センニンソウ
降りが激しく、視界を妨げるほどになったので酒場に入った。誰もが同じことを考えたようで普段は寂れ果てている店は、旅人やら行商人やらで賑わっている。
この村から先は山しかない。その向こうは隣国と接しているが、あまりにも急峻で、また獣や魔物の巣窟となっているため、人はほとんど近づかない。そのような麓にあるからこそ、国境争いに巻き込まれることなく、細々と暮らすことのできる村である。
山のせいで雨の多い地域だ。はるばる中央から旅してきた者は、何日か過ごすうちにたいてい憂鬱を患う。
薄暗い酒場の隅に、珍しい客を見つける。少年と少女だ。十代はじめといったところか。
容姿が珍しいわけではない。二人とも、みすぼらしいマントを羽織っている。一人前のチーズとパンを分けあい、ちびちびと食べている。
だが、そばに大人が見当たらない。この年頃で、保護者を伴わずに旅などできるものではない。自分もこの村に来るときには、少ない財産をはたいて案内人を雇ったものだ。
「お天気の先生、今日はこの雨は止むものかな」
少年たちの隣に座る木こりに声をかけられ、私は彼らの前の席にそのままついた。
「私はお天気の先生じゃないですよ。でも、そうですね。止みはしないまでも、だんだんと収まってくるんじゃないでしょうか」
「だんだんとは、いつ」
突然、少女が会話に入ってきた。細いランプの灯りごしに灰色の瞳が光る。長髪を編みこみにし、胸までゆるく垂らしている。三日月を思わせる冷ややかな金色である。
「夕方くらいには、小雨になるんじゃないでしょうか」
私の答えに少女は小さく頷く。それから、隣の少年に言った。
「少し仮眠をとったら行くよ」
俯いてパンを食べていた少年が、ふっと顔を上げた。彼の髪と目は榛色だ。左の方の目は、長い前髪に覆い隠されている。
間近で見て初めて気づくことだが、この二人は驚くほど似ていた。顔かたちも毛色もまるで違うのに、対で作られた人形のようである。
「お嬢さん、日が暮れるというのに村から出てどこへ行くというんだい。このあたりには魔物が出るよ」
「魔物なんて、嘘だ」
「嘘じゃない。私は会ったことがある。一度きりだが」
どれ、暇つぶしにひとつ昔話をしよう、と木こりは言った。この話を聞いてもまだ村から出たいと言うなら止めはしないよ。
ここは、昔話やお伽話に事欠かない地域だ。村人は炉端を囲み、順番に語っていく。そうやって長雨をやり過ごしてきたのだ。
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私には同い年の親友がいた。私は斧を振る名人で、友は矢を射る名人だった。私たちが二人で山に入れば、人より多くの木を切り倒したし、人より多くの鳥を狩った。
魔物が出るという噂は昔からあったが、私は出会ったことがなかった。しかし、友人は違った。
「俺はその魔物を知っている」
「出くわしたことがあるのか」
「子どものころから知っている」
そんな馬鹿な、と私は言った。魔物と出会って生きながらえた者などいない。
「山の近くの森に薪や木の実を拾いにいくたびに、誰かがじっと俺を見ていた。視線を感じてそちらを見ても、葉が生い茂っているだけだった。それが何年も続いた。
だが、ある日、珍しく天気が良くて、森の奥の方まで陽が届いていたあの日、俺はやっと見つけることができた。
女だったよ。葉が茂っていると思ったのは、蔓草が彼女の身体に巻きついていたからだ。胸や腰に、センニンソウの花が咲いていた。
それでわかった。視線を感じるとき、決まって甘い匂いがしていたんだ」
「それはドリュアスだ」
「そうだ」
「ドリュアスに目をつけられた者は、必ず死ぬ」
「あの魔物は俺が殺す」
ドリュアスは昔話にもよく出てくる、このあたりでは馴染みの魔物だ。何年かに一度、身体中が水疱で覆われた死体が山近くで見つかる。センニンソウの毒で殺されるのだ。死体はなぜか、甘い残り香がついていることが多い。
センニンソウは薬師が煎じればリウマチ薬になるが、毒性の植物だということは、このあたりの誰もが知っていることだ。好き好んで触れるわけがない。
だから、たびたび見つかるこの奇妙な死体はドリュアスの仕業だと、ずっと昔から語り継がれていた。
「俺が弓の練習をこんなに熱心にしてきた理由を知っているか? あの魔物を殺すためだ。毒に当てられないように仕留めるには、弓しかない。機は熟した。俺は、このあたり一帯では右に出る者のいない弓の名手になった」
私と友人は、連日山に入るようになった。
雨で匂いが流されてしまう日でも、ドリュアスが近づいてくると友人にはすぐにわかった。しかし、私が振り向いてそちらを見ても、雨に烟る緑の森が続くだけだった。
そのうち、幻のようにぼんやりと木々の影が女の形を取るようになったが、それが目の錯覚なのか魔物なのか、私には判別できなかった。
「今日もやらないのか」
「今日は雨が強すぎる。これでは正確に急所に当てられない」
ドリュアスを狩るのに丁度良い天気は、なかなかやって来なかった。子どものころ友人が彼女を見た日のような晴れやかな空というのは、この地域には何年かに一度しかない。
友人は今日は風がある、今日は暗すぎると言い、いつまでもドリュアスを射ることをしなかった。
そのくせ毎日わたしを伴い、山へと分け入り、女の視線をただ全身に浴びて、手ぶらで村へ帰るのだった。
ある日、子どもの死体が見つかった。村長の一人娘が行方不明になり、村をあげての捜索が行われ、あげく森の奥で水疱だらけの姿で発見されたのだ。
村長は怒り狂って村人たちに命令した。このまま山狩りを行う。ドリュアスの死体を持ち帰るまでは、帰ってくるなと。
私たちは困惑した。魔物になど勝てるわけがない。
「俺が一人で行く」
友人は言った。
「俺ほどあの女を狩るのにふさわしい者はいないはずだ。皆は村へ帰ってくれ」
娘はまだ十にも満たない年齢だったが、友人の許嫁でもあった。友人の弓の腕を認めた村長が、娘の婿と決めたのだ。数年後には二人は結婚し、友人はゆくゆくは村長の座を引き継ぐ約束だった。
娘の敵討ちにこれほどの適役はいないと誰もが思った。彼の腕なら魔物に勝てるかもしれないとも。
友人はひとり夜の山へ入った。
そして、二度と帰らなかった。
次の年の夏のある日、私は陽気に誘われて森に入った。うっかりと行ったこともないほど奥の方まで足を踏み入れてしまった。
センニンソウの蔓が大木に絡みつき、白い花をたわわに咲かせているその根元に、友人はいた。
白骨には蔓がきつく絡みつき、衣服もぼろぼろで、もはや誰なのか判別できない。
だが、そのとなりに弓が投げ捨てられていた。立派な彫刻がされた村一番の、友人の自慢の弓だ。
虫の羽音がして、死体から顔をあげた。鼻が上を向いたとたんに甘い匂いを捉えた。
晴れやかな日だった。水煙の幻影などでなはい、本物の女が立っていた。裸体にセンニンソウを巻きつけた、髪の長い女だ。
それはただの人間だった。魔物などではなかった。
いやしかし、人間であるなら、あんな風に蔦を素肌に巻きつけていては、水疱だらけになるのではないか?
女の肌は土で汚れていたが、滑らかなのは触れなくてもわかった。
女は胸に赤子を抱いて、裸の乳を吸わせていた。その赤ん坊は、友人と同じ榛色の髪を生やしていた。
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「それが十二年前、この村で起こった最後の魔物騒動だ」
と、木こりは言った。外の雨音は、だいぶ弱まっている。
「友は綺麗な榛色の髪と目をしていた。ちょうど君のようにね」
少年は片目だけで木こりを見返した。
「その後、赤ん坊がどうなったのか私は知らない。ドリュアスの女も一度も見ない。……もしよかったら、前髪に隠れているもう片方の目を私に見せてくれないか? ドリュアスの女は、綺麗な翡翠の目を持っていた……」
「ご冗談を」
少女は言って、少年の腕を掴んで立たせた。
「楽しい昔話をありがとう。おかげでちょうど雨が小降りになってきた」
少年は少女に引っ張られるがまま、酒場を出ていった。
「彼は、とうとう一言も喋りませんでしたね」
二人の足音が遠ざかるのを待って、私は徐に口を開いた。
「魔物と呼ばれている者の半分は、なんらかの理由で村を放逐された人間だという。たとえば、不具者。たとえば、悪霊つきの気狂い」
木こりはエールの瓶を傾けながら言った。
「女に会ったとき、私は驚いて悲鳴をあげてしまった。そうしたら、女がそれに応えたのだ。正確には、獣のような唸り声だったが。そうして、森の奥に消えてしまった。
先生、身体の不具は引き継がれると聞いたことがあるが、本当かい?」
さあ? と私は答えた。
私は天気の先生でもなければ、医者でもない。
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私は植物学者だ。この地方にしか生息しない、仙人の花を探しにここまでやってきた。十数年前まではそこかしこに生えていたそうだが、今では山のだいぶ奥まで分け入らなければ、見ることができないという。
私はゆうべ木こりから、件の大木が山のどのあたりにあったのか詳しく聞いた。
あの少年少女は、山へ向かったに違いない。今はもう昼近いが、大木まで行けば、まだそこにいるかもしれない。
魔物や獣には会わないという確信があった。彼らには、なにか魔を払う力があるはずだ。そうでなくては、あんな子どもに旅は続けられないだろう。露払いされた道を辿れば、私も安全に違いない。
今日は、数年に一度の晴天だ。
大木はあった。木肌が見えないほどにセンニンソウで埋めつくされ、白い花柱のようだ。
果たして、二人の子どもはそこにいた。俯いて見つめる先に、蔓にがんじがらめになった大きな弓が転がっている。
私の足が小枝を踏むと、二人は同時に振り向いた。鏡写しの双子のような白い顔。
突風で少年の前髪が翻った。
彼のもう片方の目は、くり抜かれていた。洞穴のような不気味な闇が一瞬光に晒され、すぐに隠れた。
風が花の匂いを運んだ。