1-1 見知らぬ場所
死んだはずの堅枠大に、意識が戻った。
「んー? 朝か?」
彼はいつものように気だるげに眠りから覚める。
自分の身に起こったことをすっかり忘れ、まぶたを薄っすらと開ける。いつもなら薄暗い部屋と白い天井が視界に入るのだが、今回は真っ青な空が見えた。
それだけならばよかったが、現実はもっと奇妙だった。
数人の男が彼を囲み、その顔を覗き込んでいたのだ。
その男たちは簡素なズボンと長袖シャツを着ている。堅枠大の周辺にいる人々は、外見的には白人に近い。
彼らは心配そうな顔をしながら、堅枠大に話しかけてきた。
「イエ! イエ! ハー、エーマ、ジューブ?」
「ニンナ、ハー、エーマノ、ムーネ? エーマ、ルーワ?」
まったくわからない言語だった。だが、堅枠大には、彼らが自分の身を案じてくれているというのは何となく察しがついていた。
(なんだこりゃ……夢か?)
堅枠大は寝ぼけ眼で男たちの顔を見て、目を閉じた。
そして、もう一度眠ろうとした。
だが、脳の無意識的な部分が、この奇妙な現状に警鐘を鳴らした。
(なんだこりゃ!?)
堅枠大は一気に目を見開いた。それに伴って眠気が消し飛ぶ。
周囲の男たちは心配そうな、それでいて怪訝そうな顔を堅枠大に向けている。男たちは堅枠大には聞き取れない速さで口々に喋っていた。
わけがわからないまま、堅枠大は勢いよく上半身を起こす。
彼が突然動いたことで、周囲の男たちは驚いて一歩下がった。
「なんだ? ここはなんだ?」
堅枠大は現状を掴もうとして、必死に周囲を見渡した。
石畳の道路。そこを行き交う人々。ときおり通る馬車。道路に沿って建物が並んでいて、そのほとんどが二階建てか三階建てで石造り。木で出来た箇所も部分的には存在している。電柱などの現代的なものは一切ない。人々の服装は清潔なズボンとシャツで、現代の物と比べるとサイズが緩い。
現代日本人の堅枠大にとって、なにもかもが見慣れないものばかりだった。
「なんだこのエセ中世ヨーロッパ風の場所は?」
彼は周囲の風景に唖然とした。
目が覚めたらまったく知らない場所に居る。そんな状況では混乱するしかなかった。
堅枠大は首を上下左右に振り、とにかく視覚的情報を得ようとする。
そこで、彼は自分だけ異様な姿でいることに気付いた。
周りが緩い古風な庶民服なのに対し、堅枠大はきつめのスーツ。靴もズボンもジャケットも黒く、ワイシャツにはしわが無く、青色のネクタイは首元を緩やかに締め付けている。この場所では、あまりにも浮いた服装だった。
その証拠に、通行人たちは次々と足を止め、堅枠大を奇怪な目で見ていた。
見知らぬ街で未知の言語が飛び交うなか、注目を浴びている。そんな状況に彼はいてもたってもいられず、立ち上がった。
そして、堅枠大は周辺を走っては止まり、走っては止まるを繰り返した。
「ここはなんだ? これはなんて書いてあるんだ? こいつらはなんて言ってるんだ?」
周囲の人々が彼から距離を置き、不安な表情を浮かべる。
堅枠大は訳が分からなくなり、往来のど真ん中で頭を抱えた。
そのまま青空を見上げ、彼は腹の底から叫ぶ。
「ここは、いったいどこなんだー!!!」
彼の声が街中にこだまする。
堅枠大は肺の中から空気を吐き切るまで叫び声を上げ、声が出なくなった後は空に顔を向けたまま放心状態となった。
それからしばらくして、彼は我に返った。
堅枠大は腰から上を前に倒し、顔を下に向ける。
地面を睨んだ瞬間、自らの身に起こったことが頭の中に甦った。
「いや、待て! 俺はそもそも死んだはずだ。もし死んでなくても、心臓が止まったはずだ。目が覚めるなら病院以外にはありえない。とすると、これは死後の世界か?」
考えたことが口から勝手に出ていく。
堅枠大は自分の言葉を聞き、頭を横に振る。
「いやいや待て待て! 死後の世界に来たとして、なんで中世ヨーロッパ風なんだよ。なんで俺はスーツのままなんだよ。なんでこいつら普通に働いてるんだよ。死後の世界じゃなくてヨーロッパの辺境に放りだされたのか? それこそおかしいだろ?」
考えれば考えるほど訳が分からなくなってくる。
彼は困惑した。
周囲の人々も、彼をどう扱ってよいのかわからず、その場に立ち尽くしていた。
そのとき、どこからともなく澄んだ声が響き渡った。
「ルット、イーガ!」
女性の声だった。
その言葉が聞こえた直後、堅枠大を取り囲んでいた人々が一斉に彼から遠ざかった。
未知の言語だが、女性の言葉は堅枠大にもはっきりと聞き取れた。もちろん、その言葉がどのような意味なのかは彼には分からない。
周囲の人々は声がした方向を見上げている。
堅枠大もそれにつられて彼らと同じところに目を向けた。
すると、建物の向こう側から一つの人影が飛び上がってくるのが見えた。その影はそのまま屋根を飛び越え、群集の上を過ぎ、堅枠大の目の前へと軽やかに降り立った。
その人物は、周囲の人々とはまったく違う雰囲気を持つ女性だった。
彼女の身長は堅枠大とほぼ同じで、体の線はやや細く、肌は雪のように白い。金色の髪は腰まで伸び、一本一本が滑らかな質感をしている。彼女の靴、長ズボン、長袖シャツは黒色で統一されており、服のサイズは現代基準でピッタリ。腰にはオレンジ色の布が巻かれている。そして、服の上からでもふくらみがわかる程度には豊満なバストを彼女は持っていた。
その女性は目鼻立ちの整った顔を堅枠大に向けながら、左腰に差してある銀色の鞘を左手で支える。
堅枠大は彼女を見たまま固まった。
(ひえ~、美人さんだぁ……ん? さっき三階建ての建物を軽々と跳び越えて来たよな? え? どういうこと?)
彼は女性の人間離れした身体能力に驚く。
周囲の人々は彼女の到来に、安心したような表情を浮かべていた。
その金髪女性は一歩詰め寄り、堅枠大の双眸を睨み付けた。
「ショバ、ハー、エーマ、ラーカ!?」
「え!? なになになに!? なんて言っているのかわかりません!」
彼は女性の言葉が聞き取れず、顔を引き攣らせることしかできなかった。
彼女は明らかに堅枠大を怪しんでいる。
そして、黒服の女性は表情をより一層険しくした。それだけでなく、剣の柄に右手をかけ、腰を低くする。
「リッカ、エーマ、ハー、ケモンノ、ポー、ヒューライ……ブージ、イル、キル、エーマ!」
「ひいっ!?」
堅枠大は直感で殺されると思った。
彼は両手を挙げて敵意がない事を必死でアピールする。
「違う! 俺は敵じゃない! 危害を加えるつもりもない! 気づいたらここに居ただけなんだ! 頼む信じてくれ! アイアムジャパニーズ! ウォーシーリーベンレン! だから殺さないで! お願いします!」
言葉が通じないことは百も承知で、彼は命乞いをした。
堅枠大は先ほどの心臓停止では死ぬことに救済を見出していたが、今は命にすがりついている。生物的本能が全開になるほどの危機感があった。
女性は眉をひそめ、彼の全身に視線を行き渡らせる。その後、大きく息を吐いて構えを解いた。
(ほっ……助かった)
堅枠大は両手を下ろし、胸を撫で下ろした。
だが、金髪女性は彼から目を離していない。その視線が再び厳しくなろうとしたため、彼は急いで両手を挙げて敵意がない事を示した。
女性は周囲の人々に近づき、聞き込みのようなことを始めた。
目撃者たちと話している最中にも、彼女は決して堅枠大から目を離さなかった。そのせいで、彼は生きた心地がしなかった。冷や汗が全身を流れる。意識しなければ呼吸が止まってしまいそうな状態で、彼は金髪女性の判断を待った。
彼女は聞き込みを終え、堅枠大に近づいた。
女は左手で彼の右手首を掴む。彼女は険しい表情はしていなかったが、穏和な顔でもなかった。職務中のような凛々しい顔をして、黒服女性は堅枠大に話しかける。
「ウージュ、シーワ」
「え? なに? ウージュ、シーワ? どういう意味?」
彼女の声は比較的穏やかだったが、堅枠大は警戒心と困惑で行動を起こせなかった。どうやら女性は彼をどこかに連れて行こうとしているようだ。しかし、彼は恐怖を感じ、この場から動きたくなかった。
堅枠大は足を踏ん張り、動かないという意思表示をする。
女性は彼の足元を静かに見つめる。それから少しだけ考えるようなそぶりを見せた後、堅枠大を軽々と右肩に担いだ。
彼女は涼しい顔をして、そのまま歩き出す。
周囲の人々が道を開け、彼女は見物人たちに挨拶らしきものをしてこの場を後にする。そこでようやく、堅枠大は自分が何をされているのかを理解した。
「えっ!? あ、ちょっと! なにすんの!?」
「ナー、ズーシ!」
「なにか命令してるのはわかるけど、なんて言ってるのかわかんねーよ!」
「アア! ビーシュ! ナー、ズーシ!」
堅枠大は叫んだり足をバタつかせたりしながら抵抗したが、そのたびに女性に抑えつけられた。
しばらくは互いに通じない言語をぶつけ合っていたが、女性のほうは諦めて途中から何も言わなくなった。
喚く堅枠大を担いだまま、彼女は細い道へと入っていった。