堪忍袋の緒が切れた
「………えーーっと、ハグ!そう、ハグだよね?抱きしめるって言うとなんか身構えちゃうけど、要するに、ぎゅーでしょ?それくらいなら、別に全然だいじょう…」
動揺を悟られないよう早口で言い終えるまえに、維澄の身体に全身すっぽり包まれた。久しく触れていなかった維澄の体温から、心臓の鼓動が伝わってくる。強くも弱くもない優しい力加減が心地いい。
うわぁーー、……
いつのまにか随分と成長していたらしいその身体からは、洗いたての石けんのような、咲いたばかりの若葉のような、もう私の語彙力じゃなんて言っていいかわかんないけどとりあえずいい香りがした。
なんか落ち着くーー......
……って、なんでよ。おかしいじゃん。慣れ親しんだものがいいからと、一人暮らしを始めた今でも私と同じ洗剤を使っているはずなのに…なんで維澄だけがこんなに良い香りを纏っているんだ……!!
「……羽紡?大丈夫?…ごめん、嫌だった?」
「はっ…!ちがうちがう、全然、嫌じゃないよ。維澄の良い香りの原因についてつらつら考えてただけ。むしろ…」
「むしろ……?」
「僭越ながらもっと嗅がせてください、って感じ」
「……はぁーーー。なんなんだよ、その変態のオッサンみたいな答えは……」
どっちなんだよ……とかボソボソ聞こえてくるけど、どっちって、何が?私は正直者の匂いフェチですが、何か?
「……まぁ、とりあえず、今はここまででいいや。男としてまるで意識されてないってことを再確認出来ただけでも、収穫はあった」
――いや、それ、収穫とは言わんだろ。
ひとり頷く維澄に、そんないつも通りのノリツッコミをしようと思った私の言葉は、宙に消えた。
「……っ!」
徐に私の左手を取った維澄が、その薬指の付け根にキスをしたのだ。ただ触れるだけの軽いキス。なのに、その形のいい唇からも、その切れ長の三白眼の瞳からも、逃れようのない熱が伝わってきて――
私は思わず息を呑む。
「俺も羽紡のおかげで無事社会人になれて、ようやく自立出来るようになって来たし。まだまだ未熟者だけど、これからは、育てて貰った恩も、我慢してた想いも、全部、羽紡に返していくつもりだから――――覚悟しててね?」
私の薬指を人質、いや指質に取ったまま、慈愛さえ滲ませて笑う顔に浮かぶのは、綺麗なのに決して目を逸らさせない、獰猛な三日月目ーーー
「 "俺が選んだ人と、しっかり幸せになる所を眺めて、母さんに代わってちゃんと俺の子供をこの腕に抱き締めて……そしていずれは、俺の孫も一緒に愛でる人生" だったっけ?……ふっ。望み通りの人生を送れるって、最高だね?」
その親指と人差し指で、私の薬指の付け根を撫でさすりながら、実に楽しそうにこっちを見上げてくる維澄の顔を見た私はーー
ついに敗北を認めたーーー
のではなく、ブチッという音を聞いた。
堪忍袋の緒が切れた音だ。