雪原恋歌
「君を愛するつもりはない。ここは辺境の地だ、悪いが王都のような華やかな暮らしは期待しないでくれ」
それが、初夜の寝室で顔を合わせた夫、アレクセイ・フォン・ヴォルグ辺境伯が私に投げかけた最初の言葉だった。初夜の寝室だというのに、彼は私に視線を合わせようともしなかった。ただ暖炉の火だけを見つめ、淡々と事実だけを口にする。「鉄血の辺境伯」と恐れられる彼らしい、事務的な響き。
「お前を娶るのは、政略以外に意図はない」
私はその言葉に傷つくどころか、密かに安堵の息を吐いていた。
「承知いたしました、旦那様。私も、多くを望むつもりはございません」
私の名前はリリアナ。王都の侯爵家に生まれたものの、魔力を持たない「役立たず」として長年虐げられてきた。
しかし、私には一つだけ秘密があった。魔力がない代わりに、他者の傷や病を自らの命を削って引き受ける「代行の力」を持っていたのだ。家族はその力をいいことに、私を都合の良い道具として扱い続けた。度重なる酷使の結果、私の体はすでに限界を迎えており、余命はあと半年ほどしかなかった。
厄介払いのように辺境へと嫁がされた私にとって、アレクセイの無関心はむしろ救いだった。情を交わさなければ、私が死んだ時にも彼を悲しませずに済むからだ。
しかし、アレクセイの「冷酷さ」は、私の予想とは少し違っていた。
冬の風が吹きすさぶ辺境の城は確かに寒かったが、私が宛がわれた部屋の暖炉には常に絶やさず薪がくべられ、最高級のふかふかの毛布が用意されていた。食事の席では一切会話がなかったが、痩せ細った私の前には、王都でも見たことがないような温かく栄養価の高いスープが毎日必ず置かれた。
ある夜、慣れない寒さで私が微熱を出して寝込んでしまった時のことだ。
朦朧とする意識の中で、額にひんやりとした大きな手が触れるのを感じた。目を開けると、寝着姿のアレクセイが不器用な手つきで氷水に浸した布を絞っていた。
「……旦那、様?」
「喋るな。熱が上がる」
彼はぶっきらぼうに言い放つと、乱暴だがどこか恐る恐る、私の額に冷たい布を乗せた。
「使用人を、呼べば……」
「皆、昼間の仕事で疲れている。私なら数日眠らなくても死にはしない」
そう言って、彼はそのままベッドの傍らの椅子に腰を下ろし、分厚い本を開いた。窓の外で吹雪が荒れ狂う中、本をめくる微かな音と、彼から伝わる微かな体温だけが、私の冷え切った心をゆっくりと溶かしていく。
(この人は、不器用なだけなんだ)
ただ、優しさの伝え方を知らないだけなのだ。その不器用で温かい素顔を知るたびに、私の胸の奥がチクリと痛んだ。あと数ヶ月で消えてしまう命なのに、この手を、この時間を、もっと惜しいと思ってしまう自分がいた。
★
春が近づく気配すらまだ遠い、酷寒の夜だった。
領地の境界線を越えて、飢えた魔獣の群れが大規模な襲撃を仕掛けてきた。辺境の民を守るため、アレクセイは先陣を切って吹雪の中へと飛び出していった。
彼が城に帰還したのは、丸二日が経過した夜明け前。魔獣は退けたものの、彼は胸を深く切り裂かれ、意識不明の重体だった。城の治癒士たちが青ざめた顔で首を振る。傷口には強力な呪毒が入り込んでおり、もはや夜明けを待つことすら難しいという。
「……皆様、どうか部屋から出てください」
血の気を失い、静かに横たわるアレクセイのそばで、私は震える声で命じた。
誰もいなくなった部屋で、私は彼の手を両手で包み込んだ。その手は、あの夜私の熱を測ってくれた時とは違い、恐ろしいほどに冷たかった。
「……アレクセイ様」
初めて、彼の名前を口にした。
どうせあと少しで終わる命だ。それを彼の命を繋ぐために使えるのなら、私の命にも意味があったのだろう。
私は自身の命の限界点を超える「代行の力」を発動させた。私の体から淡い光が溢れ、アレクセイの胸の傷へと吸い込まれていく。同時に、私の中に彼の痛みが、呪いが、どろどろとした黒い泥のように流れ込んできた。
「ごほっ……ぐうぅ……」
内臓を灼かれるような激痛に、声にならない悲鳴が漏れる。それでも私は彼の手を離さなかった。徐々に彼の傷が塞がり、失われていた血の気が戻ってくる。その代償として、私の指先はまるで雪のように白く透き通り始めていた。命の絶対量が足りず、私の体そのものが世界から消滅しようとしているのだ。
光が収まった時、アレクセイの呼吸は穏やかで力強いものに変わっていた。
私は力なく微笑み、彼の大きな手に自分の頬をすり寄せた。
「あなたに出会えて、本当に良かった。……どうか、あなたを心から愛してくれる人と、春を迎えてください」
震える手で一葉の手紙をしたため、枕元に残す。
そして私は、もうすぐ形を保てなくなる体を抱え、誰にも気づかれないよう吹雪の森の奥深くへと足を踏み入れた。彼が目覚めた時、私が消えていく惨めな姿を見せたくはなかったから。
★
アレクセイが目覚めたのは、昼過ぎのことだった。
枕元の手紙を読んだ彼は、まだ完治していない体を引きずり、制止する使用人たちを振り切って猛吹雪の森へと飛び出した。
『君を愛するつもりはない』
最初についた嘘を、彼は心底呪っていた。痩せ細り、それでも静かに運命を受け入れているような彼女の瞳を見た時から、彼の心は彼女に奪われていたのだ。
だが彼は、理解していた。彼女の命の灯火が、すでに風前の灯であることを。
だからこそ彼は、あえて距離を置いて接していたのだ。
「彼女が最後の日まで静かに、負担なく幸福でいられるように」――そんなものは、ただの美しい言い訳だった。
本当は、彼自身が恐ろしかっただけだ。不器用な自分が彼女に深く踏み込み、愛してしまい、そして数ヶ月後に訪れる絶対的な喪失感に耐えられなくなることが。
傷つくことから逃げるために、彼は彼女を孤独の中に置き去りにしていた。
「リリアナは、どこだ……」
完治しきらぬ身体を引きずり、血の味がするほど喉を鳴らして、彼は雪をかき分け、彼女を探した。
意識はなかったが、夢の中で、アレクセイは確かにリリアナの存在を感じていた。
彼女の生命力が、自身に流れてくるイメージ。
徐々に暖かくなる自身の身体とは対照的に、やせ細り、みるみると朽ちていく彼女の身体。
その意味するところは、考えずとも答えは出ていた。
四方に兵を出し、ついに森の最深部にある凍りついた泉のほとりで彼女を見つけた。
しかし、その姿はすでに半分以上が透き通り、今にも風に溶けて消えてしまいそうだった。
「り、リリアナか……」
「あ……れく、せい……様? なぜ……」
彼女は驚いたように薄く目を開けた。アレクセイは膝から崩れ落ち、消えかかっている彼女の体を力強く抱きしめた。
「なぜ? なぜだ、お前こそ、こんなところで何をしている」
「……私はもう、長くは生きられませんから、せめて厄介にならぬよう……」
「何を馬鹿なことを……」
アレクセイの声が、吹雪の中で悲痛に震えた。
彼女は最後まで、自分の命を「厄介」だと思っていた。自分がそんな風に彼女を扱ってきたからだ。自らの命を削ってまで、こんな不器用で臆病な男を救ってくれたというのに。
「すまなかった……。俺は、お前を愛してしまうのが怖かったんだ。お前を失う痛みに耐えられないからと、お前の孤独から目を背けていた」
「アレクセイ、様……?」
「お前が俺を生かしてくれたように、今度は俺がお前を生かす。命を分け与えることができるのなら、その逆もできるはずだ」
アレクセイはリリアナの手を握り、訴える。しかしリリアナは首をふる。
そんなことはできません、と。
「いや、できるはずだ。心優しいお前のことだ。他人から命を貰おうなんて、考えもしなかったはずだ。だが、頼む。お前がいない世界で生き長らえることの方が、よほど地獄なんだ」
リリアナの手を握りしめ、胸に押し当てる姿は、さながら奇跡を願い祈りを捧げているかのようだった。
ふと、温かいものがリリアナの身体へと流れ込む。
穏やかな光りが、腕を伝ってリリアナの身体を包んでいった。
「お前を突き放すほど、私の中でお前の存在が大きくなっていった。共に時を刻めないことが、狂おしいほどに苦しかった。例え心を通わせたとしても、いずれお前を失う時を思うと、正気を保てなくなりそうだった」
初めて感情を露わにして熱情をぶつける彼に、リリアナの瞳から大粒の涙が溢れ出した。ずっと感情を押し殺してきた彼女の瞳から、一筋の涙が溢れた。
「頼む。お前と同じ景色を見て、お前と同じ時を過ごし、お前と同じ最後を迎えたい。それが私の、ささやかな願いだ」
彼女は震える腕でアレクセイの背中にしがみつき、一度だけ頷いた。
「私なんかで、よろしいのですか?」
「そんな風に、自分を卑下しないでくれ」
アレクセイは静かに首を振り、彼女の透き通るような頬を両手で優しく包み込んだ。
彼の声はひどく穏やかで、しかし決して揺らぐことのない静かな熱を帯びていた。不器用で、これまで言葉を尽くすことのなかった彼が、不退転の決意をもって紡ぐ真実の愛。
その真っ直ぐな眼差しに見つめられ、リリアナは小さく息を呑んだ。
ずっと自分は誰の役にも立たない、いつ消えてもいい命だと思っていた。けれど目の前にいるこの人は、自分の存在を世界の何よりも大切だと、そう言ってくれている。
「……アレクセイ様」
「私と共に生きてくれ、リリアナ。……愛している」
それは吹雪の静寂に溶けるような、祈りにも似た告白だった。
リリアナの瞳から再び涙が零れ落ちる。それはもう悲しみや諦めの涙ではなく、氷解した心から溢れ出す、温かな喜びの雫だった。
「はい……私も、あなたと生きたいです」
彼女はアレクセイの胸にそっと顔をすり寄せ、その広い背中に回した腕にゆっくりと力を込める。彼もまた、壊れ物を扱うかのように、けれどもう二度と離さないという意思を込めて、彼女を深く抱きしめ返した。
二人の額が静かに寄り添い、互いの体温と命の鼓動が、ゆっくりと一つの拍動となって混ざり合っていく。
二人が想いを重ね合わせた瞬間、空を覆っていた分厚い雲が割れ、黄金色の陽光が差し込んだ。長く厳しかった猛吹雪が嘘のように止み、足元の雪が溶け出して小さな花が芽吹く。
辺境の地に、本当の春が訪れた。二人の命の灯火は、今、互いを照らし合う一つの力強い光となって輝き始めた。




