2-1 非日常の幕開け
浅い眠りを終え、堅枠大は目を覚ました。
「いてててて……頭痛い……気持ち悪い……うぅ、二日酔いかぁ……セーブしたつもりだったけど、飲み過ぎたか……」
彼は目を閉じたまま、軽い吐き気を感じながら周囲の音を聞く。
今の街には、いつもとは違う騒がしさがあった。それもそのはず、今日は日曜日。一週間の中で、休んでいる人の数が最も多い日。平日とは違う雰囲気があって当たり前だ。
だが、いつもの日曜日とは何か様子が違っていた。周囲から驚いたような声が聞こえて騒がしい。それなのに、水路からは波打つ音などは一切聞こえてこない。
何かが変だ。
堅枠大はそう思って、起き上がろうとした。
しかし、左手が動かなかった。両足と右手は自由に動かせるのに、左手だけが何かに囚われたかのようにビクともしなかった。
彼はうっすらと目を開けたが、視界がぼんやりとしていて何が起こっているのかはわからなかった。
それでも、はっきりとわかることがあった。夏の朝にしては寒い。特に、左腕はまるで氷に埋まっているかのように冷たく感じた。
時間が経つにつれ、視界がはっきりしてくる。
彼の目に映ったのは、石畳の地面だった。
「あれ? ここ、外か? ああ……昨日、ここでそのまま寝ちゃったのか」
昨夜の記憶が甦り、堅枠大は腹に感じていた堅い感触について納得した。昨夜は柔らかいベッドから下りて夜風を浴びに行き、水路のそばでうつ伏せになったのだった。
そう考えているうちに、彼の視界が明瞭になった。
堅枠大は覚めた目で対岸を見上げる。
街の人々は水路のそばに集まり、身を乗り出すようにして水面を覗き込んでいる。次第に見物人の数は増え、周辺はさらに騒がしくなっていく。
「ん? なんかいるのかな……?」
堅枠大も街の人々と同じように、水路に目を向けた。珍しい生き物でも迷い込んできたのかと、彼は思った。
「って、ええええええええええええええええええっ!?」
水面を見た瞬間、堅枠大は驚愕のあまり大声を上げてしまった。
目の前の水が凍っていた。そして、その氷の中に彼の左手が埋もれていた。それだけではない。水路全体が極寒の氷河のように凍り付いていたのだ。
堅枠大は日曜の街が大騒ぎになっている理由を察すると同時に、自分の身に起こっている危機を悟った。
「助けて! 誰か! 誰か助けてください! 手が! 手が氷に! 助けて! 誰か!」
彼は必死に叫んだ。
このままでは左手が壊死してしまうだけでなく、全身が冷えて死んでしまうかもしれなかった。
堅枠大は半ばパニック状態に陥り、左手を氷から引き抜こうとした。両足と右手で踏ん張りながら、痛みを我慢して何度も左手を抜こうと試みる。しかし、左手はまったく動かなかった。
彼は左腕を引っ張るのと同時に、助けを求めて叫び続けた。
すると、小太りの中年男性が階段を駆け下りてきた。
「待ってな! 兄ちゃん! 俺が火の魔法で助けてやるから。おーい! 火の魔法が使えるひとー! いたら水路を溶かすのを手伝ってくれー! 兄ちゃんの手が氷に埋まっちまってるんだー!」
中年男性は周囲に呼びかけながら、堅枠大に寄り添った。
「大丈夫だ、兄ちゃん。今、皆で助けてやるから」
「あ、ありがとうございます……っ!」
中年男性に優しく声をかけられ、堅枠大はわずかながらも冷静さを取り戻した。無暗に左手を動かしてしまっては危険だと思い、堅枠大は力を抜いてうつ伏せになる。
観衆のうちの十人ほどが中年男性の呼びかけに応え、駆け寄ってきた。
「わたし、少しくらいなら使えるよ! 手伝うわ!」
「僕も! おじちゃんを助けなきゃ!」
その中には若い女性や十歳にも満たない男の子の姿もあった。
集まってきた火魔法の使い手たちは中年男性の指示に従い、堅枠大から距離を取った。そして、水路に向けて一斉に火を放つ。
人々の両手から炎が伸び、氷の表面に当たる。その熱で氷は一時的に溶けるが、またすぐに氷へと戻ってしまう。水面が再び凍り付くと同時に、堅枠大の体から力が抜けていった。
火魔法の使い手たちは何度も氷を溶かそうと試みた。市民も堅枠大も炎から伝わってくる熱さに耐えた。
しかし、どれだけやっても、水はすぐに氷へと変わった。堅枠大の左手周辺に至っては、どれだけ火を当てても氷が溶けるということすら起こらなかった。
中年男性は堅枠大の一番近くにいた。
救助すべき人に不安を感じさせまいと、その男性は勇敢な表情を取り繕っていた。しかし、時間が経つにつれてその表情にも焦りが浮かび始めた。
「どうなってるんだ、溶かしたそばから凍っちまう……おい! 兄ちゃん! 大丈夫か! 顔色が悪いぞ!」
「だ、大丈夫です。俺のことは心配いりませんから、もっと近くで燃やしてください……そのほうが、溶ける可能性も高いです」
もはや、堅枠大がこの場で一番冷静になっていた。
中年男性は彼を叱りつけるかのように言葉を返す。
「ダメだ! そんなことをしたら兄ちゃんが丸焼きになっちまう! ああ、もう、どうすればいい!」
その男性は焦燥感を隠し切れず、頭をかきむしった。
しかしその数秒後、男性は頭を左右に激しく振って自らを奮い立たせた。
「みんな! とにかく火を使って溶かし続けるんだ! そのうち水に戻るかもしれない!」
彼の言葉に応え、火魔法の使い手たちは救助活動を続けた。
いつしか堅枠大の周りには人だかりができ、街で最も騒がしい場所となっていた。救助を試みる者、それを応援する者、ただ見る者、助けを呼びに行く者。いろいろな人間がそこには集まっていた。
そして、この場所に向けて走る二人の姿があった。
水色の服の上に白衣を着た女性と、白いローブ姿の小柄な女性。国家医師のクーディと、国家魔法士のリサだ。二人はそれぞれ別方向から駆けつけた。
二人に続き、金色長髪の黒服女性が建物を跳び越えて現れた。
観衆の一部が空中の彼女を見て声を上げる。
「おお、アスラさんだ!」
「お医者さんと、あれは魔法士か! 助けに来てくれたんだ!」
彼女たちの登場に、見物人がどよめく。
人々の中心にアスラが着地し、クーディとリサが野次馬たちの間をかきわけてアスラのそばに辿り着く。
転生したばかりの堅枠大を助けたあの三人の女性が、この場に再び集結した。