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プロローグ 自分は奴隷

 堅枠大は現代の奴隷だった。


 毎日朝早くから家を出て、電車に詰め込まれて会社に向かい、理不尽な量の仕事を割り振られ、怒鳴られながら夜遅くまで働き、食事はコンビニやファーストフード店で済ませ、真夜中の電車に乗って帰り、家ではシャワーを浴びて眠る。その繰り返し。


 休みはほとんどなかった。休日があったとしても、外出する体力など無く一日中寝ているだけ。彼は三十一歳という年齢でありながら、過重労働によって疲労が抜けない体になり果てていた。


 また、残業代はほとんど支払われず、平均時給は最低賃金を下回っていた。そのため、身を粉にして働いても、その給料は生活費だけでほぼ消えてしまっていた。


 そのような生活が始まってから、もう十年近くが経っていた。

 慢性的な睡眠不足とストレス過多のなか、彼は今日も仕事に向かう。


 満員電車の中、堅枠大は周囲の人間を見渡した。

 誰もかれもが、疲れた顔をしていた。


(まるで奴隷だな)


 彼は心の中でそう呟かざるを得なかった。


 疲労が溜まっているのに、生活のために毎日職場へ行く。しかも、そのほとんどがやりたくない仕事をするのだ。それなのに、生活は少しも豊かにならない。これを奴隷と言わずに何というのだろうか。


 堅枠大はそう思いながら、ふと、電車の窓を見た。

 そこには、周囲の人間と同じ顔をした自分が映っていた。


 顔面蒼白で、まぶたは半開きで、瞳には光が宿っていない。体は電車の動きに合わせて揺れ、右手はすがりつくように吊革を掴んで不安定な体を支えている。背中と首が前に曲がり、今にも倒れそうな様子。そんな平均的体格の男がそこに居た。


 彼は自分の姿を見て力なく笑う。


(そうか。俺も奴隷だよな。どれだけ頑張っても報われないし、給料は上がらないし休みは取れないし、会社はギスギスしてて、寝てない自慢サビ残自慢くらいしかやることないもんな。ははっ、つらい)


 堅枠大は自身を嘲笑した。


 その途端、彼は自分の心音が大きくなるのを感じた。それと同時に呼吸が少し荒くなってくる。


 しかし、彼は体の異変を気にも留めなかった。体に異変が起こるということなど、日常茶飯事だった。いちいち気にしていてはキリがない。


 堅枠大の頭の中は、仕事のことでいっぱいだった。


(仕事行きたくねえ……ずっと電車に乗っていてぇ……ああ、乗り換えまであと二駅か。頼む、着かないでくれ頼む)


 彼は叶うことのない願いを、無機物の電車に向けて必死に唱えた。


 当然、その願いが届くことはなかった。電車は予定通りに線路を進み、次の駅に着く。

 電車のドアが開き、外の雑音が一気になだれ込んでくる。一部の乗客が降り、新たな人間が乗り込む。


 その光景を横目で見ながら、堅枠大は唐突に昔を思い出した。


(子供の頃は人の役に立つ仕事がしたい、とか思ってたよなぁ。学生の頃は、世の中のためになる事がしたい、とか言ってたよなぁ……それがいつの間にか、流されるだけ流されてこうなってしまった。今の俺には、守るものも無ければ命を懸けられそうなことも無い)


 彼がそう思っていると、電車のドアが閉まった。

 車両は前に進み出す。

 次が乗換駅。そう意識すると、彼の息がさらに上がってきた。


(まあ、どんな仕事に就いても、なりたい職業になれても、働かされすぎたら嫌になるだろうけど。まあ、俺の場合は、やりたくもない事を延々とやらされてるだけだけど……ははっ)


 堅枠大はそこで真顔になった。


(あれ? 俺、何のために働いてるんだっけ? 命も心も削って働いて、いったい何の得になるんだろう? なんで誰も助けてくれないんだろう? いっそのこと死んだほうがマシなのでは?)


 彼がそう考えているうちに、次の駅を知らせるアナウンスが鳴る。

 電車は減速し、とうとう乗換駅に着いてしまった。


 堅枠大は頭を小さく横に振り、自らの思考を妨害する。


(何考えてるんだ。そんなことを考えてたら線路に吸い込まれるぞ。人に迷惑をかけてまで死にたくない。賠償金とか恐ろしすぎる……よし! まだ正常な思考は残ってるな。俺は、堅枠大は、まだ大丈夫だ!)


 彼は自分を勇気づけ、吊革から手を離して降車口に近づいた。

 電子音が鳴り、ドアが開く。


 外の空気が入ってくるのと同時に、彼は乗客の間をすり抜けて電車を降りる。ホームの硬い感触が足に伝わり、世界が少しだけ開けたような感覚がした。


 冬は終わったが、朝はまだ寒い。


 電車で熱くなった体が、外気によって急激に冷えていく。全身の血流が悪くなるのを感じたが、堅枠大はそれを無視して駅のホームを歩いた。


(ああ、でも仕事は行きたくねえ、仕事行きたくねえ、仕事行きたくねえ! でも行かなきゃ……行きたくなくても行かなきゃ)


 彼は強迫観念に囚われた状態で、少し離れた階段へと向かう。他の利用客に混ざり、流れに沿って乗り換え地点を目指す。


 あと十歩進めば階段に足がかかる。

 その時だった。


 全身が爆発したかのような衝撃に襲われ、彼の意識は一瞬にして弾け飛んだ。


 意識を失ったのは数秒にも満たない時間だったが、気づいたときには、彼はその場でうつ伏せになっていた。


 飛び込むように倒れたのか、体の前面が全面的に痛い。


(あれ? なんだ? なんで倒れてる? あれ? 息が苦しい……というか息できない……なんで?)


 堅枠大は自分が倒れたということ以外、状況が理解できなかった。


 とにかく周囲に耳を傾けてみる。利用客の一部がざわめいているのがわかった。だが、それを認識した直後に、それらの声が急に遠くなっていった。


 意識が薄れていく。

 そこで、彼は自分の脈拍が止まっているのを感じた。


(ああ……心臓、止まったんだ。なるほど、俺はここで死ぬんだ。死ねるんだな。心臓発作なら、誰も文句は言わないよな……いや、言うか。みんな余裕無いもんな。俺だって文句言うと思う……でも、もういいや。これでやっと救われるんだから)


 堅枠大は自らの死期を悟り、そっと目を閉じた。

 怖くはなかった。むしろ、迫りくる死に対して安心感すらあった。


(もし来世があるなら、週休三日で月収三十万円くらいが当たり前の世の中に生まれてえなあ。楽しく働いて、楽しく生きて、命を捨ててでも守りたいと思えるものが欲しい。美少女になるとかそんな贅沢はいいから、おっさんのままでいいから、そんな人生になりてえよ)


 それは、彼のささやかな願いだった。

 そして、堅枠大の意識は闇に吸い込まれていった。





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