小説について
世間一般において読書というものを高尚で困難な趣味と考えている人は多い。
それは幼少期から大人からそういう刷り込みされていることが大きな要因であると考えられる。
例えば、家の中でゲームやおままごとをしている子供よりも、読書をしている子供の方が良い子供だと大人からほめられることが多い。
たとえ文字の少ない図鑑や絵本でも「やれ、天才だ」「将来は学者様だ」と周囲からもてはやされ、
周囲のその様子から、読書している子供もそうでない子供も、読書というものがとても難易度の高い作業で、高尚な物なのだという印象を刷り込まれる。
大人になり、社会で様々な経験を積んだあとでさえ、その刷り込みは続いており、
この本がこれこれこういう風に面白かったですよというだけで、あたかも、宗教勧誘してくる厄介な宗教家に対峙したかのような態度を見せる人もいる。
けれど、何とかして、読書という趣味がもたらす心の喜びを納得させようと、読書家の皆々様がそういう相手(知り合いや家族)に対して。
「なぜあなたは、読書が苦手なのですか?こちらの本はいかがでしょうか?」と聞くと、
「自分には難しくてよくわからない」とか、「長時間文章を読むのが疲れる」といった返答が返ってくる。
通常であれば会話はそこで打ち切りになるのだが、筋金入りの活字宣教師の方々は食い下がらずに
「なるほど、ではこちらのこの本は初心者に読みやすくていいですよ。ああ活字が苦手なのでしたら、こちらの絵本は読みやすくていいですよ、挿絵の表現も豊かでみているだけで心がワクワクしてきます。そのドラマがお好きなのでしたらこちらの原作小説はいかがでしょうか?」
と熱のこもった視線を向ける。
それが熱心な勉強家や、不屈の精神を持った戦士ならいざ知らず、
ほとんどの場合は、この時点で適当な言葉で別の話題でお茶を濁したり、突然用事を思い出したりして
その場からの退散、逃走を試みる。
こういった経験をした方々はさらに読書に対する苦手意識というものを持ち、そのような経験を話しまわるものだからさらに活字離れが進んでいくのだろうと思う。
世間の活字離れというものは幼少期の刷り込みと、そういった種の芽吹きによるものなのだろう。
読書というものは実際は、それほど高尚、困難なものではない。
他者を傷つけることはない無害な趣味であり、またその楽しみも千差万別、その深さも神韻縹渺なものである。
しかし、活字離れにおける悪循環において、筋金入りの活字中毒の我々にできることはほとんどない。
此岸においては声を発さず。家中において日々粛々と文章の海を紐解き、空想や現実に浸る事のみである。
私は同法がこれからも尽きることない耽溺の渦に沈んでいられるよう心から祈る。