第五話
第五話 最終話
「ただいま…」
私のその一言で、観衆は歓喜の渦へとなだれ込む。
真っ暗なステージの上、遠くから放たれるピンスポットは、私一人をステージの上へ浮かび上がらせた。
誰もが私の名前を呼び、そこには泣いている人の顔さえ見る事ができた。
観衆のざわめきが落ち着くのを待って、私はまた客席へと語り掛ける。
「私がこの街のナイトクラブで歌ってたのを知ってる人いる?」
大きな拍手が沸き起こる。
「じゃあ、そのお店で私の歌を聞いた事がある人は?」
まばらでは有るが、少なくは無い人達が拍手をした。
「その人達…反省しなさい。あんた達がお店に来なくなったから無くなっちゃったのよ、あの店」
ホールの中に大きな笑いが起きた。
「おかげで私、演歌歌手になっちゃったじゃない」
また観衆が笑った。
「日本レコード大賞最優秀曲ノミネート…ねえ、ちょっと聞いた?日本レコード大賞最優秀曲だって…私、頑張ったんだよぉ」
観衆の声援が爆発した。
その曲のイントロが流れる。
私を照らしていたライトが一旦消え、ステージ全体の照明がゆっくりと上がり、次第にバックバンドの姿が現れた。
ピンスポットの細い糸がやがて丸い輪郭を広げ、その中心で私は私を世に送り出したあの歌を歌い出した。
斉藤利弘は上野駅で私を待っていた。
私に用意された部屋は、浅草にほど近いワンルームマンション…。
ベットとテレビと照明器具、それ以外は何も無い…ビジネスホテルの様な部屋だった。
「俺を信じろ」
斉藤はそう言った後「3年で世に送り出す」と約束してくれた。
信じることにした…信じる以外、私には道が無かったから。
直ぐにレコーディングは始まった。
ど演歌…用意された曲に、私は失望と悲しみを覚えた。
売れるはずが無い…一瞬で私は判断した。
ドサ回りと呼ぶに相応しい毎日が私を待っていた。
北関東に拠点を置く斉藤利弘音楽事務所…東北や磐越へ在来線の夜行列車で向かう日々が続いた。
さびれた商店街のレコード店の前、木箱やガタつくパイプ椅子の上で歌うのは当たり前…マイクさえ用意されない店の前で、アカペラで歌う事もあった。
東京に戻れば、銀座や新宿のクラブで歌を歌った。
華やかなホステス達と酔客の笑い声が飽和する店の中…。
誰も私の歌など聴いていない。
エアポート93の、わずかな客の前で歌い続けたあの頃より、はるかに惨めな思いを抱いて歌った。
一曲目…地方のラジオ曲で何度か流れただけで終わった。
二曲目…変わらない結果…。
三曲目…ストーリー性の有る、まるで小説でも読む様な曲をカップリングで入れた。
ある日、不思議なことに気がついた。
その曲を歌うと、酔客の中からまばらな拍手が起きる…。
誰も聴いてなどいない私の歌に、リクエストが入る様になった。
やがてラジオ局からの出演の依頼…そしてテレビ…。
世の中が、私を受け入れた瞬間だった。
凱旋コンサート…。
そんな言葉がお似合いのリサイタルとなった。
この客席のどこかで、もしかしたら裕也が私の歌を聴いているかもしれない。
いや、朝の弱い裕也のことだ。
観に来るとしても夜の部に違いない。
楽屋に訪ねてほしい…。
私はそんな事を思いながらステージをつとめていた。
昼の部が終わり意気揚々と楽屋へ引き返すと、マネージャーの由香里が困り顔で私の元へ近づいて来た。
「どうしたの?」
私は由香里に聞いた。
「あのぅ…」
由香里はまるで要領を得ない。
「なによ?」
苛立つ私…。
「こんな時になんですけど…」
「だからなに?」
辛辣な私の言葉に由香里が取り出したものは…。
黒い縁取りがされた一枚のハガキ。
引ったくる様に私はそのハガキを由香里から取り上げた。
『兄裕也儀 兼ねてより闘病中の病により去12月10日永眠致しました。』
葬儀の日は今日の日付…場所はエアポート93が有った中島公園にほど近い教会…。
裕也にしては悪い冗談だと思った。
しかし…3年前のあの別れのことを思えば、神様まで持ち出し私の将来に暗雲が立ち込めているとまで言ったことの責任を取るには、教会での再会が一番お似合いだと裕也は考えたのかもしれない。
ならば…私もそれに応えよう。
裕也の冗談に、とことん付き合ってやるのも悪くない。
私は口元に手を当て、少女の様な笑い声を小さくあげた。
「何が可笑しいんですか?」
由香里が怪訝な顔をする。
「気の利いた洒落よ。大人は時々こういう事をするの」
一回りも歳の違う由香里に、私は余裕の有る笑顔で答えた。
「喪服を用意して、出来るだけ早くね」
私はそう言ってステージ化粧を落とし始めた。
地下鉄「中島公園駅」で降り、私は長い階段をゆっくりと上がって行った。
裕也に会ったら先ずなんと言ってやろう…。
「ご愁傷様」
そう言ってやるのも悪くない。
はしゃぐ様な気持ちで、私は根雪になったばかりの札幌の街に足を踏み出した。
教会に近付くうち、喪服の人が見え始めた。
電柱に「河野家葬儀」の文字と矢印…。
私の心がざわついた。
教会の前に着いた。
教会の前で泣き崩れる人、人、人…。
裕也と同年代と思われる数名のグループが、泣き腫らした顔で固まっている。
教会の入り口を取り巻く様に飾られた花…。
その横に遠慮がちに書かれた「河野裕也」の文字…。
冗談なんかじゃない…正真正銘の裕也の葬儀がこれから行われることを私は知った。
教会の前に呆然と佇み、私は言葉を失っていた。
ことの真相を知りたい…。
直ぐに思ったのはその事だった。
だがしかし…私は短い裕也との付き合いの中で、裕也の友達や家族の誰一人知らないことに愕然とする。
誰かに声を掛けようにも、今となっては有名人となった自分が、この場所にいる不自然さに怯えてさえいた。
私は、こんな時だと言うのに自分のの体裁ばかりを気にする自分自身に苛立ちを覚えていた。
誰一人話す相手もいない教会の待合室で、私は涙を流す事も忘れ裕也との思い出を一人遡っていた。
そして私は気づく…。
この教会に入った時から流れ続けている一曲の歌に…。
それは紛れもない…私を世に送り出した、私のあの歌だった。
堪えていたわけでは無い。
ただあまりにも突然の事に、流れる事を忘れていた私の涙が、堰を切ったように流れ出し、嗚咽を伴って周りの人の視線を集めた。
黒いベールで顔を隠しているとは言え、誰かが私に気が付いたのだろう。
教会の待合室が俄かにザワつき始めた。
周りの視線が完全に私に集まった頃「お別れの準備が出来ました」と、この教会の牧師が皆を裕也が眠る祭壇の有る部屋へと連れて行った。
私は顔を上げる事もできず、群衆の一番後をよろけながらついて行った。
大聖堂…そんな言葉が似つかわしい豪華な教会だった。
キリストが磔にされた十字架の足元で、裕也は静かに眠っていた。
この部屋の入り口で手渡された一輪の白い花。
その花を皆が順番に棺の中に入れて行く。
よく見るとそれは、白いポインセチアだった。
クリスマスに定番の花…ポインセチア。
ポインセチアは元々は白い花だった。
ゴルゴダの丘で磔にされたイエスキリストの血によって赤く染まったと言われる花…。
全てのポインセチアが赤だとばかり思っていた私は、まだキリストの血で染まる前の白いポインセチアがある事を知り、それさえも裕也の追悼にお似合いだと思った。
この白いポインセチアは、私をあの掃き溜めの様な寂れた場末のナイトクラブから私を救い出した救世主…裕也の血で赤く染まるに違いない。
讃美歌の代わりに流れ続ける私の歌…。
牧師が聖書の一節を読み上げ、裕也とのお別れの式典はあっさりと終わった。
私は席を立つ事もできず、黒いレースのハンカチを握り締めながら、ただ泣いていた。
目の前に人の気配を感じた。
30代前半の若者が立っていた。
悲しい笑い顔で私を見つめている。
「むつみさんですよね?近藤むつみさん」
私は静かに顔を上げ、その青年に向かってコクリと頷いた。
「裕也の弟です」
言われて見直すと確かに裕也の面影がある。
裕也の死を知らせるあの葉書に「兄裕也儀」とあったのを思い出し、直ぐにこの式典の喪主である事にも思いが至った。
「この度は…」
私は震える声でようやくそれだけの言葉を絞り出した。
「少しだけお話をさせてもらって良いですか?」
礼儀正しい所は裕也に良く似ている。
私は再びコクリと頷いて、椅子の上に置いてあった黒い鞄を引き寄せた。
「兄貴に言われてたんですよ…病気のこと、むっちゃんにだけは知らせるなって。すみません、むっちゃんなんて気安く呼んで」
裕也の弟はそう言いながら、広くなった私の隣へと腰を掛けた。
私は嗚咽を抑える為、口元にハンカチを押しあてたまま激しく首を振った。
「ちょうど3年になりますか…兄貴の病気が見つかって…」
「3年って!」
私は驚きのあまり、今いる場所もわきまえず大きな声で叫んだ。
その声に、裕也の弟が深々と頷く。
「そうです…実はむっちゃんが東京に行く直前に病気のことがわかって」
「その病気って?」
「血液の癌でした」
「白血病…」
「そうです。兄貴、凄い悩んでて…どうやってむっちゃんに気付かれないまま別れようかって」
「別れる?」
裕也の弟の告白に、私は動揺を隠せない。
私の東京行きの話が持ち上がる前に、裕也は自分の病気のことを知り、私と別れようとしてたと言うのか…。
「むっちゃんはいつか必ず売れるって…その時、白血病の俺がいたんじゃむっちゃんの足枷になるからって…」
確かに…私が東京へ旅立つ前の裕也は冷たかった…。
何を相談しても自分で決めろの一点張り…。
悩み抜いてやっと出した私の結論にも、返ってくる裕也の答えは私の思っていることとは、まるで正反対の言葉ばかり。
その理由が自分の病気を隠し、私を遠ざけるためだったとでも言うのか…。
あの記録的な大雪の日、私の乗った夜汽車を追いかけ、駅のホームに愕然と膝をついた裕也の姿が脳裏に浮かび、私は慟哭の叫びを上げた。
「裕也…」
一言裕也の名前を呼んだ瞬間、止めることのできない涙が、加速度を伴って私の目から溢れ出した。
「私の歌なんか聞かないって…スピーカーから流れる私の歌なんか絶対に聞かないって…」
しゃくり上げながら、私はうわごとのように問わず語りをしている。
「むっちゃんのCDが出る度に、兄貴は大量に買い込んで知り合いみんなに手売りしてたんですよ」
「私なんか何枚も買わされたのよ」
裕也の弟の言葉を受け取って誰かが答えた。
目を上げると、私と裕也の弟を取り巻くように大きな輪が出来ている。
その方々が声が飛んだ。
「私もよぉ」
「あはは、俺もだ」
いつしか私の涙は、裕也を偲ぶ思い出語りの笑い声にかき消されて行った。
「むっちゃんの歌で送ってくれ…それが兄貴の最後の言葉でした」
私は教会のベンチの上で、抱えた膝に思い切り顔を押し付け、最後の慟哭を上げた。
最後の……。
いつものように緞帳がゆっくりと上がり、眩いばかりの七色の灯がステージ上を乱反射させながら走り回る。
観衆の声援は更に大きくなり、割れんばかりの拍手と喝采が私を包み込んだ。
遠くから私を狙う、糸のように細いピンスポットの光り。
その輪郭はゆっくりと広がり、私の視界から全ての景色を奪って行く。
浴びせかける程の光の渦の中で、私はいつも見えない景色を目の中に浮かべていた。
凱旋コンサート夜の部が開演した。
裕也…観てるんでしょ?
どんな時も、あなたはちゃんと私を観ている…私には分かっているの。
今日、そしてたった今…こんなにつらく悲しい思いを抱いていても、それが歌手としての使命で有り宿命である以上、私は観客の心に届く愛の歌を歌い続けなければいけない。
今夜は、裕也への愛を込めて歌います。
でもね…この悲しみも私は直ぐに忘れてしまう。
一途な愛を歌いながら、私はもう二度と人を愛したりしないなんて誓ったりしない。
私はまた直ぐに誰かを好きになり、その思いを糧に歌を歌っていきます。
ただ、ピンスポットの細い糸が見えた時…眩いばかりの光に包まれ、全ての景色を失った時…そのライトの向こう側に、いつも裕也がいることを感じながら…。