麗らかな春のせせらぎ
名前の読み方は、
羽紡
維澄 です。
「維澄のことだからそんなに心配はしてなかったけど、仕事も一人暮らしも順調そうで良かったぁ〜。景子さんもきっと、安心してくれてるね」
「そうかな?あのひとなら、安心する暇もなく、その調子でもっと頑張れって言ってきそうだけど」
「あははっ、間違いない」
それは、なんてことは無い穏やかな春の日だった。私の大学卒業と維澄の高校入学を祝うパーティーを開こうと、買い出しに行ってくれてる最中の交通事故が、世界を変えた。
あの日、私たちは世界でふたりぼっちになった。維澄の瞳に映る私もまた、泣き出す寸前の迷子のような顔をしていたことを憶えている。
景子さんを失わせた世界で、それでも生きていけと放り出された――
そう感じたのは、決して気のせいなんかじゃない。
お茶目で、可愛いものが大好きで、料理は下手なのにお菓子作りだけはとっても上手で、怒ると悪鬼のように怖いけど、でもその分誰よりも愛情深いひと。
『羽紡ちゃんはほんとに素直でかわいいねぇ〜。愛いやつ愛いやつ』
『えへへっ。私も、カッコよくて可愛い景子さん、だいすきだよ!』
友達とも家族とも、その関係性は何かと言われたらしっくりくる言葉はないけれど、そのどれよりも柔らかくて、決して途切れることは無かった、確かな温もり。
『羽紡ちゃん!今日も維澄の子守りしてくれてありがとぉ〜。ほんっと羽紡ちゃんが居てくれて助かるわ〜』
『だから子守りじゃない。もう俺は14歳なんだけど。大学は夏休みが無駄に長くて暇だってうるさいから、勉強教えて貰ってただけ』
「家族」のいない私にとって、景子さんと維澄との交流は、まさに麗らかな春のせせらぎのようで。その月日は、私の人生で初めて手に入れた、穏やかでにぎやかな、幸福の時間だった。
『もう、あんたはほんと可愛げってもんが足りない。いつもごめんね、羽紡ちゃん。感謝の気持ちも込めて、今日は羽紡ちゃんの好きなハンバーグだよーん!』
『えっ……景子さん待って、嬉しいけどまだ焼かないで』
『……はぁ〜〜。母さんがやったらまた黒焦げになるだけでしょ?あんなの食えたもんじゃないから。貸して、俺がやる』
『ちょっ、この前は上手くいったじゃん!もう、維澄!私が羽紡ちゃんに作ってあげたかったのにぃ〜!』
「家族」というものを切望していた私の心を、優しく優しくすくいあげてくれた景子さんの、大切な大切な宝物。
『いつも通り焼く系の料理は維澄がやってくれるらしいから、もう任せちゃっていいよね。今日もうちで食べてくでしょ、羽紡ちゃん。こっち来て先週録画しといたドラマ一緒に観よ〜』
『えぇっ!でも景子さん、昨日も夜ご飯お世話になったばっかりだし、さすがに今日は…』
『はぁ……羽紡が夕飯前に帰ったら、あんたが無愛想すぎるせいよってこっちに切れてくるから、面倒なんだよね。母さんの言う通り、食べてけば?』
私と同じく施設育ちで、最愛の旦那さんも早くに亡くしてしまった景子さんには、頼れる親戚も親もなく。
「維澄……これから、一緒に暮らそうか」
そうしてこの世でひとり寄る辺を失くした15歳の維澄を引き取るのは、私にとって息を吸うよりも自然なことだった。
「大丈夫。しばらくは、何も考えないで。今はただ、暮らしを続けていくだけで、いいの……きっと、そう。大丈夫。……ううん、ごめん。維澄のためって言いながら、ほんとは私が……今はもう、ひとりじゃ、生きていけないのかも……」
悲しみもやるせなさも、寂しさも痛みも、いつまでも塞がらない。心にぽっかりと穴が空いたようだった。
「大人なのに、弱くて、情けなくてごめん……一緒に、少しずつ、暮らしていこう」
そうして、どうにもならない心の穴をなんとか埋め尽くすように、ふたりぼっちで暮らし始めたあの日から、もう6年。
ねぇ、景子さん。私は、あなたの宝物に、私たちと同じ寂しさを味わってほしくなくて。こんな未熟な私でも、きちんと維澄を幸せにできるように、ただ必死に毎日生きてただけなのに。こんな事態に陥るだなんて、ひとっっかけらも想像していなかった、私が悪いんでしょうか――?
『羽紡ちゃんったら、きちんと見ているようで、とぉ〜っても鈍いんだから。そんなんじゃ景子さん、心配になっちゃうぞ』
そんな、懐かしくもお茶目な天の声が、聴こえた気がした――