正妻と愛人のマリアージュ ~可愛い子どもたちを添えて~
「エルダに子どもができた」
申し訳なさそうな顔でそう言う夫に、私は安堵していた。
『万一エルダ様が身ごもられたら、私に教えてくださいね』という約束を、夫は守ってくれたからだ。
上位貴族であれば、愛人の一人や二人はいて当然とされている我が国。
癒しや快楽を得るだけの関係であればよいが、愛人が子を授かってしまった場合には、問題が生じる前に『処理』する必要がある。
それを任されるのは大抵正妻──つまり私の役目だ。
医師の診察によると、夫の愛人エルダ様は現在妊娠三カ月。つわりは軽く、お腹の子も順調に育っているらしい。
私は夫の許可を得て、さっそくエルダ様に会いに行くことにした。
初めて会う夫の愛人は、噂に聞いていた通り、大変美しい人だった。
さすが伝説の娼婦と呼ばれていただけあって、地味なドレスでも、その美貌は輝いている。
「遠路はるばるお越しくださり、ありがとうございます。どうぞこちらにお掛けください、奥様」
いきなり訪ねてきた正妻を、丁寧にもてなしてくれる彼女に、私は好感を抱く。
「あなたこそ、身重なんですから座ってください。喉も渇いておりませんから」
そう促すと、彼女はお茶を淹れようとしていた手を止め、緊張した面持ちで向かいに座ってくれた。
こんな町外れの寂しい家に、侯爵家当主の愛人を一人で置いておくなど、夫は何を考えているのだろう。せめて護衛くらい付けなくてはと考えながら、私は口を開く。
「体調はいかがですか? つわりは酷くないと伺っておりますが」
「……はい。食欲は多少落ちてはいますが、今のところ好みは変わりませんし、吐くこともございません」
「そう、それはよかったわ。私の時は、出産の直前までつわりがあったものですから」
私の言葉に、エルダ様の表情が暗くなる。
薔薇色の唇を震わせながら、消え入りそうな声を漏らした。
「奥様、このたびは誠に申し訳ございませんでした。気を付けてはいたのですが、このようなことになってしまいまして」
「なぜあなたが謝るのですか? 子どもは一人で授かるものではないでしょう?」
「ですが……。娼婦上がりの卑しい身でありながら、尊い侯爵様の御子を授かるなど、許されることではございません」
「情を交わした男女に身分など関係ありませんよ。もちろんお腹の子にも罪はございません」
エルダ様はごくりと唾を飲み、紫水晶のように澄んだ瞳で、私の顔を見据えた。
「奥様、どうか私にお腹の子を産ませていただけませんでしょうか? お金は要りません。侯爵様とは二度と会いません。奥様やお嬢様に決してご迷惑が掛からぬよう、一生隠れて暮らします。ですからどうか……どうかお願いいたします。私はどうしても母親になりたいのです」
切実な訴えに、同じ母親として胸が苦しくなる。
だが、正妻として、伝えるべきことはきちんと伝えなければならない。
私は立ち上がると、頭を下げたまま動かないエルダ様の元へ近付き、その背にそっと手を置いた。
「エルダ様。申し訳ありませんが、そのお願いは聞き入れられません。あなたのお腹の子は、侯爵家の血を引く大切な子ですから」
豊かな銀髪を揺らしながら、エルダ様は頭を上げる。怯えているのか、その顔は真っ青になっていた。
「奥様、まさかこの子を……」
「心配しないで。母親から幼い子を取り上げたりなどしませんよ。ただ、侯爵家の子に相応しい環境と教育を与えたいだけです」
するとエルダ様は、さらに怯えた顔で叫んだ。
「そのようなこと、大旦那様がお許しになるわけがございません!」
大旦那様──夫の父は、当主が愛人を持つことを嫌悪されている方だ。
なぜなら、大旦那様の父君は多くの愛人を囲われていた方で、そのせいで母君が苦しまれるお姿を、幼少期から見てこられたからだ。そのためご自身も、亡くなられた奥様ただ一人を大切にされたそうだ。
ところが、一人息子である夫は、娼館でエルダ様に一目惚れし愛人にした。大金をはたいて『所有』してしまった以上、責任を持たざるを得なかったが、子どもだけは決して作るなというのが大旦那様の条件だった。
万一授かってしまったら、正妻である私と、私の子どものために堕胎しろと──
とは言え確実な避妊方法などないし、一年の半分も愛人宅に通っていれば、いずれはこうなることなど予測できていた。
だから私は、万一エルダ様が身ごもられた時には、エルダ様とお腹の子を守るために、真っ先に私に相談してほしいと夫にお願いしていたのだ。
なぜ私が、優しい大旦那様を裏切ってまで、愛人とそのお腹の子を守ろうとしているのか。それには理由があった。
「エルダ様、もちろんあなたが身ごもられたことは、大旦那様には当面秘密にいたします。安全のため、あなたには私の親族の別荘で暮らしていただくのがいいでしょう。医師とベテランの乳母を手配し、出産から育児まで手厚くサポートいたしますので、何も心配は要りませんよ」
「……お心遣いに感謝いたします。ですが、母親として、この子を侯爵家の庶子にはしたくないのです。大旦那様の仰るとおり、この子は本来生まれてはいけない子ですから。高貴な方々に庶子と蔑まれつらい人生を送るくらいなら、平民として生きていった方が、子どもにとって幸せだと思うのです」
エルダ様がそう思うのも無理はない。
彼女自身、とある子爵家の当主と、下女との間に生まれた庶子だからだ。正妻とその子どもたちに散々蔑まれ虐められた挙げ句、当主の借金返済のために娼館に売られた、悲しい身の上だった。
私はエルダ様の冷たい手を取り、両手で包み込んだ。
「心配は要りません。もし私の保護の元で出産していただけるなら、お腹の子が幸せな人生を送れるよう、私が全力で守り抜きます。男児でも女児でも、庶子などと蔑まれないよう必ず」
「なぜ愛人ごときにそこまでしてくださるのですか? ……奥様のお気持ちを疑うわけではございません。ですが、もしお腹の子が男児であれば、将来奥様やお嬢様を脅かす存在になるかもしれませんのに」
「エルダ様が育てられる子であれば、たとえ侯爵家を継がれても、私と娘を大切にしてくださるでしょう。それに、私は一人っ子でしたから。ずっと兄弟に憧れていたのですよ。ご存知かと思いますが、私はもう二度と子を望めない身体ですので。娘も弟か妹ができると知ったら喜ぶでしょう」
エルダ様の瞳から涙が溢れる。
ハンカチで拭ってあげていたが、涙は収まるどころかどんどん酷くなり、細い肩がガタガタと震え出した。
いけないわ。妊婦がこんなに興奮しては──
一旦ベッドに寝かせるため背を支えようとするも、エルダ様は椅子から飛び降りて、固い床にペタリと座る。
何をしているのかと問う間もなく、エルダ様は私に向かいひれ伏し、雪のように白い額を床に付けた。
「申し訳ありません! 申し訳ありません奥様……! 実は…………」
◇◇◇
初めて会う奥様は、侯爵様から伺っていたとおり、穏やかで優しそうな方だった。
幼い頃から庶子として蔑まれ、娼婦となってからも散々人の悪意を見てきたからわかる。この方は、間違いなく善良な方だと。
たとえ内心では、愛人の私に複雑な感情を抱いているとしても、それを表に出すことはないだろう。だが、侯爵家の正妻として、個人の裁量では片付けられないこともある。
子どもを作るなという大旦那様の命に背いた私に対し、どんな処分が下されるのかと怯えていた。
ところが奥様は、私が思うよりもずっと崇高だった。
私の不幸な身の上に寄り添ってくださった上で、お腹の子を守ると仰ってくださったのだ。
奥様はお嬢様を出産された際に生死を彷徨い、もう二度と子が望めないお身体になったというのに。
もし子どもが男児だったらという不安も、思わぬ言葉で包み込んでくださった。
奥様に比べて、自分はなんと愚かで醜いのだろう。奥様の善意を利用し、真実を隠したまま、お腹の子とともに逃げようとしていたのだから。
私の悪意が涙となって溢れる。
優しいハンカチに拭われ、感情を抑えきれなくなった私は、気付けば床にひれ伏していた。
「申し訳ありません! 申し訳ありません奥様……! 実は…………」
真実を語った後も、奥様はお腹の子を産んでほしいと仰ってくださった。
女神のように崇高な笑みの中で、僅かに歪んだ薄桃色の唇。それを見て、私は安堵してしまっていた。
奥様も私と同じ、悪意を抱くことのある人間なのだと。
「──別荘へ移る日については、またご連絡いたします。エルダ様の体調を最優先に決めましょうね。あ、そうそう。妊婦さんの身体にいい食べ物を持ってきたの。保存も効くし、もしお口にあえば、召し上がってくださいね」
そう言って、高級食材やら柔らかなクッションやらを並べる奥様に、私は気になっていたことを尋ねた。
「奥様、なぜ私などに『様』を付けたり、敬語を使ったりなさるのですか? 庶子で、元娼婦で、愛人なんかの卑しい私に」
すると奥様は、少し考えた後でこう答えた。
「夫が大切にしている方は、私にとっても大切な方ですから。……それだけです」
あの時の奥様の笑みは、悪意を含んでいるでも崇高でもなく、ただ真夏の空のように晴れやかだった。
◇◇◇
予定通り、私の親戚の別荘に移ったエルダ様は、無事に健やかな男児を出産した。
その一年後、息子の愛人が出産したことなど何も知らないまま、大旦那様は持病が悪化しお亡くなりになった。
またその翌年には、夫も流行り病でこの世を去ったため、私はエルダ様の子が成人するまでの、中継ぎの女当主となった。
あれから十数年が経った今、侯爵邸には四人の家族が暮らしていた。正妻の私と私の娘、そして愛人エルダ様とその息子だ。
子どもを引き取るだけならまだしも、正妻と愛人が一緒に暮らすなどあり得ない。ましてや当主も亡くなったのに──
と、好奇の目に晒されてきたが、私は気にしなかった。
娘は五歳下の弟をとても可愛がっているし、私とエルダ様も姉妹のように仲が良く、幸せな日々を送っているからだ。
そのうち、私のことを正妻の鑑だと称える声も聞こえてきたが、私はそのたびに苦笑していた。
初めてエルダ様に会ったあの日。
もし彼女が夫の寵愛を盾に、私に対し横柄な態度を取っていたら。
私は侯爵夫人として、迷わず大旦那様に報告し、淡々と堕胎の手筈を整えただろう。
私が一人っ子で兄弟に憧れていたのも、娘に兄弟を与えたかったのも事実。
けれど、子どもの母親が誰でもよかったわけではない。
『夫の愛人が産む子』ではなく、『エルダ様が産む子』だから受け入れられたのだ。
愛? 嫉妬? 怒り?
正妻が抱くらしいそんな感情など、私にはとうにない。
私にとって夫は、侯爵家の当主で、娘の父親で、一年の半分だけ帰ってくる気まぐれな同居人だったから。
エルダ様に真実を聞かされた時も、自分でも驚くほどすんなり受け入れてしまった。
けれど、同時に気が付いた。
燃えかすのように黒く、掴みどころのない悪意が、胸の中に蓄積していたことに。
『──お腹の子どもは、侯爵様の子ではありません。どうしても子どもがほしくて、侯爵様とよく似た男性に、子種をもらい授かったのです。ですから、たとえこの子が男児であっても、侯爵家を継ぐ資格はありません』
『そうだったの……。でも、なぜ今さら本当のことを? せっかく侯爵様を騙せたのに』
『……仰るように、うまく騙し通すつもりでした。本当は、もしお腹の子が男児ならば、次期侯爵になれるかもしれないと期待していたのです。自分が庶子としてつらい思いをしてきた分、子どもには誰にも蔑まれない地位と、何不自由ない暮らしを与えたくて。ですが、奥様とお会いして目が覚めました。愛人の私にこんなに親切にしてくださる奥様を騙すことも、騙したまま逃げることもできません』
『そう。では、私が堕胎してとお願いしたら子を堕ろしてくださるのですか? ……できないでしょう? 侯爵様を騙してまで手に入れた、大切な我が子ですもの』
『……はい。できません。この子は、私の唯一の家族ですから。産ませていただけるなら何も要らない、一生隠れて暮らすと申したのは本心です』
『ならいいじゃない。それだけの覚悟があるなら、侯爵様の子として堂々と産んでくださいな』
『奥様……! この子は、お嬢様とも血が繋がっていないのですよ? お嬢様を本当のお姉様にはしてさしあげられないのですよ?』
『……血の繋がりって、そんなに重要なのかしら。あなたは庶子というだけで、半分血の繋がったご兄弟から虐げられて育ったのでしょう? 侯爵様だって、血の繋がった大旦那様には似ず、外に愛人を求めたではありませんか。正妻の私に育児と領地経営を押し付けて』
『それは……』
『先ほども申しましたが、エルダ様が育てられる子なら、立派な侯爵家の当主となり、私と娘を大切にしてくださるでしょう。男児であれば後継者としての教育を、女児であれば淑女教育をさせていただきますので、何も心配は要りませんよ』
『大旦那様も侯爵様も欺くということですか?』
『ええ、女同士の秘密。一緒に罪を犯しましょう。それに……本当のことを言うとね、私はその子が男児であってほしいと願っているのです。もし後継者になってくれたら──』
◇◇◇
奥様の願い通り、私が産んだ子は男児だった。
侯爵様と同じ金髪碧眼、私によく似た面差しの、完璧な罪の子だ。
侯爵様が亡くなってからも、奥様は約束通り、私たち親子を守ってくださった。
侯爵邸で一緒に暮らしましょうと言われた時は驚いたが、悩んだ末、その方が息子のためになると思い同居を決断した。
奥様が息子を大切に迎えてくださったため、侯爵家のご親戚も使用人も、誰一人として息子をぞんざいに扱うことはなかった。
息子もそんな奥様のことを、『母上』と呼び慕っている。侯爵家の後継者として、奥様にいろいろなことを教わりながら、日々楽しそうに勉強に励んでいた。
お嬢様も、息子を実の弟として可愛がってくださっている。仲睦まじく、どこから見ても本当の姉弟に見える二人だが、血の繋がりは一切ない。そう思うたび罪悪感に駆られたが、真実を告げた時の、奥様のあのお言葉を思い浮かべては、これでよかったのだと言い聞かせていた。
『それに……本当のことを言うとね、私はその子が男児であってほしいと願っているのです。もし後継者になってくれたら、私の宝物は侯爵家のために婿を取らなくても済むでしょう。 ……私、娘には自由を贈りたいのです。自分の人生を、自分の意思で選択できる自由を。女というだけで、男のアクセサリーみたいに生きる人生なんてごめんですもの。私自身も、父の命令で泣く泣く政略結婚いたしましたから』
先日、成人を迎えられたお嬢様は、外国へ留学するために颯爽と馬車に乗り込まれた。
奥様は涙ぐみながらも、通訳になる夢を叶えようとする娘の姿を、晴れやかなお顔で見送られた。
私の息子が、お嬢様と奥様を解放してさしあげた──
そう信じれば、重い心もふわりと軽くなった。
初めて奥様にお会いしたあの日。
もし彼女が正妻の地位を盾に、私を蔑み侮辱したなら。
私は侯爵様の寵愛にすがり、奥様とお嬢様の居場所を淡々と奪っただろう。
それこそ、何の罪悪感もなく淡々と。
まさかお会いしてすぐ奥様に心酔し、真実を打ち明けてしまうなんてねと、思い返すたび苦笑していた。
「エルダ様。今日はお天気がいいから、テラスでお茶をいただきましょうか」
「はい、奥様。では私は、テーブルを飾るお花を摘んでまいります。」
「私も行くわ。パイが焼けるまでにはまだ時間があるし。一緒にお散歩しましょう」
私たちは寄り添い、暖かな春の庭を歩く。
正妻と愛人、そして共犯者。
奇妙な関係なのに、親友……いえ、姉妹のように心地よい。
鮮やかな花壇の中から、「これ」と同時に指差したのは、瑞々しいフリージアだった。
ふふっと笑い合いながら、好きな色を自由に摘んでは一つの束にしていく。
「母上! お母様!」
元気な声に顔を上げれば、私の宝物が庭の向こうに立ち、太陽みたいな笑顔で手を振っていた。
ありがとうございました。




