだよ。まったく、向こうッ気の強いのはタカ譲りで困ったもんだな、トワちゃんも』
すでに永遠が荷物を持って家を出るところが山脇のおばさんに見とめられていたらしい。落ち着かせに行っているから、こっちは大丈夫だと告げられた。
『で、今度はなんだい』
「洋祐のことがバレたみたい。やっぱりおじさんやおばさんの言っていたとおり、話しておいたほうがよかったのかも」
と零すと、勝手に自嘲が続いた。実の母親よりも近所のおじさんとおばさんの方が信用出来るなんて。ばかばかし過ぎて嗤えてしまう。そんな永遠の憤りややるせなさを見透かしたようにおじさんが言った。
『ま、男の立場から言わせてもらえば、つき合い始めて間もないときにアレを繰り出されたら、退くかな。ただ、就職先と彼氏のことが同時に、ってのがちぃとばかりお母さんには刺激が過ぎたね。疑われてもしょうがない』
母は事務職と括弧で括ってなじったが、山脇のおじさんは「下積み」と理解してくれている。そんな実情が彼にそう言わせたのだろうと思われた。
「取り敢えず今夜は、母方の叔母の家に避難します。そのまま東京に帰ります。いつも迷惑掛けてごめんなさい」
『またとんぼ返りかい。寂しいこった』
とんぼ返りさせるのは、母だ。それは口に出さないまま電話を切った。
次に電話を掛けたのは、母の妹である郁のところだ。
郁は母と一回りも年の離れた妹で、母よりも永遠に性格が似ているさばけた気性の女丈夫だ。この人が母だったらと何度思ったことか。毎度の繰り言を思いながら、郁の携帯電話の番号をコールする。
『はーい、そろそろ来るかな、と思ってた』
そんな軽い応答に、思わずくすりと声が漏れる。すでに母からこれに関して愚痴を聞かされているのがすぐに判った。
「ごめんね、郁ちゃん。泊まってもいい?」
『いいけどさ、あたし今、出先なの。一緒に飲まない?』
就職内定祝いをしてくれるという。ここでは終電も終わっているような時間だが、街場に住んでいる郁の生活圏内ではまだ宵の口とも言える午後十一時だ。
「ありがと。タクシーで向かうつもりだから、今いるところの住所を教えてくれる?」
三十路の若き叔母は、下手をすれば古風に育てられた永遠よりも精神年齢が若い。こんな夜中に、と一瞬浮かんだ抵抗感は、若さがないと軽い自己嫌悪を感じさせたので強引にねじ伏せた。
待ち合わせた店は、随分と寂れた侘しい雰囲気のスナックだった。狭い店内はやたら左右に長い部屋で、「ママ」と呼ぶには年かさのいった派手な老女がカウンターを守っている。カウンターに並ぶスツールは赤いクッションでコーディネートされ、それの放つ昭和臭がプンプンと漂っている。いつもしゃれた店を紹介してくれる郁にしては、珍しいチョイスだ。
「いらっしゃい。お独り?」
無愛想に問い掛けるママに、永遠が「いいえ」と呟くよりも早く、無理やり作られたようにしか見えない小さなステージからマイク越しの返事が店いっぱいに響いた。
「あたしの連れよー。久しぶりー、愛しの我が姪っ子よ!」
テンション、バカたか。呆れた永遠の呟きが、ママの苦笑と重なった。郁はどうやら常連客らしい。永遠が郁の連れだと判ると、スナックのママは突き出しの小皿を手に、それで席を促した。
「噂の姪っこちゃんに会わせてもらえるとは思わなかったわ。こっちへどうぞ」
笑うとかなりの美人だ。きっと若い頃にはたくさんの男性を魅了したのだろう。そう思わせるのは風貌というよりも、かもし出される雰囲気からか。
永遠はそんな取り止めのない感想を思い描きながら、案内されたスツールに腰を落ち着けた。
「くっそ、絶対ママより高得点を出してやる。永遠、ちょっと待ってて」
郁はどうやらカラオケに熱中していたらしい。「これで六回目」とママが苦笑しながら、同じ曲を再生させた。
「なんて曲ですか」
思わずそう尋ねてしまったのは、永遠の好きなピアノでイントロが流れたからだ。ピアノ以外では出せない繊細なメロディは、永遠が初めて耳にする曲だった。
「松任谷由実の『春よ、来い』っていうの。私の、若いころから一番好きな歌」
歌詞が泣けるほどいいのよ、と言われ、テレビのモニタに視線を移した。
――淡き光立つ俄雨 いとし面影の沈丁花
溢るる涙の蕾から ひとつひとつ香り始める――
光景が鮮明に蘇るような歌詞だった。沈丁花というキーワードが、さらに永遠の興味を煽った。
母はガーデニングが好きだった。父が亡くなるまでは、庭でどんどん新しい花が増えていた。遠い日の出来事がふと思い出される。
『お母さんね、沈丁花が一番好きなの』
清楚で芳しくて、そして花言葉が何よりも好き。父がこの家を建てた年の結婚記念日に贈ってくれた潅木でもある、と言っていた。永遠が生まれて間もないころらしい。
「ママ、沈丁花の花言葉って、なんでしたっけ。御存知です?」
永遠はテレビから目を離し、ママに問い掛けた。
「栄光とか、不滅とか、永遠よ。自分の名前なのに、知らなかったの?」
そう問い返され、改めて苦々しい思いで疑問が湧いた。
「母から聞いたことがあるんですけど、思い出せなかったんです。そう言えば、噂の姪っ子って仰ってましたよね。叔母ったら、私のこと、ろくな言い方してないでしょう」
その問いを言い終えると同時にカラオケの曲がさびのメロディを奏で始めた。
――春よ、まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
愛をくれし君の眼差しが肩を抱く――
「このフレーズのところ、あなたのお母さんはね、六年前に泣きながら歌ってた」
「え……」
六年前。永遠の父が亡くなった年だ。ボロボロに崩れてしまって葬儀の喪主さえ務められず、死んだように眠っていて父を見送ることさえ出来ないでいた当時の母が脳裏をよぎった。そんな気力があったとは到底思えなかったので小首を傾げた。
ママはそれを問い掛けと解釈したのか、永遠が訊くよりも先に思い出話を語ってくれた。
「元々は、あなたのお父さんがこの店の常連さんだったのよ。初々しかったお母さんのこと、今でも強烈に覚えているわ」
だって、恋敵だったんですもの、と言われて思わず目を丸くした。
「うっそ、あの頑固親父が」
思わず口調まで乱れてしまう。
「若いころは、頼りない可愛いボクちゃんだったのよ。それを、あんな男らしくしたのが、あの儚げなあなたのお母さん」
姉のようにママを慕っていた父は、誰よりも先に彼女へ母を紹介したらしい。何も知らない母は、気恥ずかしそうに深々とお辞儀をし、ママにとどめを刺したらしい。
『主人が姉のように信頼されている方と伺っております。至らない妻ですが、主人ともどもどうぞよろしくお願いいたします』
「あなたのお父さんは、強くなりたかったのよねえ。昭和の時代じゃあ、軟弱者は結婚の対象外だったしね。負けたわ、と思ったのよね。私はあなたのお父さんを育ててるつもりで甘やかしていただけだったんだなあ、って」
噂の意味合いがやっと判った気がした。永遠自身が噂の主というよりも、両親と彼女の微妙な関係が母の妹である郁とも個のつき合いを通して永遠の話題にまで及んでいたに過ぎない。
「世間知らずな母で、いろいろと……その、すみません」
「あら、謝ることじゃないでしょう。それに、郁ちゃんがあなたと私を引き合わせてくれたのは、そんなことのためじゃない、と思っているの」
といったところで邪魔するかのように郁がカウンター席に戻って来た。
「きゅーけー。喉がらがらだわ。ママ、スクリュードライバーちょうだい」
「はいはい」
どう、と歌声を問われても、苦笑いするしかない。
「歌じゃなくて」
と郁はテーブルの下からこっそりとママのほうを指差した。
(あーいうシッカリしたお母さんのがよかった?)
小声の郁は、その音量と反比例の最大級な爆弾発言を永遠に強要する。確かにひと目で人を惹き込む魅力的な人だ。悪びれることなく客を品定めする堂々ぶりも、されれば不愉快なものの自分自身にあればと憧れることがあったのも否定はしない。けれど。
(どうだろうね?)
永遠は、どう答えたところで現実は変わらずあの母が母親なのだから、と答えを濁した。
女三人で思い出話に花を咲かせる。厳密に言えば、年若い永遠は聞き役に甘んじている状況でしかないわけだが。
「そうそう。あのとき、私もようやく香さんのもらい泣きという形で泣くことが出来たわ」
ママは母のことを名前で呼んでいたのか、と、今更ながら母の名を思い出す。叔母の郁とは「よい香り」繋がりの名前。そして先ほどママが触れた、「名前の由来」という言葉。沈丁花の花言葉からあやかったらしいという辺りが、如何にも母らしい、と小さな苦笑が漏れた。
「ママは母が恋敵だと言っていたのに、どうしてあんな母にそんな優しい気持ちになれるんですか」
叔母と姪、店主と客、という間柄よりも、なぜか雰囲気が恋を知る女同士の集いになっていた。それが気安く永遠に問いを紡がせた。
「純粋過ぎて、憎しみや恨みなんかで穢しちゃいけない気にさせられない? あなたのお母さんって」
まるで目線の違う意見に、永遠は虚を突かれたような表情を浮かべた。
「純す、え、あの、世間知らずをどういい解釈すればそうなるのか、と」
「まあ、確かに世間知らずで思い込んだら一直線ではあるわね」
「って、郁ちゃん、そこは妹としてフォローするところじゃないのかしら」
「あのバカ姉貴はね、未だに自分の亭主がどんだけ競争率が高かったかわかってないのよ。お陰でこっちも泣くに泣けなかったっていうね」
「え……あれ、郁ちゃんの独身主義って、ひょっとして」
「そーよー。もう、あんた愛してる! だって崇さんの忘れ形見だもん!」
そして、ハグ。完全に酔っている。それは永遠も同じらしい。あまりショックを受けていない自分を俯瞰で見て、ふとそんな自己分析をした。
「でも、お父さんって、娘や妻の存在を忘れて、咄嗟に道端の子犬を庇って車にダイレクトアタックかまして死んじゃうような間抜けよ?」
その正義感が永遠にとっても憧れのひとつではあったが、この場ではそんな父をこき落とすしかあるまいと思った。
「まーた思ってもないことを言うー! このクチか! この可愛げのない強がりっぷりが崇さんと激似ー! あー、むかつくッ!」
頬を思い切りつねられる。泥酔に近いので力加減に容赦がない。
「ひ、ひたひ、ひくひゃん、ひはい」
痛みにかこつけて目を潤ませる。妙な罪悪感が涙腺を刺激する。
「郁ちゃん、もういい加減にしておきなさいよ。一度に全部話し過ぎ」
トニックウォーターの瓶で容赦なくゴィンと郁の頭を小突く仕草を見る限り、こういう場面は二度三度のことではないらしい。
やがて郁の寝息がBGMになり始めたころ、ママが永遠に苦笑を浮かべて言った。
「トワちゃんが気に病むことじゃないのよ。全部、遠い、昔話」
崇くんとは別の意味で、香ちゃんのことが好きだった。ママの零す囁きに近い独り言に、嘘は混じっていなさそうに聞こえた。
「崇くんの好きなおつまみの作り方を教えて欲しいって私を頼ってくれたり。喧嘩してしまった、どうしよう、って、郁ちゃんではなく私に相談をしてくれたり。……身寄りがない私としてはね、妹みたいに思えてね。あの必死さ、一生懸命さが、本当に愛しかった」
そんな母が、父の死のショックで就いてしまった床からようやく身を持ち上げたとき、最初にここを訪れたそうだ。
「崇くんの大学時代から彼の内面を育てて来たのが私、なんですって。崇くんの友達からそう聞いている、って。自分のことも育てて欲しい、って。トワちゃんを一人前に、自分みたいな頼りない人間にしないため、強くなりたいんだ、って、訪ねて来たのよ、彼女」
そして歌っていったのが、『春よ、来い』だったのだという。涙をここへ捨て置き、ママも一緒に涙をすべて落とし、そして最後にふたり、笑ったという。
「ずっとこの歌の“君”を崇くんと見立てて歌を聴いていた、って。でも、今日からこの“君”は永遠だ、って。聴くのではなく歌う側に回って、いつか永遠に聴いて欲しい、って」
彼女はそう締めくくると、カラオケに選曲ボタンを送信した。
流れて来るのは、ここへ来てから何度も繰り返されたピアノのメロディ。それまでなんとなしに聴いていたメロディが、やけに永遠の心に突き刺さった。
「あ、わ、き、光立つにーわかあめー」
驚くほどに通る声、プロと見まごうような太く張りのある声に、永遠は思わずママの顔を凝視した。
――君に預けし我が心は 今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても ずっとずっと待っています――
歌詞の“君”を自分に置き換え、歌い手を母に置き換える。気づけば視界は頼りなくたゆたい、ママの顔がぼやけていった。
――それは それは 明日を越えて
いつか いつか きっと届く――
思い返せば、あんなにも反対していた大学の合格を、号泣して永遠を抱きしめ、誰よりも寿いでくれたのは、母だった。
『頑張ったね! 永遠、本当に、本当に……お父さんの子だわ、きっと受かると信じてたわ』
こちらが気恥ずかしくなるような台詞に、「ばかじゃないの、大袈裟ね」と一笑したのは、母の心を何ひとつ解っていない永遠だけだった。
――春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く――
勝手に東京の就職を決めたとき、永遠はまた母が自殺未遂をするのではないかと内心かなり動揺した。それほどの動揺を見せた母を危惧し、郁と山脇のおじさんへすぐ連絡を取った。
夜中にタクシーを飛ばして実家へ帰ったとき、ふたりに知らされた母の状況を思い出す。
『台所で正座をしたまま、目の前に置いた包丁とにらめっこをしていた』
『ずっとうわごとのように、お父さんとあんたの名前を繰り返し呼んでいたわよ』
夢にうなされていた母は、ずっと同じ言葉を繰り返していた。
『崇さん、まだ、私……傍にいっちゃ、ダメですよね……?』
それを聞いた山脇のおじさんは、男だてらに目頭を押さえた。
『よくも悪くも、トワちゃんはお母さんの中でちっさい子どものまんまなんだな』
なんの迷いもなく「お母ちゃん」と駆け寄る姿を見るたびに、お母さんらしくない頼もしい強い眼差しをしていると感じた、と零した山脇のおじさんが母の中に見たものを、初めて自分の心が理解した気がした。
――春よ 遠き春よ 私はここにいます
君を思いながら ひとり歩いています――
父亡き後、母が背負ったものは、彼女にどれだけの重さを感じさせたのだろう。
己の弱さを熟知し、痛感している彼女の気負いは、当時どれほどのものだったのだろう。
「お……かあ、さん……ッ」
気づけば曲は終わり、永遠の嗚咽だけが狭い店内に響いていた。
「崇くんに、ひとつだけお説教をしたことがあるのよ」
マイク越しではない優しい声が、歌声のように降り注ぐ。
「女は男より長生きなのよ。亭主関白も結構だけど、香ちゃんに自分で考えて決める自由もあげないと香ちゃんが苦しむことになるのよ、って」
だから永遠ちゃんもお母さんの、まででママの言葉はとまった。その先は言われなくても解っているのよね、と、静寂がママの心を伝えてくれた。
タクシーの運転手に手伝ってもらい、全身の力が抜けている郁をマンションの自室まで運び入れる。彼女をベッドに寝かせると、何度も詫びの頭を下げつつ、運転手に一万円札を手渡した。もちろん、お釣りはすべてチップとして受け取ってもらった。財布の主、郁には手ごろな軽いお仕置きになるだろう。
洗面台で顔を洗い、勝手知ったる郁の部屋を自由に闊歩する。バスタオルに髪を乾かすスポーツタオル、基礎化粧品と着替えはバッグから取り出し、酔い覚ましのシャワーを軽く浴びる。
リビングのソファを寝かせて簡易ベッドを作り、郁の寝室から掛け布団を拝借。いつもどおりのことを済ませると、永遠は携帯電話を手に取った。
「あ、やっぱり怒ってる」
並ぶメールと不在着信の送り主は、恋人の名前で埋め尽くされている。妙なくすぐったさと申し訳なさで口の端がうっすらとゆがんだ。
『起きてる? 電話してもいい?』
それだけを送って、三十秒。ほどなく彼を示す指定着信音が永遠の携帯電話から流れた。
「ごめんね、こんな夜な」
『バカッ! 勝手に独りで帰りやがって!』
キーンと鼓膜をつんざく怒声。くそ、嬉しい、と思い浮かんだ言葉がまた悔しい。
「だって、今まで話して来たとおり、うちの母って逆上すると何するかわかんないんだもの」
『っていうか、ソッチ、大丈夫だったのか。俺、すぐ出れる状態で待ってんだけど、ちっともお前が掴まらないしさ』
きゅん、と胸が心地よい痛みで軋む。それだけで今は充分だ。自分も彼も、まだ若い。特に彼は社会人二年生。これから先も、まだまだ出会いの機会はたくさんある。今自分に決めさせてしまうのは自分のエゴでしかない、という思いはやはり変わらない。
「ヨウ。好き」
言ってから初めて気づく。いつの間にかそういう関係になっていたものの、永遠から彼にそんな言葉を伝えたのは今が初めてだった。電話の向こうの無言が、彼の動揺を如実に伝えて来る。
「だから、縛りたくないの。大学のとき、サークルの先輩たちも言っていたでしょう。何も今から私だけに縛られる必要なんかない、って。私もそう思う。これは私の問題だから、ヨウは」
『黙れこのバカ女』
予想はしていたリアクションだが、その声の低さにおののいた。滅多に聞くことのない、本気で怒っているときの声だ。
『俺がそんなに阿呆に見えるか。ダチらのアレは万が一バレたときのフォローに決まってんだろが。結果お前を選んでる俺のこのブロークンハートをどうしてくれやがる』
思わず、噴いた。人が真剣に話しているのに、ブロークンハートと来たもんだ。これが笑わずにいられるか。そして真顔で真剣に笑いを取る気もなくそういう台詞を吐いてしまう彼が……愛おしい。
「浮気する度胸、あったんだ」
『や、企んでみたけど、やっぱアカンわ。お前がちらついて萎える萎える……って、今はそんな話じゃねえっつの』
行きたい。彼の紡いだその語尾に震える。義務ではなく、己の意思だと伝えてくれることが何よりも永遠を泣かせた。
『あのさ、今更訊いたらあとでブン殴られるのかも知れないけど』
――お前、俺と結婚する気があってつき合ってると思ってていいんだよな?
「バカッ! とっとと迎えに来い!」
言い放って一方的に電話を切る。ヤツのことだ、実家の住所は知っている。自分で調べて辿り着くに違いない。あの行動力と瞬発力の高さが、ゼミのサークルでリーダーをしていた所以なのだから。
そのあとの怒濤のメールは、永遠をなかなか寝させなかった。
『このヤロウ、もっとマシな形でプロポーズさせやがれ』
『なあなあ、お母さんのお土産って、何なら喜ぶ?』
『墓参りにチャラい服だとヤバいよな。一応スーツ持っていくつもりだけど、ヤバかったら服買いに行くからつき合え』
『俺、給料明細も持ってった方がお母さん安心する?』
『テメエ! 返信送れよ!』
「ヤバ……笑える……ッ」
このメールを全部、母に見せてやろうと今決めた。父とはかなりタイプが違うけれど、きっと母なら許してくれる。
そう思えるのが不思議だった。数時間前までは、反対される前提で動いてばかりいた自分なのに。
『お母さん、さっきはごめんなさい。明日、彼とそちらに戻ります。彼は――』
母にメールをしたためる。孤軍奮闘と思い込んでいる母に、独りぼっちではないとしたためる。
『――彼は、そんな感じの人です。私の目は曇っていないと信じたい。だからお母さんの目でも見定めてくれると嬉しい。蛇足ながら、本人には内緒で、彼からのメールを添付します。あとで一緒に笑ってやりましょうね。トワ』
ほどなく、母から
『洋祐くんの好きなメニューは何かお知らせ下さい。長旅で疲れているでしょうから、お布団とお昼ご飯を用意して待っています。母』
という返信が届いた。