2-4 癒しのひと時
そうして、リサの研究室には堅枠大とクーディの二人だけが残された。堅枠大はベッドに仰向けになったままで、クーディは椅子に座って彼に体を向けている。
急に静かになったせいで、堅枠大は落ちつかなかった。
彼は何を話せばいいのかわからなかった。気持ちの整理ができなかった。自分が騒動の原因になってしまったということで、頭がいっぱいだった。ネガティブな気分になりかけた。
だが、そうなってしまう直前に、クーディが堅枠大に微笑みかけた。
「大変なことになったわね」
彼女の声は優しかった。
それは、同情するものでもなく、状況を悲観するものでもなく、ただ現状を受け止めて相手の心に歩み寄ろうとする声だった。
クーディ医師の柔らかな雰囲気に、堅枠大は救われた気がした。
「すみません。クーディ先生は休みの日なのに」
彼はクーディに微笑み返す。
彼女のおかげで、堅枠大は他人に気を使えるだけの余裕を取り戻せた。今日はクーディにとって、週に一度の完全な休日。そんな貴重な日を自分のために使わせてしまって申し訳ないと、堅枠大は心の底から思った。
そんな彼の言葉に、クーディは首を左右に小さく振った。
「いいのよ。近くで助けを求める声が聞こえたから向かっただけ。そして、その先にカタワクさんがいた。それだけのことよ。まあ、休みの日でもそうしてしまうのは、医者の性ってものかしらね」
クーディは柔らかな表情のまま苦笑する。
その顔には、医師としてのクーディと個人としてのクーディが同じ程度に表れていた。
彼女のそんな姿が微笑ましく思えて、堅枠大は目を細める。
「そう、ですか……でも、ありがとうございます。おかげで助かりました。アスラさんとリサさんにも改めてお礼をしないといけませんね」
「あの二人のことは心配しなくてもいいわよ。二人とも非常時要員なんだから、これもれっきとした仕事よ。お礼って言っても、最低限のことだけでいいと思うわ。しかも、今回は自分の意思でやっているみたいだしね」
クーディは微笑みを崩さずに、研究室の出口へと目を向ける。
彼女の視線の先には誰もいない。だが、彼女の頭には、問題解決に向けて動いているアスラとリサの姿が思い浮かんでいた。
そして彼女と同じように、堅枠大も二人が奮闘する姿を想像した。
「頼もしいですね、アスラさんも、リサさんも、それからクーディ先生も。俺なんか、パパッと仕事してちょっとだけ勉強して、あとは遊んでるだけなのに。それなのにこんな迷惑かけて、なんだか物凄く申し訳なくなってきました……」
彼は天井を眺めながら、ぼやく。
その言葉は独り言でもあり、クーディ医師に向けてのものでもあった。この医師になら、自分の弱いところを見せてもいい。堅枠大はそんな気持ちになっていた。
彼の独り言は、クーディの耳にもしっかりと届いていた。
彼女はゆっくりと堅枠大に向き直り、その目を優しく見つめる。
「気にしなくていいのよ。私たちは私たちにできる仕事をしているだけだもの。むしろ、こういう時のために私たちがいるんだから」
クーディの声は柔らかなものだったが、その言葉には芯のある強さが宿っていた。それが自分に与えられた役割なのだと、自分がやるべきことなのだと。そのような使命感と誇りが、彼女の言葉から感じられた。
そこでようやく、堅枠大は肩の力を抜けた気がした。
「そう言ってもらえて、少し気が楽になりました」
彼は頬を緩めて、クーディの目を見つめ返す。
助けてもらったことを気に病む必要はない。水路凍結の原因が自分かもしれないということに罪悪感を抱く必要もない。そうなってしまったものはしょうがない。そう思えただけでも、彼の心は軽くなった。
だが、すぐに別の心配事が浮かんできた。
「俺、これからどうなるんでしょう……」
堅枠大は白い天井を見て、小さく息を吐く。
命を失うようなことは無かったとはいえ、体には明らかな変化が起こっている。体内の魔力が飛躍的に増大し、それらの大半が左手に流れ込んでいるというのは、堅枠大自身にも感じ取れていた。
左手にだけ、氷魔法の力が勝手に発動している。このままでは、自分は触れただけで物を凍らせてしまうという厄介な存在になる。これでは、水運奴隷の仕事どころかそれ以外の日常生活すらまともに行えない。
未来のことを考えれば考えるほど、不安が大きくなっていく。
それを遮るかのように、クーディは堅枠大の左手を被膜越しに両手で包み込んだ。
「そんなに心配することは無いわ。私たちがなんとかするから。だから、カタワクさんは安心して身を任せて。私たちは……いいえ。この国、ヒューライ国は、決してあなたを見捨てたりはしないから」
彼女は優しい声で、それでいて真剣な目を堅枠大に向ける。
堅枠大はクーディの後ろにアスラとリサの姿を思い描いた。それだけでなく、顔の知らない人たちの姿も自然と見えてきた。
今、多くの王宮関係者が自分のために動いてくれている。そして、クーディはその代表者となって、自分を励ましてくれている。
そう思うと、堅枠大は嬉しくて泣きそうになった。
「ありがとう、ございます……」
必死に涙を堪えながら彼はそう言って、自分の身を専門家たちに託した。
これ以上喋ると本当に泣いてしまいそうだった。また、言葉をかけられても涙が溢れてしまいそうだった。
堅枠大は口を閉ざし、ただ天井を眺めた。
クーディも彼の心情を察し、黙って見守ることにした。
それから数分経つと、堅枠大の気持ちも落ち着いてきた。だが、また別の問題が牙を剥いてきた。
頭痛と軽い吐き気。二日酔いだ。
「うえぇ……気持ちわる……」
彼は堪らず声を漏らした。
吐くほどではないが、胃から食道にかけての不快感は大きい。頭痛もひどくなってきて、視界が揺れるかのような感覚に襲われる。
堅枠大が顔を歪めるのを見て、クーディは表情を引き締めた。
「そういえば、カタワクさんは昨日の夜に職場の飲み会があったって言っていたわよね?」
「は、はい。調子に乗って、飲みすぎました……」
堅枠大は昨夜のどんちゃん騒ぎを思い出しながら、正直に言う。
それを聞いて、クーディは柔らかい笑みを浮かべた。
「それなら、とりあえずは治せるところを治しておきましょうか。その状態で待つのはつらいでしょうし。二日酔いを軽くして、それから消耗した魔力を少し回復させるくらいなら問題なさそうだから」
「お、お願いします……」
「はーい。じゃあ、動かないでくださいねー」
クーディは両手で堅枠大の体に触れる。
頭、肩、腕、手、胸、腹、腰、脚、足の裏、と手で触っていき、体内に微弱な魔力を流し込みながら体を診る。それが終わると、彼女は堅枠大の腹に両手を重ねて置いた。正確に言えば、へそより少し下の部分だ。
「やっぱり、魔力の流れが乱れているわね。そこに、お酒のダメージが加わって、症状が少し強くなっているみたいね」
クーディはそう言って、深呼吸をする。
彼女は目を閉じて精神を集中させ、両手に魔力を込めた。
「癒しの力よ、この者の体を回復させよ」
クーディは短く唱える。
すると、堅枠大の全身が緑色の光に包まれた。クーディから送られた魔力が彼の体を流れる。その魔力はアルコールによって傷ついた部分を癒し、水路凍結騒動で消耗した魔力を少しだけ回復させていった。
魔法は十秒ほどで終わった。
緑色の光が消えた直後、堅枠大は自分の体が少し楽になったのを感じた。
処置を終え、クーディは彼の腹から両手を離す。彼女は大きく息を吐いて、堅枠大の目を見て微笑んだ。
「とりあえずは、こんなものかしらね。完全に治ったわけじゃないから、あとは水を飲んだり栄養のあるものを食べたりして、自分で体を癒すのよ」
「はい。ありがとうございます」
堅枠大の声には、少しだけ元気が戻っていた。
クーディは安心したように小さく頷く。
「うん、いい返事ね。でも、これからどうなるかはわからないから、今は安静にして準備が整うのを待ちましょ」
「そうですね。わかりました」
堅枠大は彼女の指示に従い、仰向けのまま目を閉じた。
だが、体が回復したせいか、眠気などまったく感じなかった。彼は仕方なく目を開けて天井を眺め、時の流れを静かに待つ。
そうしていると、ふと、堅枠大の頭にリサの姿が思い浮かんだ。
彼はクーディに目を向け、彼女に話しかける。
「あの、少し気になる事があるんですけど……リサさんって、不機嫌そうにしているのに、なんだかんだ言って俺のことを助けてくれましたよね。今日のことも、それから俺がこの国に来たときも。それってやっぱり、仕事だからですか?」
堅枠大はリサのことが気がかりだった。長い詠唱を必要とする翻訳魔法といい、魔力のほとんどを使っての救助といい、彼女は高い技術と大きな気力が必要なことをやってのけた。
もしそれが仕事として嫌々やったことなのであれば、堅枠大はリサに対して非常に申し訳ない気持ちを抱かざるを得ない。
そんな彼の問いに、クーディは首を小さく横に振った。
「仕事だからっていうのはもちろんあるけど、それ以上にあの子は魔法と人助けが好きなのよ。昔からそうだったわ。口は悪いし、いつも怖い顔をしているけど、根は誰よりも優しいの。私とリサは同じ村の出身だから、よく知っているわ」
「そうだったんですか」
クーディの言葉に、堅枠大は驚きの声を漏らす。
「でも、昔は近所に住んでいたこともあって、お姉ちゃんお姉ちゃんって甘えてきてかわいいところもあったのよ~。はぁ、あの頃が懐かしいわ」
彼女は大きくため息をつき、右手を自分の頬に添える。
今のリサを残念がるようなその表情からは、医師としてのクーディを微塵も感じられなかった。
(そういえば、アスラさんも、リサさんも、クーディ先生も、何歳なのか知らないな)
堅枠大は唐突に彼女たちの年齢を尋ねたくなった。
医師モードではないクーディなら答えてくれるだろうと思ったが、年齢を訊くのは失礼だとすぐに思い直した。
だが、口が開きかけていたので、彼は代わりに別のことを話すことにした。
「リサさんは国家魔法士で優秀な研究員。クーディ先生は国家医師。二人とも、頭がよかったんですね」
「うーん、私はどうだか知らないけど、リサはそんなことなかったわよ。むしろ、昔は義務教育期間を二年延長するくらいの落ちこぼれだったのよ」
クーディは首を傾げながら苦笑いをする。
彼女の意外な言葉に、堅枠大は驚きを隠せなかった。
「そうだったんですか!? でも、リサさんは、そんなふうには全然見えないですよ」
「留年した後、あの子はあの子なりに頑張ったのよ。魔法だけは得意だったから、魔法の力を伸ばせるだけ伸ばして、苦手な勉学は学校の先生に付きっきりで教えてもらいながら必死に努力して義務教育学校を卒業して、その後は気づけば高等教養学校も魔法大学校も首席で卒業していたわ」
クーディは遠い目をしながら話を続ける。
「卒業後は軍役を断って、魔法研究員になってからは限られた時間の中で頑張って、成果が認められて自由研究員になって、非常時要員も引き受けて。まあ、魔法で人の役に立ちたいという思いがそれだけ強かったのでしょうね」
どこか誇らしげな笑みを浮かべながら、クーディは小さく息をつく。
堅枠大はリサが努力家だということを知り、彼女に対して抱いていた小さな不快感や魔法の天才だという偏見が消えていくのを感じた。
同時に、彼の中でリサに対する尊敬の念が大きくなっていった。
「そうなんですか……なんだか、羨ましいです。それだけの想いを、自分の意思で持てるなんて」
「そんなことないわよ。カタワクさんだって、水運奴隷としてこの国の物資輸送を支えている。気づいていないだけで、誰もが何かしらの役割を持って誰かの役に立っている。もしかしたらカタワクさんも、リサのように強い意思を持つ日が来るかもしれないわよ」
クーディは堅枠大の目を見つめて微笑む。
彼はここで、この医師がいつか言った言葉を思い出した。流されていいのだと。彼女の助言通り、堅枠大は流されるままにこの四か月を過ごしてきた。
だが、リサのように強固な意志を持って人生を送ってきた人間を見て、自分はこのままでいいのだろうかと彼は思ってしまった。その反面、これまでの約三十年間を流されるまま生きてきた自分が、今さらそんな強い意志を持てるはずもないという諦めの気持ちもあった。
「そんな日、来るんですかね」
「さあ、どうかしらね」
堅枠大の達観したような言葉を、クーディは曖昧な笑みで受け流す。
彼女は肯定も否定もしなかった。しかし、その曖昧さが今の堅枠大にとっては救いだった。今日起こった出来事のように、人生はどうなるかわからない。そう思い直せたことで、卑屈になりかけていた彼の心が平常に戻っていった。
クーディはここで、椅子に座ったまま背伸びをした。
高く挙がった彼女の両手が元の位置に下りる。彼女の口から心地よさそうな吐息が漏れ、この場の空気が一気に緩む。
「でも、いいわねえ、自由研究員って。国からお金を貰えるだけ貰って、研究内容は自分で自由に決められて、研究の時間も自由で、報告義務は研究終了時の一回だけしかなくて……あー、いいわねえ。私もお金持ちから支援を受けてフリーの医療研究者にでもなろうかしら」
クーディは唐突にそんなことを言い出した。
愚痴にもとれるその言葉に、堅枠大は目を丸くする。
「先生……この仕事嫌なんですか?」
「冗談よ、冗談。私だってこの仕事に誇りとやりがいを持っているもの。休みも給料もたくさんあるし、仕事内容に自由が少なくても不満なんかほとんど無いわ」
クーディはおどけたように笑って手を小さく横に振る。
彼女の言動に、堅枠大は少し可笑しくなって口元を上げた。
「ははっ……冗談でよかった」
「冗談にしてはちょっと下手すぎたかしらね……あーあ、ちょっと喋り過ぎちゃったわね。この話のことは、リサには内緒よ」
「わかってます」
堅枠大とクーディは微笑み合った。
クーディ医師と話したことで、堅枠大は気分が少し楽になった。
もしかしたら、彼女は医師モードを解いたふりをして自分をリラックスさせてくれたのかもしれない。緩んだ顔のクーディを見ながら、堅枠大はそう思った。




