1-6 怯えるカタワク
堅枠大がベッドの上で固まってからかなりの時間が経ち、いつの間にか夕焼け空が窓の外に見える時間帯になっていた。
マッコウはテーブルでなにやら書き物をしていた。彼は夕方になったことに気付くと、ペンを置いて立ち上がり、堅枠大のベッドに近づいた。
いまだ体育座りで震える堅枠大に対し、マッコウは背中越しに声をかける。
「おーい、そろそろ夕食の時間だぞ。一緒に食いに行こうぜ!」
「いらない。腹減ってない」
明るいマッコウとは対照的に、堅枠大の声は暗いままだった。
「食わねえと体壊すぜー?」
「今日はいい。食欲ない」
マッコウは能天気な声を出しつつも堅枠大の心配をする。だが、堅枠大は首を横に振るだけだった。
今の堅枠大には、マッコウの心遣いを受け取る余裕などまったくなかった。心のほぼすべてが奴隷労働に囚われていたからだ。
マッコウは両手を腰に当てて静かに息を吐いた。
「まあ、そういうことなら、オレは一人で食いに行きますかね、っと」
彼は明るい声でそう言って、部屋から出ていった。
同居人がいなくなったことで、部屋の中が急に静かになった。聞こえるのは自分の呼吸音のみ。
そんな状況でも、堅枠大は何も言わず、つらい労働の日々を思い返しながら、ただただベッドの上で震え続けた。
さらに時間が経ち、日が沈んで部屋が暗くなった。
堅枠大がベッドで縮こまっていると、扉が開く音がした。それから部屋が明るくなる。彼が後ろを向くと、天井に付いている円盤状の物が白い光を放っているのが見えた。
それがどのような原理で動いているのかはわからないが、外見は現代の電灯に似ている。だが、その光源はどう見ても石で出来ている。昼間見たときには、ただの質素な飾り程度にしか思えなかった。
深く考えてもわからないので、堅枠大は光る円盤から目を逸らした。
彼は入り口を見る。マッコウが部屋に戻ってきていた。
堅枠大は同居人の帰宅に対して何も思わず、また壁を向いて縮こまった。
「カタワク、風呂行こうぜ!」
背後からマッコウの声が聞こえた。
彼は威勢よく誘うが、堅枠大の答えは勧誘される前からすでに決まっていた。
「いい。風呂入る元気ない」
「汗くらい流しておかないと臭くなるぜ?」
暗い声で即答した堅枠大に、マッコウはおどけたように忠告をする。だが、軽く脅された程度で、その重い腰が上がるはずもなかった。
「一日くらい入らなくてもたいしたことない」
「ふーん? じゃあ、今日も一人で入りに行きますか!」
マッコウは勧誘を早々に切り上げ、ベッドの下から着替えや木製の湯桶を取り出して、部屋から出ていった。
堅枠大はマッコウが深追いしてこないことに少しだけ感謝しながら、顔を膝にうずくめるのだった。
夜が深まり、マッコウが戻って来た。
彼はバスローブのような白い服を着て、木桶をわきに抱えている。その姿のまま、彼は堅枠大のそばに歩み寄った。
「カタワク、もう寝ようぜ!」
「いい。まだ眠くない」
今から眠るとは思えないほど元気な声だったが、堅枠大はまたしても腑抜けな声で即答した。
「寝ないと明日の仕事に響くぜ?」
「寝れないときだってある」
「ふーん? まあ、いっか。おやすみー!」
マッコウは堅枠大から離れ、荷物を素早く片付けてから部屋の入り口付近に向かった。
明かりが消え、部屋が暗くなる。窓から街の光が少しだけ入ってくるため、照明が無くても部屋の様子はうっすらと視認できる。
マッコウはベッドに直行し、数分も経たないうちに眠りについた。
後ろから聞こえてくるマッコウの寝息を、堅枠大は鬱陶しく感じた。しかし、すぐに慣れて何とも思わなくなった。
堅枠大はスーツ姿で縮こまったまま、時の流れに抗ってみた。
時間よ止まれ、と彼は何度も念じたが、時間は彼を無視してどんどん進んでいく。
現代日本で労働していたときは何よりも睡眠を欲していたのに、今はまったく眠くなかった。そうなるほどに、眠って朝が来てしまうのが怖かった。
知らない土地で奴隷労働に従事するのが本気で嫌だった。
(頼む……これが夢であってくれ、頼む! 起きたら即、永遠の眠りにつかせてくれ、頼む!)
堅枠大は一晩中そう祈り続けた。
極度の怯えからか、彼はトイレに行きたいとすら思えなかった。
そして結局、堅枠大は眠らないまま朝を迎えてしまったのだった。
彼が後ろに体を向けると、窓から日光が差し込んでいるのが見えた。テーブルの向こう側には、呑気に眠り続けている同居人の奴隷マッコウもいる。
鳥のさえずりが外から聞こえ、新しい一日の始まりを強制的に感じさせられる。
堅枠大は頬を軽くつねってみたが、やはり何も起こらなかった。
「ああ、これは夢じゃないんだ。現実じゃないんだ。来世に期待した俺がバカだった。来世も奴隷だったわ、ハハッ……」
彼は諦めの境地に達しかけたが、それを遮るかのように怒りが湧いてきた。
自らの運命を呪い、彼はベッドに両拳を叩き落とす。
「転生しても奴隷かよクソォ!」
堅枠大の怒声とともにベッドが軋む。
それが目覚ましとなったのか、マッコウがゆっくりと起き上がった。
「んー? ああ? 誰だお前ぇ? ……って、昨日新しい相棒が来たんだっけ? ……そう、カタワクだ」
彼は寝ぼけた声を出しながら半開きの目を擦る。
そして、マッコウは堅枠大を数秒間眺めた後、その目を全開にした。マッコウはベッドから飛び降りると、背筋をまっすぐにして立ち、両手を横に大きく広げる。
「おはよう! カタワク! 昨日はよく眠れたかい!?」
マッコウは寝起きからハイテンションだった。
だが、同居人の元気な姿だけでは、堅枠大の心は晴れなかった。
「いや、全然」
「はは……そっかー。まあ、無理はしないようにな……ああ、仕事用の服はベッドの下にあるから、着替えて顔洗って朝メシ行こうぜ」
マッコウは声の明るさを少し落として、堅枠大に笑いかける。
堅枠大は「了解」とだけ返事をして、ベッドから下りて同居人から言われたとおりに服を探した。
ベッドの下には引き出し付きの木箱が三つあり、その中には青色のズボン、白色の七分袖シャツ、黒色のベルト、黒色の布靴、黒色の靴下がそれぞれサイズ別に入っていた。
堅枠大は中程度のサイズを選び、着替えた。ズボンは硬い布で出来ているが横幅が若干緩いため動きやすい。シャツは街で見た庶民の服と同様に襟元や袖口は緩いが、七分袖なのでこちらも動作はしやすそうだ。
靴下はくるぶしの上までの長さで、足首後ろの部分に止め金が三つあった。構造的には足袋に近く、素材の布は柔らかい。布靴も機能性を重視しているのか、分厚いわりにかなりの柔軟性があった。
堅枠大は着替え終え、後ろを向く。
マッコウはすでに着替え終わっていて、準備体操のようなことをしていた。
「お、着替え終わったか。じゃあ、まずはトイレと洗面所だな!」
マッコウは威勢よくそう言って、堅枠大を部屋から連れ出した。
部屋の鍵を閉め、二階の廊下を歩く。
最初に着いたのはトイレだった。
陶器の白い小便器が四つ並んでいて、その向かい側には個室が四か所ある。小便器は足元から胸元までの高さがあり、正面だけを切り抜いた直方体のような形。個室のトイレは円柱の上面を切り抜いたような形で、便座とフタはあるが水タンクは無い。
現代のものと基本的には変わらないが、小便器のすぐ上の壁と大便器の横の壁には手形模様を刻んだ青い石板が張り付けられている。
入り口にいるだけの堅枠大には、このトイレが水洗式なのかどうかはわからなかった。現時点で分かるのは、トイレ内には臭いも無く、全体的に清潔感があるということ。それに加えて、手洗い場らしき箇所が入り口付近にあることから、ここの住人は衛生面に気を使っているということも察しが付く。
そんなことを堅枠大が考えていると、マッコウが一番奥の小便器の前に立った。
堅枠大は手前から二番目のところに立ち、同居人の様子を伺いながら用を足すことにした。
マッコウは用を足し終えると、便器上の石板に左手を添えた。すると、水が流れるような音がした。
堅枠大も彼の真似をして、左手を石板に当ててみた。その直後、体から少しだけ力が抜けたかと思うと、適量の水が便器内を洗い流して下の排水口へと消えていった。
(な、なんだこれは? どういう仕組みなんだ? 中世ヨーロッパ風の世界のわりにハイテクすぎないか?)
堅枠大はトイレ陶器の前で困惑した。
そうしているうちに、マッコウは手洗い場へと移動し、四つのうち最も入り口に近い蛇口の前に立った。
彼は蛇口横に置かれている石板に左手をかざす。すると、蛇口から無色透明な水が出始めた。マッコウはその水で両手を丁寧に洗い、彼が蛇口から手を離すと水は自然と止まった。
マッコウはその後、ドア横の壁に設置されている縦長の石箱へと向かった。彼がその箱に上から両手を入れると、箱の内部がわずかに赤く光った。それから数秒後には光は消え、マッコウは石箱から手を抜く。その手に水滴はついていなかった。
堅枠大はまたしても同居人の真似をしてみた。
蛇口横の石板に手をかざしても、ドア横の石箱に手を入れても、体からほんの少しだけ力が抜けたような感覚がした。それでも、しっかりと手は洗え、乾燥までできた。
(な、なんなんだ、ここは……ハイテクすぎて怪しいんだが……電気はどう見ても通ってないよな? それに、この力が抜ける感覚はいったい? わけがわからない)
堅枠大は困惑で顔を歪めながらも、マッコウの後に続いてトイレから出た。
次に二人は洗面所に向かった。
独立した陶器製の洗面台が五つあり、その向かい側には石で出来た円柱状の物がある。円柱状の物はへそくらいの高さで、ふたの部分には手形の模様が描かれている。
堅枠大は円柱状の物を無視し、洗面台の前に立った。
彼が一番奥で、マッコウが真ん中。堅枠大はマッコウの真似をしながら洗顔やうがいをおこなった。もちろんここでも、トイレと同じく石板に手を置くことによって蛇口から綺麗な水を流すことができた。
顔や手を拭くときは備え付けの紙タオルを使った。
堅枠大はマッコウと並んで洗面所を出る。
(いったい、どうなってるんだ? なんでひねる場所が無いのに水が出るんだ? 水はどこから来て、どこに行ってるんだ? 動力源はなんだ? わけがわからん)
堅枠大は二階の廊下を歩きながら考えてみた。だが、この世界のことを何も知らない彼が、答えにたどり着けるわけがなかった。
彼は考えるのを止め、マッコウとともに一階へと向かった。