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祈り   作者: sing
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祈り 第三話

祈り 第三話



ホールの中は若いカップルが1組だけ…。


ステージの正面のボックスでイチャイチャと酒を飲んでいる。


バンド演奏なんて全く聞いている様子もない。


真っ暗なホールの中、50席以上あるテーブル席の上で、赤いガラスに包まれた蝋燭の炎だけがこの店の照明だ。


寂れ果てた場末のナイトクラブ…無観客に近いこんな場所でも、私はステージ用の衣装とメイクを纏い、全力で歌を歌わなければいけない…。


それが仕事だから。


そのホールの入り口で、黒服に身を包みヘッドウエイターの証である白い蝶ネクタイを巻いた河野が、客席をじっと見つめている。


私はその河野の背後にゆっくりと近づき、河野の膝の内側を私の膝で力強く押した。


バランスを失った河野が驚いた顔で私を振り返った。


私は胸の中に抱くように抱えた楽譜を見せ「歌うよ」とだけ短く言った。


河野の顔に疑問符が浮かんだ。


「行かないで…if you go a way.」


私はわざと突き放すような言い方で話す。


それはつまり…今日この歌は河野のためだけに歌おうと思っているからだ。


照れ隠し…それはいつだって不機嫌を装うしか方法がない。


河野がニコリと笑った。


「じゃあ、僕は上にあがります」


河野はそう言って照明ブースに上がっていった。


恋の予感を感じるほど距離が縮まったと言うのに、人前では相変わらず敬語を使う河野に、私は益々の好感を持っていた。


照明ブースに向かう河野の背中を見つめながら、私は胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。




ステージの正面…視線を上げるとそこに畳一畳ほどのガラス張りのブースが有る。


真っ暗なそのブースの中から、糸の様に細いピンスポットが私を狙っている。


ピンスポットの機械の向こうで人影が動いた。


河野がそこで私を見つめているのが私には分かっていた。


完全に照明を落としたダンスフロアー。


そこにせり出したショータイム用のステージ。


その中央に私は立っていた。


照明の後ろはただの暗闇…。


絡み合うはずのない私と河野の視線を意識し、私は誰にも気付かれない様にウインクをした。


今日のバックバンドは、東がバンマスを勤めるカルティエだ。


別れたばかりの男が、私のために静かに演奏を始める。


そして…これから始まるだろう恋の相手が、華やかな光を私に浴びせようと息をひそめている。


どこまでも静かな前奏を聴きながら、私は心の中を河野でいっぱいにした。


今まさに歌い出すその瞬間、私のブレスに合わせ河野がゆっくりとピンスポットの輪郭を広げ、私をステージの上に浮かび上がらせた。


やはりこの人は音楽を分かっている…いや、私を分かっているのかも知れない。


そう思いながら、私は感情を豊かに「if you go a way」を歌い出した。



初めて河野に抱かれた日…それは5年もの間、誰かの何かに抱かれていた自分と訣別する日でもあった。


私だけの男…誰に遠慮する事なく、私だけのために存在する男…。


ただその事実だけに、私は河野裕也に急速に惹かれていった。


裕也無しでは生きていけないとさえ思う事に時間は掛からなかった。


人前でさえ…私は裕也との関係を隠さなかった。


そして、それを裕也にも強要した。


裕也は私のわがままの全てを受け入れた。


このまま札幌の地で、場末のクラブ歌手として埋もれても良い…私はそう思い始めていた。


だから……。


その日ソロステージを終えた後、ご指名を受けて見知らぬ客のボックス席に呼ばれた時も、連れの女にいい格好をしたいばかりに、僅かばかりの「おひねり」を貰って古いポップスでもリクエストされるのだろう…くらいに考えていた。


「むっちゃん、お客さんが呼んでます」


呼びに来たのは、ニキビの跡を貼り付けた若いウエイターで名前も知らない。


「酔っ払い?」


狭いホールの中…知ってる顔が有ればステージの上からでも分かる。


今日の客席に知り合いは居なかった。


こんな場末のナイトクラブでは、クラブ歌手は時にはホステス代わりも勤めなくてはいけない。


私はうんざりした気持ちでその客の事を尋ねた。


「そうでもないですよ。て言うか男の人はお酒は飲んでませんよ」


「分かった、すぐ行くわ」


私はそう答え、ステージ衣装のドレスのまま客席へと向かった。




「お呼びだてしてすみません」


歳の頃は40は過ぎてるだろうか…。


テンガロンハットに革のジャケット…見た目とは裏腹にとても紳士な印象だった。


隣に座る女性も崩れた印象は無い。


私は怪訝な表情を浮かべたまま、その客に頭を下げた。


「はじめまして…で、良かったですか?」


失礼のないよう、私は伺いを立てた。


「実は21世紀の方で一度…」


21世紀…時々私がステージに立つ、別のナイトクラブだ。


「そうでしたか…今日は何かリクエストでも」


直ぐにでもこの場を離れ、もっとラフな服装に着替えたい私は、単刀直入に切り出した。


「はい、とても大きなリクエストで」


真面目な顔でその客は言った。


「バンドによって演奏出来る曲と出来ない曲が有りますけど、知ってる曲ならなんでも」


私も当たり障りがない。


「近藤むつみさんの全ての曲を」


そう言ってその客は一枚の名刺を出した。


『斉藤利弘音楽事務所』


代表と書かれたその名刺に、私は意表をつかれていた。


名刺とその客の顔を何度も見直した。


「デビューしてみませんか」


一杯飲みませんか…とでも言うような軽い口調で斉藤は言った。


「デビュー…」


今言われた事を、私は口の中で繰り返す。


「そう、デビューです」


斎藤が笑った。


「今お付き合いしてる方は?」


「この歳ですから…」


私は答えた。


「居る…と言う解釈でよろしいですか?」


斎藤が確認した。


私は無言で頷いた。


「アイドルを育てようって訳では有りませんから、関係を精算して下さいとは言いませんが、東京へ出るなら身軽な方がいいかも知れませんね」


「東京…」


「はい、東京です」


当然と言うように斉藤は言った。


「それが条件ですか?」


私は聞いた。


「もう一つ、近藤さんに歌って欲しいのは演歌です」


「演歌…」


私にとっては「はいそうですか」とはいかない事ばかりだ。


デビューの話は飛びつきたいくらいだと言うのに、やっと手に入れた女としての幸せ…そのパートナーである裕也と別れ、一人東京へ出て行く事、そしてこれまで歌ってきたポップスやブルース、ジャズと言うジャンルを離れ、演歌歌手として世に出ること…。


即答の出来る話では無かった。


「少し考えても良いですか?」


今…この場でできる返事はそれ以外には無い。


「あまり考えない方がいい場合も有りますよ」


そう言って斉藤は、連れの女を従え店を出て行った。



店が引けた後、朝までやっている定食屋で私は裕也と向かい合った。


そして…今日の出来事をどう伝えれば良いのか思案していた。


「何が有った?」


先に聞いたのは裕也だ。


「うん?うん…分かる?」


答えの出ない私の答えはどこか上の空だ。


「さっきからご飯も食べてないじゃん」


裕也に言われ、初めてテーブルの上を見た。


裕也はもうとっくに食べ終わっていると言うのに、私は目の前のミートスパゲティがぐちゃぐちゃになって冷めきっている。


私は裕也の目をじっと見つめ、大きなため息をひとつ吐いた。


そして…。


「んーっ!分かった、正直にいうわ…今日スカウトされたの」


と、髪をかきむしりながら言った。


途端に裕也の顔が輝いた。


「良い話じゃん!今日来てたあの客?如何にも音楽家って感じだったもんね」


我が事のように喜ぶ裕也。


「本当にいい話だと思う?東京に行くのよ。私達は別れた方がいいって言うのよ。しかも演歌を歌えって言うのよ。それがいい話だって思う?」


裕也の片眉がピクリと上がった。


その条件に裕也も何か思う事が有ったのだろう。


片眉を上げるのは、裕也か言いたい事を飲み込んだ時の癖だ。


「なによ…」


意味もなく私は突っ掛かる。


「別に…」


裕也も素っ気ない。


「良くないよ、そう言うの」


「何が?」


「言いたい事が有るなら、ハッキリ言いなって事よ」


私は自分の迷いを不機嫌にすり替え、裕也の優しさにぶつけた。


「何を言って欲しい?行くなって言えば良いのか?やめろって言えば良いのかよ?」


いつになく裕也も感情を表に出した。


「私に聞かないでよ。私は裕也の意見を聞いてるの」


段々とヒステリックになる私…。


もし裕也に行くなと言われたら…演歌なんてやめろと言われたら…私は今回の話を断る事が出来るのだろうか…。


「俺が決める話じゃないだろ?むしろむっちゃんの気持ちはどうなんだよ?」


裕也の苛立ちが声に出始めている。


「話をすり替えないで!今は裕也の意見を聞いてるんじゃない」


「だから、むっちゃんはどうしたいんだよ!」


「もう良いよ!」


遂に私は泣き出した。


泣く以外にどうする事も出来なかったから。


「今日は自分の部屋に帰るよ。俺の意見がどうとかじゃなくて、自分の事なんだから一人でちゃんと答えを出せよ」


裕也はそう言い、テーブルの上にあった伝票を掴んで店を出て行った。


私は人の入れ替わりの激しい夜更けの定食屋の片隅で、夜が白むまで泣いていた。


誰一人…私に声を掛けるものは居なかった…。






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