祈り 第一話
祈り 第一話
開演を知らせるブザーが鳴り、ザワついていたホールに一瞬の静寂が訪れた。
緞帳が静かに上がり、遠くから照らすピンスポットの灯りが徐々に私の姿をステージの上に浮かび上がらせる。
束の間の静寂は悲鳴に近い叫びに変わり、そこにいる観客のほとんどが私の名前を呼ぶ。
モニターのイヤホンが耳に入っていなければ、これから歌う曲の前奏さえも聞こえないほどだ。
演歌歌手としてデビューして3年…本当はポップスやブルースの歌い手として歌手活動をするのが夢だったのに、2年間は泣かず飛ばずだった私が、ようやく世間に認めてもらえたのが演歌だった。
ドレミファソラシドと言う音階の中で、ヨナ抜き音階と言われる演歌には4と7の音階がない。
つまりファとシが無いのだ。
ピアノの黒鍵…たったそれだけで演歌のメロディは出来ている。
更には、歌詞そのものが5.7.5となっている事がほとんどで、日本人の耳にはそれだけでも馴染みやすいのかもしれない。
その約束事の中に詰め込んだ恋の歌が、私の声と歌い方に合っていたのだろう。
不本意な気持ちを抱きながら、レコーディングしたその一曲を民衆は認めてくれたのだ。
私はステージ上の空気をすべて吸い込むほどの大きなブレスをひとつ付き、静かに一途な恋の歌を歌い出した。
場末と呼ぶにはあまりにも相応しい、札幌の南九条通りの一本ススキノ寄りにそのナイトクラブは有った。
3組の生バンドが1時間毎に入れ替わり、その合間に私はソロ歌手として一日2回のステージを務めた。
更には、ゴールデンズとして二人いる生バンドのボーカルの女の子とユニットを組み、スリーディグリーズやシュープリーモス、或いはオールディーズのアップテンポのダンスミュージックを歌っていた。
ステージの前にはダンスフロアが有り、お客との距離も近い。
ソシアルダンスの上級者が集うこの店も、今では閑古鳥が鳴くほどのさびれようだ。
たった1組の酔客のために、力の入らないダレた歌を披露することも、今では珍しいことでなかった。
このススキノで近藤むつみと言えば少しは名前の売れた歌い手のつもりでいた。
しかし…時代はダンスホールやナイトクラブからディスコやクラブへと変わり、生バンドや生歌を聴かせる店は瞬く間に姿を消した。
私は、気がつけば30も半ばを迎え、近い将来を選択しなければいけない年頃へとなっていた。
華やかな歌い手…ディーバを目指し、矢沢永吉の「トラベリンバス」よろしく、ルイジアナ、テネシー、シカゴ、ロサンゼルスとアメリカのライブハウスをバックパックを背負いながら渡り歩いた日が遠い昔のように思える。
午前3時…この店「エアポート93」の営業時間が終わる。
午前0時になる頃最後の客が帰り、2時半のラストオーダーの時間が過ぎ控えのバンドのメンバーも帰路へついた。
私はその控室で今現在の恋の相手、カルティエのバンマス東雅樹と向かい合っていた。
そして今夜…私はこの男との将来も考え直すべき理由に頭を悩ませていた。
「ねえ、雅樹」
ギブソンのレスポールの弦を張り替えていた東に私は声を掛けた。
「ん?」
音叉を耳に当てながらギターの音を合わせている東が返事をした。
「聞きたいことがあるんだけど」
私は言った。
「これ終わってからで良いかな」
東の答えに私は苛立ちを覚える。
今から私が聞こうとしていることは、それだけ優先されるべきことだと私が思っているからだ。
「そんなの後にして今聞いてよ」
私の声が尖った。
やれやれと言う顔でため息を一つ吐き、東がレスポールを脇に退けた。
「なんだよ」
機嫌をそこねた時の東の声…。
「雅樹さ、レイちゃんと何かあった?」
私の問い掛けに東がギョッとした顔をする。
その顔だけで答えなど聞く必要もない。
「あ、ある訳ないだろ…普通に考えて…いくら俺でも自分の彼女と同じユニットで歌ってる女には手を出さないよ」
狼狽える東を見て、私の気持ちは急速に冷めて行く。
「レイちゃんのマンションの駐車場に、雅樹の車が停まってるのを何人も見てるのよ」
「俺の車って、日本中に俺とおんなじ車が何台あると思ってるんだよ」
そう言って東は開き直った。
「少なくともこのススキノで、リンカーンのカルティエ仕様の車は私は雅樹しか知らないわ…それもナンバーが5番のね」
リンカーンコンチネンタルマークⅤカルティエ仕様…。
ナンバーはマークⅤに因んで「5」番を付けていた。
東が何よりも大切にしている彼自慢の愛車だ。
初めにその噂を聞いたのはひと月も前のことだった。
たった今東が言ったように、いくら女癖の悪い彼でも、自分の彼女と同じユニットで歌っている同僚に手を出すなんてある訳がないと私は思っていた。
しかし…三度別々の知人から同じことを聞かされると、いくら鈍感な私でも「もしや…」という気持ちになる。
自分の目で確かめるしかないと思った。
店の帰り道、玲子が住む中島公園の横にある大きなマンションの駐車場をのぞいてみた。
駐車場の一番奥まった場所に、東のリンカーンは隠れるように停まっていた。
「いつの話だよ」
男とはどうしてこうも馬鹿なのだろう。
初めから潔く認めるなら「気の迷い」と、一度くらいなら許してあげることも出来るのに。
散々シラを切り通した後、最後に認めてごめんなさいをするほどみっともないことは無い。
その瞬間に女は男に対する尊敬の念が薄れ、気持ちも離れてしまうのだ。
「昨日…て言うより今朝かな」
「どこの誰がそんなこと言ってんだよ」
「聞きたい?」
「ああ、聞いてみたいねぇ」
「そう…じゃあ教えてあげる……」
私は東の目をじっと見つめ一呼吸置いた後、お腹に力を込め腹式呼吸で次の言葉を一気に吐き出した。
「この私がこの目で見たのよ」
途端に東の顔が青ざめる。
「あぁ…えっとぉ…あれ?誰だったかな?」
「何が?」
「いやな、車を貸したんだよ…貸したって言うか、預かってもらったのかな…飲みすぎちゃって…うん、そうそう…義雄だったかな…うちのベースの」
苦しそうな東の言い訳。
「よっちゃんに車を預けるとどうしてレイちゃんのマンションの駐車場に車が停まるの?よっちゃんの家って平岸じゃない」
平岸は札幌の街を縦断する豊平川を挟み、中島公園とは対岸の街だ。
「それはアレだな…義雄に聞いてみないと分からないな…」
どこまでもシラを切ろうとする東に、私はゲンナリとする。
それと同時に、これ以上関係を続けていくのは無理なのだ…と言う思いが確信に変わっていく。
私は言葉もなく、ただ東の顔を力のこもった目で見つめていた。
「なんだよ、疑ってるのかよ」
開き直る東…。
「疑ってるんじゃなくて、あなたの言動や行動に信じられるものがないだけよ」
「そこまで言うなら明日でも二人に聞いてみろよ」
「ええそうするわ、たった今ね」
「えっ、今?」
狼狽える東…。
「もちろん今すぐよ」
口裏を合わせる時間など与えるものか…そう私は思っていた。
「今はやめろよ」
「どうして?」
「いや、時間も時間だしよ」
「雅樹さ、私たちいつもは夜中の3時まで働いてるのよ。普通の人ならアフターファイブの時間帯じゃない。別に電話くらいなら非常識だとは思わないわ」
「そりゃそうかもしれないけどさ…むっちゃん、ちょっと冷静になろうよ」
東の言葉が哀願に変わっていく。
「認めるの?」
「何が?」
「何がって、今自分が何を聞かれてるのかも分からないの?」
もう答えなんか要らない…そう思った時、東がヘラヘラと笑いながら答えた。
「ほらっ、むっちゃんも知ってる通りさ、俺の場合酔っ払うと人格がなくなるって言うかさ、下半身は別物って言うか…ね、分かるじゃん」
言うに事欠いて…許せない…その思いが爆発した時、私の右手にはハイヒールが握られていた。
思い切り東に向かって投げつけた。
東はそのハイヒールを首をすくめてかわした。
もう片方のハイヒールを脱ぎ手に持った時、東は急いで立ち上がりバンドの控え室から逃げ出した。
私は裸足で東の後を追いかけた。
追いつけなかった。
一階のエントランスに向かう螺旋状の階段の上から、悔し紛れに思い切りハイヒールを東の背中に向かって投げつけた。
「もう終わりだからね」
大声で叫んだ。
どうして私は、こんなくだらない男に5年もの人生を捧げて来たのだろう。
それも妻子のある事を許しながら…。
玲子も玲子だ…私と東の事を知らないわけではないのに。
明日からどんな顔をして同じステージで歌えと言うのだろう。
東に対する愛情などとうに冷めていた。
それでも…それなのに私は悔しくて仕方なかった。
涙が溢れた。
私はその場にしゃがみ込み、膝を抱えて泣いた。
人気の消えた深夜のナイトクラブのエントランスへと向かう螺旋階段の上…。
誰にも遠慮なんていらない。
張り裂けんばかりの大声で泣いた。
この恋に別れをつげたかったから…。
「痛ってぇ…誰だよ」
誰もいないはずの階下から声が聞こえた。
私は口元に手を当て、無理に泣き声を止めてはみたものの、嗚咽までは止めることが出来なかった。
階下からゆっくりと誰かが上がってくる。
私は膝を抱えたままの姿勢でその人が上がってくるのを待った。
私が投げつけたハイヒールがその人に当たってしまったなら、せめて一言謝らなきゃ…。
泣き顔なんて誰にも見られたくないけれど、東に置いて行かれた以上は靴が無ければ帰ることもできない。
「なんだ、むっちゃんですか?いくら女性の靴でも、ハイヒールが直撃するとそこそこ痛いですよ」
声の主は、このナイトクラブ「エアポート93」のヘッドウエーター河野くんだった。
「河野くん…」
爽やかな河野の笑顔に、私は再び泣き声を上げて泣いた。
「取り敢えず何か落ち着くものを作りましょう」
河野はそう言って私をバンドの控え室に連れて行った。
「お酒にして…うんと強いお酒…」
私は控え室を出て行く河野の背中に声を掛けた。