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【>>短編置き場<<】

瑞々しいデバイス

作者: 滝岡尚素

 早朝、階下のリビングに降りるとそこにはもう間宮(まみや)が居て、奥のダイニングに立ってインスタントコーヒーを淹れていた。室温は低く、相変わらず暖房はつけていないようだった。陽子(ようこ)は中に入ると音をさせてリビングのドアを閉じ、男の注意を引くとお早うございますと声を掛けた。間宮の顔は感情に乏しく、陽子を見たからと言って何の変化もない。ただちょっと頷いて、

「お早う。コーヒー飲むかい」

 陽子はじゃあ私にもお願いしますと告げて、ソファの上にあったリモコンで暖房のスイッチを入れる。彼の、羽織っている灰色のパーカーから覗く、瘦せこけた手がのびて食器棚からもう一つのマグカップを取り、シンクに並べるとインスタントコーヒーの瓶から粉末をスプーンですくって入れた。陽子は、リビングの小窓から射し込む冬の微弱な光で照らされた彼の背中を見ながらテーブルにつく。こおお、と空気を吸う音が反対側の壁のエアコンから聞こえ、暖かな空気が流れ出す。今朝はかなり寒い、部屋の中なのに吐き出す息が微かに白いことに驚く。間宮がこの空間で平然としていることが信じられない。陽子はテーブルの隅に置いてあったバスケットから個包装の小さなマドレーヌを二つ摘まみ上げた。そのタイミングでマグカップを二つ持った間宮が対面に腰を下ろす。漂ってくる、少し粉っぽいインスタントコーヒーの香りが陽子は嫌いではない。豆から挽いたコーヒーが至上なのは間違いなかったが、こちらにだって捨てがたい良さがあるのだ。差し出されカップを受け取って代わりにマドレーヌを一つ渡す。彼は何も言わずに、包装フィルムを破ると中身を取り出して一口齧り、コーヒーで流し込んだ。陽子もマドレーヌを手に取る。これって間宮の退院祝いに誰かにもらったものだよな、と思い出す。小ぶりで食べ易く、決してまずくはないものの大量で、おまけに二人とも少食なのでぐずぐずといつまでもカゴに残り続けていた。訪れる者のないこの家では減るペースは早くはなかった。

「夕べは眠れたんですか」

「うん。朝までぐっすりだよ」

 その声は、エアコンが生み出す気流の音に負けそうなほど弱々しかった。

 昨夜、トイレに立った時、陽子は廊下を挟んだ間宮の部屋から漏れる光を見た。苦しそうな呻き声と大きな寝返りの音、眠れているわけがなかった。

「良かったですね」

 陽子はマドレーヌを食べ切ってコーヒーを飲む。

「ああ。このところ、体調はずっといいよ」

 間宮は手に持ったお菓子をまた小さく齧り、コーヒーの水面に向かって言葉を放った。まだ四十代だと言うのに目は落ちくぼみ頬はこけ、髪はびっしりと白い。マグカップを包み込む手にも皺が目立っていた。

 無理しないで下さいね、と口にしようとして言えず。何を無理しなくて良いのか、そんなのは陽子にも分かっていない。はっきりしているのはこうしている間にも時間は消費されているということだ。もし、人ならざる目を持っていれば、間宮や陽子の周囲で時間が凄まじい勢いで蒸発している様が見えたことだろう。仮に間宮がその目を持っていたなら、あまりに早く時間が消えていくことに気が狂ってしまうかも知れない。

「そう言えば売れたんですか」

 陽子は皺のない手でマグカップを口元に運ぶ。間宮は思い出したようにテーブルに置いてあったスマホを手に取って操作し、眉を少し動かして、全く感動のない声でああ、売れてるね、と言った。フリマアプリの画面を陽子に示す。ロレックスの写真の隅に『SOLD』の赤い三角形のマークがついていた。売却価格は百五十万を超えているが滅多に市場に出回らない希少なモデルで、買ったユーザーは今ごろ詐欺ではないか、偽物ではないかと疑っていることだろう。

「なら、梱包作業はやっておきますね」

 陽子が言うと間宮は頼む、と頷きを返して立ち上がり、音もなくリビングを出た。階段を上っていく気配がした。先ほどまで間宮がいた場所に目を遣ると、そこには飲みかけのコーヒーとほとんど残されたマドレーヌ、彼がコンロにかけたままの薬缶。その全てから漂う不吉な雰囲気から目を逸らすことが出来ない。深く息を吸って強引に振り払い、腰を上げて片づけを始めた。


 間宮は有名な写真家だ。去年の冬にとつぜん引退を表明し、自宅に籠もって表舞台にはいっさい姿を現さなくなった。世間はその理由を知りたがり、週刊誌などは憶測であること無いことを書き立てたが、そのどれもが的外れだった。やれ手が震えてシャッターも碌に切れなくなったとか、目が駄目になっているとか、女に入れあげて本業が疎かになっているとか、陽子に言わせれば全部、呆れるほどの出鱈目だ。

 小さな段ボール箱を準備し、ケースに入った腕時計を入れ、緩衝材としてその上からプチプチを被せて詰める。軽く前後に動かして内容物がぴったり動かなくなったのを確認して蓋を閉じ、ガムテープで封印した。フリマアプリは匿名での配送ができるので陽子が送り先を伝票に記載して貼り付けたりする必要はない。それを持って部屋を出る。廊下を挟んで向かい側が彼の部屋だ。

「間宮さん、梱包できましたよ」

 ドア越しに声を掛けた。返事がないまま物音が続いてから、暫くしてドアが開いた。既に出掛ける服装だった。

「行こうか」

 そのまま廊下を歩いて階段を下り、陽子はリビングでロングコートを羽織ると間宮と一緒に家を出た。来たばかりの頃は道に迷ったものだが、半年も暮らせばすっかり地元だ。ここで暮らすようになって夏と秋、冬を経験した。春はまだ知らない。陽子はコンビニまでの道を間宮の後をついて、小さな段ボール箱を抱えて歩いた。箱は数百グラムなのに、陽子にとっては信じられぬほどの重さを放っていた。

 コンビニで発送作業を済ませる。間宮がスマホから発送連絡を買い手に送信する間、陽子は店内を見回ってミネラルウォーター二本とカロリーメイトをひと箱買った。コンビニを出たところで、散歩に行きませんか、と陽子が誘った。昼を過ぎて気温が上がり暖かい。川沿いをそぞろ歩いて家まで戻れば気晴らしにもなるだろう。うん、行こうか、と間宮が告げる。二人は隣り合って国道沿いの道を歩いていく。平日の街中、昼をかなり過ぎているのでサラリーマンや学生の姿を見かけず、ひっそりとしている。歩道を踏む音が耳を打ち、間宮を見上げると、遠くを真っ直ぐに見てあまり上体を揺らさずに歩みを重ねていく。飲みますか、と陽子はミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。間宮は礼と共にそれを受け取ってキャップを開け、軽く一口飲んだ。歩きながらだったからか軽く咳き込む。初めはさざ波程度だった咳の音が徐々に大きくなって、間宮は手早くキャップを閉めたペットボトルを陽子に返すとうずくまって本格的に咳を繰り返した。女はコートのポケットにペットボトル、カロリーメイトをねじ込んでしゃがみ、彼の背中をゆっくりとさすった。

「済まない、気管に入ったみたいだ」

 それにしては間宮は苦悶の表情で咳を続けて身動きが取れない。治まるのに数分かかり、肩で息をしながらふらふらと腰を上げた。陽子の顔も見ずに前を向いて歩き出す。散歩は続ける、と言う意思表示だ。陽子は重たいポケットを揺らして後に続く。

 冬の川べりの道にはちらほらと散歩する人と一心にジョギングするトレーニングウェア姿のランナーがいた。左手に川、陽光に映えて乾いた波音を立てている。時おり光が跳ねて陽子は軽く目を細めた。遊歩道を半分歩いたところに川に向いたベンチがあり、二人で腰を下ろした。対岸、遠くには枯れ木がずらりと並んでいて、春になったら、と想像する。春になったら桜が一斉に花開いて、それはそれは見事な景色だろう。間宮の求めに応じてペットボトルを渡す。今度は上手く飲んだ。心なしか男の顔はほっとしたように綻んでいた。陽子も水を飲む。買った時はきんきんに冷えていたのが温くなっていて飲み易かった。間宮には気付かれぬように、軽く腰を浮かせると平行に移動して身体を寄せる。陽子のロングコートの肩が間宮の、ダウンジャケットの二の腕に触れた。さりげなく間宮が間隔を空ける。それがそのまま二人の距離だと思い知らされて、挫けそうになる。

「食べますか」

 陽子はカロリーメイトのパッケージを開けて、一本差し出す。間宮は受け取って半分食べた。もぐもぐと動く、彼の顎を見ていると思いのほかしっかりしていて安心できた。

 間宮のスマホが鳴った。取り出して通知を確認するその眼が僅かに苦悶したように見えた。川面の揺らぎがそこに映っただけだったかも知れなかった。そのままスマホをポケットに戻した。

「また売れたんですか」

 訊く前から陽子には分かっていた。そう、彼がフリマアプリに出品していたものが、また売れたのだ。果たして間宮はカロリーメイトを飲み込んだ後、丁寧にミネラルウォーターで喉を湿らせてから口を開いた。

「うん、今度も腕時計」

 そうですか、と陽子は膝の上にきちんと揃えて置かれた、自分の手を見てうなだれた。

「売れて、良かったですね」

 間宮は何の反応も寄越さなかった。ただ揺れる川面を見ながら水を飲み、淡々と冬の陽を浴びていた。

 本当にいいんですか、何もかも売ってしまって、と陽子は訊いてしまいそうになる。少し前から陽子は、彼の身体や魂は、彼が所有している腕時計やカメラや、その他あらゆるものが楔となってこの世に繋ぎ止めていたのだと感じるようになっていた。それを自らで外し、解き放たれて身を軽くし、あなたは私を遺してどこへ行くつもりなんですか。言葉には出せず、ただ陽子は両手をぎゅっと握りしめ、やがて笑った。

「もう行きましょうか。冷えてきたかも」

 ポケットにペットボトルとカロリーメイトの空き箱を入れて立ち上がる。間宮は飲みかけのペットボトルを手に持ったまま、反対側の手に食べかけのカロリーメイトを持って、陽子を見上げた。意を決して残りを口に入れて噛み砕いてベンチから離れた。食欲があまりないことを悟らせまいとするようだった。

「本当に今日は、朝からいい天気ですね」

 間宮が言葉につられて見上げた。ああ、まったくだ、いつから晴れていたんだろうね、本気とも冗談ともつかない口ぶりだった。


 散歩から帰ると疲れたと言ってすぐ間宮は自室に引っ込んだ。先ほど売れたと言う腕時計の発送はどうするのだろう、気にはなったが自分にはどうしようもないのでひとまずリビングに行って温かいコーヒーとマドレーヌで一息つく。自分のスマホでフリマアプリを開き、間宮のアカウントで何が売れたのかを確かめた。彼が一時期、熱心に集めていた腕時計の一つだった。胃の奥にじわりと苛立ちが広がる。付き合い始めた頃に二人で選んだものだったからだ。光景が陽子の記憶から呼び覚まされる。あの時、もう一つの候補とどちらを買うかを散々迷ったものだ。陽子と間宮で意見が食い違い、些細なことだったからこそ店員の目も構わず酷い言い争いになった。いま思ってみればあの喧嘩さえ愛しい。どうやって仲直りしたのかは全く覚えていないのに、やり取りは鮮明によみがえる。私、あなたがそんなに心の狭い人だとは思わなかったです。何だと、君の方こそ、俺の言うことに全部否定から入るじゃないか。馬鹿言わないで下さい、あなたこそ私を見下して、何でも分かったような顔をして。ああ、あの喧嘩の最中に戻りたい。

 部屋にいる間宮からLINEが飛んでくる。『腕時計、梱包しておいて』、思わずスマホを投げつけそうになるのをこらえて分かりましたと返信する。あの作業が陽子は嫌いだった。梱包のために段ボールに入れ、緩衝材を詰めることで思い出が消えていく、一つずつ、陽子にしかわからない大事な重さが人手に渡っていくのだ。その作業を私にさせるなんて、何て残酷な人なの。

 陽子は熱いままのコーヒーを一気に飲み干した。


 それからも売れ、最後の商品の発送を終えたのはクリスマス前だった。陽子は寂しいような、肩の荷が下りたような、説明のし辛い感情を抱えた。ここの所、間宮の顔色は優れない。食事もあまり喉を通らないようだった。それがこの先に待ち構えている、良くない結果に繋がっているのはどちらにも何となく分かっていて、そこに触れないように日々を出来るだけ丁寧に生きて、世間はクリスマスイブになっていた。

 夜、遅ればせながら自室でプレゼントは何にしようかとスマホをいじっていた陽子の指が止まる。通知だ、間宮が新しく何かを売りに出したことを知らせていた。女は驚く、全て売り払ったはずだ、これ以上何を。彼のアカウント画面を表示させ、商品を確認した陽子の瞳が少し震えた。寝転んだベッドから素早く身体を起こし、考えるより先に部屋を出た。間宮は階下に居るようだった。乱暴に下りてリビングに行くと彼はテレビも付けずにソファに座り、ローテーブルに置かれた湯気の立つマグカップを前に、静かに眼を閉じていた。気配に目を開け、陽子を見た。

「どうしたんだ、血相を変えて」

 答える代わりに画面を示す。ああ、それかと男は悪びれることもなく、いつものように静かな声で応じた。女が声を荒らげる。

「どうして、このカメラまで売ってしまうんですか」

 ライカと言うメーカーの、とても高いものだと聞いたことがあった。このカメラに間宮が付けた値段は五百万。どちらかといえば不用品の処分が中心のフリマアプリでの出品なのだから、この値段で買う人間はいないだろう。とは言え、売りに出したということは誰かが買う可能性があるということだ。陽子はそんなことをする間宮が信じられず、腹立ちが治まらなかった。

「俺のものだ、どうしようが勝手だろ」

 それはそうだ。あのカメラは二人が出会う前から間宮の手元にあった。陽子はスマホを下ろすと悲しそうな顔で彼を見た。でも、これは私を撮ってくれたカメラじゃないですか。あんなにたくさん、私を、私を。

「当たり前だ。それが仕事だった」

 そうじゃないです、そういうことじゃないんですよと陽子は抗弁を続ける。あのカメラの思い出は一人占めできないはずですよ。間宮は知らぬ振りでコーヒーを一口飲んで激しく咳き込んだ。慌てて駆け寄り、彼の背中をさする。苦し気な咳の音が断続的に続く。見下ろした陽子の視界には間宮の掌があり、僅かに滲んだ血が映った。俺はね、と間宮は咳の合間から切れ切れに声を発し、陽子を振り仰いだ。

「願を掛けたんだよ。あのライカが売れれば、俺も生きられると」

「何ですかそれ、意味が分からない」

 分からなくてもいい、俺はそうしなくちゃならなかったんだ。背中に置かれた女の手から逃れ、間宮はリビングを出た。静かにドアが閉まる。

 ずっと逆だと思っていた。大事にしてきたものを全て切り離し、現世の理から解き放たれ身軽になって、それは遠いところへ行くための準備に違いないと思っていた。事実は逆だった、間宮は誰よりも強烈に生にしがみついていたのだ。

 陽子はスマホに表示されたままの画像を見た。希少なカメラだ。商品を見つけたユーザーからのいいねの数がどんどんと増え、値下げの交渉が何件も入る。それを受けてアクションを起こすかと暫く眺めていたが間宮は値下げ交渉に応じる気はないようで、どころかこの商品ページを確認しているのかどうかも怪しかった。彼が信じているのは、この無茶な値段でも、もし売れれば自分は救われる、その一点のみのようだった。陽子は、間宮が己の生命の価値を、こんなもので推し量ろうとしていることに苛立ちもしたが同時に分かるような気がした。スマホを持ったまま、長い間そこで立ち尽くした。


 カメラは売れず、間宮は値下げすることもなくそのままで売れるのを待った。陽子はそれを話題に出すことはなく、間宮と日々を暮らした。彼は陽子の前では何でもないように振る舞うのだが、体力、判断力、行動力、それらが目に見えて落ちていった。それでも毎日散歩には出た。いつもの川べりの遊歩道を歩き、冬の進行とともに色をなくしていく川面の表情をベンチに座って眺めた。

 大晦日、ベンチに座った間宮がぽつりと言った。

「君はいつまで俺といるんだ」

 その日は家を出るのが遅くなって既に昼をかなり過ぎており、加えて今にも雪が降りそうな天気であった。鈍色の景色は陽子の目にはもはや何の情報ももたらさない、無味乾燥なただの記号のように見えた。

「さあ、私にも分かりません」

 陽子は隣で黒いニット帽をかぶり、水色のダウンジャケットを着込んだ間宮の横顔を見つめた。彼が吐き出す白い息にさえ勢いがないように思えた。あなたが死ぬまでですかね、と言う科白は飲み込んだ。俺のことは、と男はすこし掠れた声を放つ。

「もういいから、君は君で生きていくべきだと思う。だって、俺たちはとうに別れているんだから」

 思えばこれは最初からそう言う話だった。陽子は別に請われて間宮との同居を決めたのではない。自分がそうしたかったからそうしただけのことだ。なので陽子は最初から自由だし、このまま間宮と暮らそうが、ある日とつぜん居なくなろうが咎められるいわれはない。彼の言うようにもう付き合ってもいないのだし。かと言って、改めて間宮から通告されるのは陽子の心を無遠慮に揺らした。

「それに、君は引退なんてまだ早い、すぐにでも仕事に復帰すべきだ」

「私、邪魔ですか」

 間宮は言葉を飲む、いや、そういう訳じゃ、と語尾のはっきり聞き取れない呟きを漏らした。

「私が居なくなっても大丈夫なんですか」

 男の瞳が僅かな曇りを帯びたことを陽子は目ざとく捉え少し気分がすかっとする。間宮は痩せて頬骨がこけてしまった顔を歪めて、参ったな、と頭を掻いた。

「私、間宮さんの傍に居ますよ、どんなに邪険にされようが、雑に扱われようが」

 間宮は陽子の方を向かずに軽く頷いた。

「初詣、どこに行きたいですか」

 少しだけでもいいから未来の話をしようと陽子が口にする。

「ああ、もうそんな時期か」

 まるでいま初めて気付いたとでも言うように間宮は目線を中空に彷徨わせる。今日が何日か、きちんと分かっているのだろうかと不安になる。

「ちょっと遠くへ行きませんか、旅行も兼ねて」

 男の目の色に迷いが刷かれた。とは言え一瞬だ。すぐにしまい込まれていつもの色に戻る。そう言うのもいいな、と大して気のない反応を返す。

「私、どこか適当に決めていいですか」

「うん、任せるよ」

 あ、雪、と陽子が手を伸ばして空を舞う白い粒を掴み取る。淡雪は指先ですぐに失せ、皮切りに本格的に降り始めた。積もる前に帰りましょう、と間宮の二の腕を軽く引きながら腰を上げて怯む。それは棒切れのように細く、骨を掴んでしまいそうなほどだった。陽子は自分の表情が平静なままであるようにと精神力を総動員していつものように微笑んだ。間宮はよろよろと自分の身体を立ち上げ、女を見下ろすと自分も笑おうとして、あまり上手く行かなかった。


 二人が営むのは基本的に何もない暮らしだ。日々の暮らしを波立てず、出来るだけ静かに、凪いだ海のように平穏に生きていく。そのような何もなさがどれほど貴重なものか、今の陽子には痛いほどよくわかる。間宮と暮らす日々ではいつ海が荒れ波が立ち、破壊的なことが起きてもおかしくはなかった。

 年が明けてあのライカが売れた日、間宮は心なしか寂しそうで、それでいて望んでいた力を得たように満ち足りた顔をした。陽子を急かして梱包させ、その日の内にコンビニで発送処理をした。やった、俺はやったんだと間宮は嬉しそうに、何度も繰り返した。彼は文字通り全ての思い出を捨て去ったことで、これで生き続けられるのだと確信したのだ。

 つまり、それは対価だ。彼は自分の生命以外の全てを差し出したのだから、その対価として生き延びられると心の底から信じていたのではないか。


 夜、陽子は幸運にも人気の温泉地に宿が取れ、一泊二日の旅行プランを考え終わったので弾んだ心持ちで間宮の部屋のドアをノックした。手には旅程をプリントアウトした紙が握られていた。返事がないのはいつものことなので暫く待つ。とは言うもののドアの向こうで人間の動く気配がない。間宮は室内に間違いなく居るはずで、それが動かないということがどういうことか、咄嗟に、これが恐れていた波だと陽子は察知する。慌ててドアノブを捻った。かちりと外れて真っ暗な室内に押し込んだドアが途中で何かに当たって止まる。反射的に見下ろした陽子の視界を、うつ伏せに倒れ込んだ男の背中が埋めた。駆け寄って縋り付くとまだ息はあった、ぜいぜいと荒く。間宮さん、大丈夫ですか、取り敢えず仰向けにすると廊下から差し込んだ照明の光が間宮の顔を照らし、悲鳴が上がる。鼻から下が血まみれだった。持ってきた紙の束がみるみる赤く染まる。陽子はズボンのポケットに入っていたスマホで救急車を呼ぶ。震える指で画面をタップするのがもどかしかった。

 ああ、波が、私と間宮を飲み込んでいく、

 抗う術はないのだと、暗澹たる気持ちでスマホを耳に当てた。


 病院で間宮を看取った後、陽子は母を喪った雛鳥のような気持ちで家に帰った。間宮のことは病院が連絡した遠い親族に任せた。

 家に戻った次の日、朝から部屋の私物を片付けた。すぐにこの家を引き払わなくてはならない。来た時に使ったキャリーケースに身の回りのもの一切を詰めた。私物が増えた分、少しだけ溢れた。間宮と暮らした日々の具現化だった。

 陽子は蓋の浮いてしまったキャリーケースを強引に閉じて一息つく。インターホンが鳴った。出ると宅配便だった。陽子は小さな箱を受け取り玄関ドアを閉めると、背にして荷物を持ったまま、膝を折って床に座り込んだ。荷物を受け取った時に間宮にする言い訳を何通りも考えていたのにそれを使うことはなかった。

 少し心臓が高鳴っている。逸る気持ちを抑え、それでもどうしようもなく大きな音を立てながらガムテープを剥がして開けた。

 見下ろせば腕の中で、つい先日、彼女自身が上に被せたプチプチ越しに、ライカのカメラが光を纏ってきらきらと輝いていた。どうやら無事に届けられたようだ。ほっと息をついて蓋を閉め、陽子はそれを、まるで間宮そのものであるかのようにおずおずと抱き寄せる。陽子が大金をはたいて購入し、手に入れたのはただのカメラではない。

 それは最早、かつて俳優として活躍していた陽子の写真集の仕事を通し、カメラマンと被写体の関係として出会ってから今日までの、陽子と間宮の思い出が詰まった、黒くて小さくて、切なくとも愛しくて、かつ、瞬時にそれらの情報にアクセスできる瑞々しいデバイスだった。

 きっと私は、このカメラを見るたびに思い出す。

 間宮との、何もなかったからこそ豊かで愛しい時間が確かに自分にはあったのだと。

 溢れた涙が滑って何粒か落ち、段ボールに水滴のしみを作ってすぐに乾いた。女はよろよろと立ち上がると、慈しみに満ちた柔らかい動作で段ボール箱を胸にそっと抱えて、間宮の遺骨を運ぶような慎重さで二階に戻っていった。〈了〉


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