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祈り   作者: sing
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祈り 第四話

祈り 第四話



エアポート93の客席は今夜も閑散としている。


週末以外は、もうずっとこんな調子だ。


もっとススキノに近い立地条件なら客の流れも有るのだろうが、私にはこのエアポート93が閉店のタイミングを待つ古びた帝国に思えて仕方ない。


それはつまり、私がこの札幌で歌える場所が、また一つなくなる事を意味していた。


歌い続けるには…演歌歌手としてデビューする話を受け入れるしかない。


それも裕也との別れを決意して。


いや、必ずしも男女の関係を清算しろと言われた訳ではない。


今の時代、飛行機に乗ってしまえば、東京なんて遠い場所でもない。


国をまたいで付き合っている人たちだっている。


私と裕也が遠距離になったとしても…私はこの恋に一途でいられる自信があった。


でも…裕也はどうだろう。


歌手、近藤むつみを応援してくれている事は、二人の関係が近付く前から知っていた。


しかし…男女の関係となった今は…。


自分の夢を追うため、遥か東京へ向かう事も、既に半同棲の生活をしていると言うのに、裕也をまた独りぼっちの寂しい生活へと逆戻りさせる事も、遠距離でも二人はやって行けると言い聞かせる事も…全ては私の勝手な都合なのだ。


優しい裕也の事だ…。


私がこうして欲しいと言えば、黙って全てを受け入れるだろう。


だからこそ私は自分の考えている事を裕也に伝えることが出来ないでいる。


その裕也は「自分の事は自分で決めろ」の一点張りで、相変わらず自分の意見など1ミリも言おうとはしない。


私の思いは、演歌歌手としてのデビューへと急速に傾いていった。


ジャズやブルースにこだわったとしても、歌える場所がひとつ、またひとつと消えていくこの札幌で、歌える場所が無ければそこで夢は潰えてしまう。


ならばいっそ演歌歌手として世に出た後、ジャズやブルースへと移行しても良いはずだ。


「必ず売れて帰ってくる」だからそれまで遠距離で私の支えとなって欲しい。


私は裕也にそう伝える事を決めた。


私は泣き明かしたあの定食屋で、その気持ちを裕也に伝えた。


「甘いよ…」


裕也は苦いものを吐き出す様にそう一言呟き、口をつぐんでしまった。


私は、自分の想像と違う答えを聞かされ、後の言葉が告げないでいる。


「今まで積み上げてきた実績や経験を捨てて自分を試しに行くんだろ?そんな甘い考えで本当に成功出来るとでも思ってるのか」


裕也にはまるで不似合いな辛辣な言葉…。


「何が甘いって言うの?」


震える私の声…。


「大事な物全部捨てて、ボストンバッグひとつ抱えて行くくらいの気持ちがなくて何が絶対売れて帰ってくるからだよ」


「そんな言い方って…」


『頑張って行ってこい』の一言で送り出してくれても良いじゃないか…。


私はそんな思いで抗議の言葉を漏らした。


「バックパック担いでアメリカを回ってた頃のことを思い出してみろよ。食うや食わずで夢追っかけてみたって今のむっちゃんじゃないか…いい加減歳食って甘い話に乗っかって、辛くなったら札幌に俺がいるからって、自分の逃げ道二つも三つも用意してから東京に行って何が出来るんだよ」


裕也はそこまで言って、食べ掛けの定食の皿の上に割り箸を投げ捨てた。


「じゃあ裕也はどう思ってるのよ、今回のこの話し」


「だから俺の意見なんか聞いてどうするんだよ。やめろって言えば東京に行くのをやめるのかよ」


私には次の言葉が見つからない。


私の中では既に東京へ出て、演歌歌手として歌を続けていく事は答えが出ている。


夜更けの定食屋で裕也と対峙し、今この時…私が裕也にぶつけているのは裕也が言うように確かに私の甘え以外では無い。


「分かった、裕也にはもう何も相談しない。自分で決めるから」


私はそう言って席を立った。


あの日、一人取り残された夜更けの食堂で、私は泣き明かした。


裕也は今どんな思いでいるのだろう…。


残りの定食を一人で平らげ、いつもの…私とこうなる前の日常へと平然と帰っていくのだろうか…。


お酒を飲みたい…歌を歌いたい…大声で笑いたい…裕也を好きになる前の自分に戻りたかった。


雪深い札幌の街を、乗客を探すタクシーが音もなくゆっくりと通り過ぎる。


運転手が、私の泣き顔に気付いて驚いた顔をする。


ゆっくりと通り過ぎるタクシーのスモークガラスに私の顔が映った。


ひどい顔をしていた。


こんな顔を誰にも見られたくないのに…。


裕也に対する気持ちに、少しだけ恨み節が加わった。


なのに、私の頭の中から裕也が消えない…。


電気の消えたブティックのショーウィンドウの前…。


大粒の牡丹雪でホワイトアウトしたショーウィンドウの真ん中で、惨めな顔をした30年増の女が泣いていた。




急展開…そんな言葉がお似合いの旅立ちだった。


「むっちゃん!」


エアポート93に出勤するなり、ゴミのような下らない男を拾ったバカ女…玲子が駆け寄ってきた。


目には涙さえ浮かべている。


カルティエのバンマス…東との一件があってから、私はこの玲子とステージの上以外で言葉を交わしていない。


東の愚痴でも聞かされたのならたまったものではない。


私はそんな事を思いつつ、玲子の目を見つめ返した。


「なにごと?」


敵意を含んだ声で私は答えた。


「無くなるの」


「何が?」


「このお店」


「えっ?」


「だから…エアポートが無くなっちゃうの」


「いつ?」


驚いた私の声もうわずっている。


「今月いっぱいで閉めるんだって」


「今月って後10日もないじゃない」


『ニッパチ』と呼ばれるほど夜の業界では、2月と8月は閉店する店が多い。


だとしても、これほどの大箱で有るエアポート93が、僅か10日足らずで閉店を迎えるとは…。


しかし…近頃の客の入りを見ていれば納得もいく。


良くも今日までもったものだと感心するほどだ。


「歌えなくなっちゃうよ」


そう言って再び泣き出した玲子をその場に残し、私はバンドの控え室へと向かった。


直ぐにハンドバッグを開き、財布の中に忍ばせた斉藤利弘音楽事務所の名刺を取り出した。


電話を掛けた。


電話は直ぐにつながった。


「東京へ行きます」


もしもし…という会話ももどかしく、私は要件だけを伝えた。


「そう言うと思ってましたよ」


当然…と言う言い方で斉藤利弘は言った。


斉藤は「よろしくお願いします」と言った私の言葉には返事をせず「いつにしましょう」と要点だけを返してくる。


「明日にでも」


「それは気が早い…一週間後に東京で会いましょう。それまでに全てを用意しておきます。身軽で来てください」


身軽で…その言葉には裕也との関係を清算することも含まれているのだろう…。


それが大人の会話だと、私は理解していた。




裕也に冷たくあしらわれ、泣き顔で明かりの消えたブティックのショーウィンドウの前に立った牡丹雪の降るあの夜から、札幌の街を埋め尽くした雪は降り止む事を知らず、記録的な大雪となった。


無責任なバンド仲間だけが、私の東京行きを我が事のように喜んだ。


連日の送別会と激励会…。


そこに裕也の姿は無い。


今…裕也と自分の関係が、終わってしまったのか、それとも続いているのかさえ自分では分からなかった。


降り続いた雪は道央自動車道と新千歳空港の機能を全て奪い、約束の日時に東京へたどり着ける手段は、函館本線以外になかった。


他に選択域のないまま、私は裕也に言われたようにボストンバッグ一つを抱え、二度と戻ることのないマンションの扉に鍵を掛けた。


ほんのわずかな時間…裕也と共に暮らしたこのマンションの扉に…。


感傷など入り込む隙間もないほどのスピードで、エレベーターは私を1階のエントランスへと運ぶ。


到着を知らせるベルの音と同時に開くドア…。


疲れた顔の裕也が立っていた。


泣いているのか…それとも笑っているのか…私は自分で自分の顔がわからない。


ただ、旅立ちの前に裕也に会えたことに安堵していた。


「行くんだろ?」


私は裕也の問い掛けに、片頬の動きだけで頷いた。


「送って行くよ」


「駅だよ」


「分かってる」


裕也はそう言って「エアポート93」と言う看板が横書きにされたライトバンのドアを開けた。


「荷物は?」


「これだけ」


私はボストンバッグを裕也の前にかざした。


それで良い…とでも言いたげに、裕也はひとつ頷いて運転席に乗り込んだ。


降る雪に阻まれ、歩くような速度で車は札幌駅へ向かっている。


何を話せば良いのかもわからず黙り込む私…。


それは裕也も同じようだ。


車が雪を踏みしめる音が、やけに大きく聞こえた。


駅に着くまでの道のり、二人ともただの一言も言葉を吐き出すことはなかった。


長い時間をかけ、車は駅のロータリーへと滑り込んだ。


「ありがとう」


私はそう言うのが精一杯だった。


「ホームまで行くよ」


裕也が私を見ないまま、シートベルトを外しながら言った。




「むっちゃん…」


絞り出すような裕也の声…。


「なに?」


私の声もうわずっている。


「こう見えても俺は信心深いところがあってさ、当たり前に飛ぶはずの飛行機が飛ばず、高速道路も通行止め、それが何十年振りかの大雪のせいとなれば、この先のむっちゃんの道のりに暗雲が立ち込めているような気がして仕方ないんだ」


降る雪を避け、そこだけポツリと景色を取り戻した駅のホームで、私を東へと導く線路を見つめながら裕也は言った。


「やめてよ…嘘でも良い、せめて頑張れって…応援してるってどうして言ってくれないの?」


訴える私は涙声だ。


「俺は応援なんかしないよ。今は音楽さえ憎い…」


「裕也…」


「俺はレコードなんて買わない。スピーカーから流れるむっちゃんの歌なんて絶対に聴かないからな」


「裕也…」


私は裕也の名前を呼ぶ以外に、何も言葉が浮かばない。


大きな警笛を鳴らしながら、ラッセル車がホームを駆け抜けて行く。


「行くなよ…何もこんな日に行く事ないじゃないか」


「裕也…」


「明るく送り出せるタイミングってあるじゃんか」


「裕也…もうやめて…もう遅いよ…もう遅すぎるよ」


もっと早く言ってくれたなら…いや、どんなに早く今の言葉を言ってくれたとしても、結果は何も変わらなかったに違いない。


ただ…今日の別れがこんなに辛くなる事はなかったかも知れないけれど…。


函館本線のディーゼル列車がホームに滑り込む。


怯えた顔の裕也が、ボストンバッグを持つ私の手を掴んだ。


発車のベル…。


私は裕也の手を、もう片方の手で静かに解いた。


「行くよ」


汽車に乗り込む私。


閉まるドア。


動き出す汽車。


ドアの窓から裕也を見つめた。


駆け出す裕也…何かを叫んでいる。


ディーゼル列車の汽笛でその声は聞こえない。


私の名前を呼んでいる。


そして『行くな』と叫ぶ声を、私は裕也の口の動きだけで聞き取った。


ホームに跪く裕也を置き去りに、私を乗せたディーゼル列車が吹雪の街へと飛び込んで行く。


ねぇ裕也…。


私はあまり神様を信じる事はないけれど…もし神様がいるのだとしたら、私は少しだけ裕也と感じ方が違う。


飛行機も飛ばない…高速道路も走れない…でも、列車は私を東京まで運んでくれる。


東京へ向かうには、何も飛行機に乗ることだけが当たり前じゃない。


諦めずに探せば、手段はいく通りだってある事を教えてくれているように思えるの…。


この雪だって…未練を増幅させるあなたとの思い出の詰まったこの街並みを、私の目に映らないように隠してくれるベールにしか思えない。


あの日…あなたが私に言ったように、私は全てを捨ててこの街を出ます。


そして私は必ず夢を実現させてこの街に戻ります。


その時…その時あなたがまだ一人でいたなら…私はもう一度あなたと恋に落ちたい…。




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