7 ささやかなお茶会
「今日は楽しかったわ。ありがとう」
就寝前のお茶を用意してくれているアヤメにお礼を伝える。すると彼女は少し困ったようにはにかんだ。
「いいえ姫様……」
その後言葉は続かなかった。何か言い淀んでいるのは明らかだ。黙って差し出されたお茶からは、優しい香りがふわりと鼻をくすぐる。
理由はわかっている。桐人兄上のことだ。
兄上が来なかったのは、アヤメのせいじゃない。兄上の意思だ。とはいえ、お膳立てを手伝ってくれた彼女に、主としてはフォローすべきなんだろうな。
「……」
困ったな。わたし自身も、どうフォローすべきかわからないぞ。
正直な感想を申しますと、こんな感じ。
本来の目的、桐人兄上と親睦を深めることはは達成できなかったけれど、お茶会自体はとても楽しかった。
何より、カイとたくさん話ができてよかった……わたし的にはよかった。むしろよかった。唯一、カイの前で泣いてしまったことと、完全子ども扱いだったことが心残りです。だから気にしないでね! って言いたい。
前半はアヤメに伝えてもいいとは思うけれど、後半のカイのくだりは余計だな。などと、あれこれ考えていると、アヤメが意を決したかのように、わたしの方へと向き直った。
「姫様!」
「な、なに?」
び、びっくりした。アヤメ、目が怖いです!
「……実は桐人様から文をお預かりしております」
「兄上から?」
兄上から文だなんて、予想もしていなかった。
アヤメが言いたかったのは、このことだったのか。でも何だろう、今になって文なんて。
桜の花びらの透かしが入った封筒には綺麗な墨文字で「此花へ」と書かれている。兄上の人柄を感じるような丁寧で繊細な文字。
兄上はまるでお見本のように美しい文字を書く。王族は公務に出るようになると、署名をしたり歌を詠んだりと、文字を……しかも筆で書かなければならない機会が増えるのだ。此花といえば、まだまだ練習が必要だ。
ああ、練習しないとなあ……。
一瞬、現実逃避していた思考をアヤメの声が呼び戻してくれる。
「お読みになりますか?」
そうだ、兄上からの文。アヤメの問いに、返事を躊躇う。
恐らく「お茶会に行けなくてゴメン」という内容だろう。もし「またの機会に誘ってね」なんて書かれていたら、絶対に気休めだと言い切る自信がある。
つい溜め息を吐いてしまいそうになるけれど、かろうじてそれを飲み込む。
「……読むわ」
アヤメからペーパーナイフを受け取り封を切る……なかなか切れない。緊張で手が震えていることに、今更ながら気が付いた。
苦労して開いた封筒の中に入っていたのは、ほんの数言綴れるだけな小さな便箋だった。細い毛筆で書かれた文字を恐る恐る視線でたどる。
そこには堅苦しい文体ではなく、話すような口語体で書かれた文字が並んでいた。
『今日はお茶会に行けなくて御免ね。またの機会に』
予想通り過ぎて笑いたくなった。
またの機会?
またの機会なんて、思ってもないくせに。
きっとそんな機会なんて来ない。
そもそも兄上には、わたしと関わろうという気さえないのだから。
「姫様?」
突然立ち上がったわたしに、アヤメは驚いたような目を向ける。
「アヤメ、今から兄上のところに行ってくるわ」
「今からですか?」
無言で頷くと、アヤメは瞠目する。
無理もない。すでに就寝時間であるうえ、いくら兄妹だからといってそんな時間に訪ねるなんて嫁入り前の子女がすることではない。
でも、このままじゃ一歩も近付けないまま確定だ。
兄上が「またの機会に」というのなら、その機会をこっちで作るしかない。わたしの中の此花も同じ思いだ。
思い立ったら吉日。鉄は熱いうちに打てっていうじゃない?
よし、と勢い良く部屋を飛び出そうとするけれど。
「お待ちください。姫様」
当然、アヤメの制止が入りました。
「止めても無駄よ、アヤメ」
「止めは致しませんが、恐らく近習の方たちに送り返されるのがオチです」
「わかっているわ、でも!」
「ですから、明日に致しませんか?」
「え?」
意外な返事に拍子抜けする。
「……明日?」
「そうです。明日、桐人様に、こちらをお持ち致しましょう」
アヤメが差し出したのは茶葉が入った瓶。そう、今日のお茶会のために、カイが用意してくれたものだ。
「…………いいの?」
てっきり反対されるものだと思っていたから、アヤメの返事に今度はわたしの方がびっくりしてしまう。
「わたくしの主は姫様ですから。姫様の仰せのままに」
至極真面目にアヤメは礼をする。
「でも、わたしが押しかけたら近習たちに摘まみだされてしまうのでしょう?」
「ですから、わたくしにお任せください」
あまりいい方法とは言えませんが、と付け加えてアヤメは苦笑した。
* * * *
「アヤメ、その黒髪の子は新しい子?」
二十代半ばくらいの侍女が、すれ違い様に声を掛けてくる。恐らくアヤメの先輩にあたる侍女であろう。わたしは内心ヒヤヒヤしているが、アヤメはいつもと変わらない落ち着いた様子で頼もしい。
「はい。先日着任した商家の娘です」
アヤメに促されて一礼する。
「はじめて、ハナと申します」
作り笑いならお任せあれ。控えめに微笑んでみせると、先輩侍女は相互を崩し、わたしの肩をポンと叩いた。
「そっか。頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
これまで何度か他の侍女に呼び止められたりもしたけれど、アヤメのお陰で怪しまれることなく済んでいる。
今のわたしは裕福な商家の娘で、明日から正式に新人侍女として着任することになっている。名前は此花から取ってハナ。安直だけど、咄嗟にこれしか思いつかなかった。
黒髪の鬘に、黒縁の丸眼鏡。紺地のワンピースには、白い丸襟とフリルの付いた白いエプロン。
侍女服はなかなか可愛い。眼鏡のお陰で翡翠色の瞳も目立たない。これならきっと、誰もわたしだと気付かれないだろう。
嘘がすぐにばれてしまわないか心配だったけど、侍女としてやってくる下級華族や商家の娘は実際い多いらしい。でも合わないからと辞める人も多いそうだ。だから大丈夫とのことである。
そんなけで、わたしとアヤメはお茶とお茶菓子を乗せたワゴンを押して歩く。兄上付の侍女と交代してもらい、午後のお茶を兄上の部屋へ運ぶことになった。
「殿下、失礼致します」
黒檀の扉をノックをして呼び掛ける。すると「お入り」と兄上の柔らかな声がした。
兄上は気付かれるかしら?
期待と不安が半分半分。緊張する。
「午後のお茶をお持ち致しました」
アヤメがワゴンと共に足を踏み入れる。後に付いて室内に足を踏み入れた。ふかっとした絨毯の感触と、図書館のような匂いが鼻を掠める。
兄上の部屋は本が多い。天井から床まである本棚が壁を埋め尽くしていた。窓際にはとても広い机があり、そこで兄上は手紙をしたためていた。わたしたちの気配に顔を上げた兄上は「おや?」とでも言うかのように、軽く瞬いた。
「あれ……あなたは確か此花のところの侍女だったよね?」
「はい。今日はツツジに代わってお持ち致しました。アヤメと申します」
普段と変わらない落ち着いた面持ちで、アヤメはお手本の様な礼をとる。
「隣にいるのは新人の子かな?」
「はい。先日より着任しました娘です」
兄上、思っていたより話すなあ。なんだか意外。勝手に無口なイメージを持っていたけれど、ずいぶんと親しげな様子だ。
兄上ってまさか……。
桐人は攻略キャラではない上、ゲームには登場しないから詳しいキャラ設定はわからない。実はチャラい人だったりしたら……やだなあ。
すると兄上はアヤメの背後に立つわたしに声を掛けた。
「新人さん、あなたの名前は?」
兄上は椅子にゆったりともたれ、リラックスしている様子。少なくとも、正体に気付いて尋問されているわけじゃない。
今のわたしは侍女のハナ。よし、大丈夫!
兄上の胸元あたりに視線を向けてから、深く礼の形をとる。
「ハナと申します」
ここに来るまで誰にも気付かれなかった。だから兄上も気付かないだろう。
でも、その考えは呆気なく覆された。
「あれ……もしかして、此花?」
嘘?! さっそくバレちゃったの?
ここで知らばっくれればよかったのに、驚愕がもろに顔に出てしまったから、もう誤魔化せない。
「此花、その格好は……一体…………」
すると、今度は言い当てた兄上の方が狼狽えてしまう。
まあ……気不味いよね。妹の誘いを無視して、事後に紙一枚で詫びを入れて済まそうとしたんだもの。
「わたくしは、侍女のハナです。よろしく願いいたします」
ありったけの笑顔に少しだけ意地悪を加える。兄上は呆れたように目を瞬いた。そして、困ったような笑みをこぼす。
「……わかった。ではお茶を淹れて貰えるかな」
「はい」
「かしこまりました」
アヤメと揃って返事をすると、お茶の支度に取り掛かった。
もちろん茶葉は、林檎の優しい香りをした薬草茶だ。白磁のポットにお湯を注ぐと、ふわりと甘い匂いが立ち上る。
「いい香りだね」
ペンを走らせていた手を止めて、兄上は薬草茶の芳香を楽しんでいるようだ。
アヤメが淡い黄金色のお茶をティーカップに注ぐと、今度はわたしの出番だ。そろりそろりと兄上の元へと運ぶ。
「このお茶は?」
「カミツレと干した果実を加えた薬草茶でございます」
すまして答える。どんなお茶かはカイに確認済みだ。
「薬草ということは、何か効用があるのかな?」
「鎮静作用があるので、気持ちを落ち着けたい時や、眠れない夜に飲むとよろしいかと存じます。それから……」
こんなことを言っても仕方がないだろうけれど。
「このお茶は……城の庭園で栽培している薬草で作ったものです。とても美味しいので、ぜひ兄上にも飲んでいただきたかった……と、姫様がおっしゃっていました」
言いたいことを吐き出してスッキリした。一方兄上は困惑の表情で、湯気の立つティーカップを見つめる。
「お毒味は済んでおります」
「……ああ、そうではなくて」
言葉を途切らせると、視線をティーカップからわたしに移す。
「此花が、私に飲んで欲しかったと?」
「……はい」
一緒にお茶をしながら親睦を深めたかったのです。主にわたしの未来のために、というのが少し心苦しい。
「他にも理由がありそうだね」
一瞬、鋭くなった眼差しが、ふわりと笑みの形になる。
うわあ鋭いよ、この人。ええい、もうぶっちゃけてしまえ!
アヤメが傍らで見守ってくれているのが感じる。すがるようにスカートを握り締めると、真っ直ぐに兄上を見据えた。
「兄上と、もっと、お話がしたかったのです! と姫様が」
兄上はポカンとしている。それでも構わずわたしは話す。
「アヤメのご家族は、週に一度、ご家族でお茶会をされるそうなのです。いつもお忙しいご両親とゆっくり過ごせる唯一の時間……わたくし、羨ましいと思いましたの……と姫様が」
「……そうか」
あああ……兄上、困っている。滅茶苦茶困っている。
だよねーわかります。嫌われてはいないけれど、交流がなかった妹に急にそんなことを言われても困りますよね!
「あの! ですからあの……お茶だけでもと…………兄上も美味しいと思ってくださったら嬉しいのですが、個人の好みもありますから無理にとは……と姫様が」
どうしよう。今更になって、この場にいることを後悔し始めていた。
お茶会&乗り込み作戦大失敗だ。もっと時間を掛けて慎重にことを進めるべきだった。
そもそも前世でもコミュ障だったのに、誰かと仲良くなろうなんて高等テクニックが使えるはずがない。
作戦の立て直しだ。でもどんな作戦があるというのやら……。
とほほな気分になりながら、兄上の手元からカップを回収しようと手を伸ばした時だった。
「お茶は淹れ直さなくていいよ」
そう告げると兄上は、今まさに回収しようとしたカップを手に取りお茶を飲んだ。
「……うん、美味しい」
エメラルドグリーンの瞳を細めて微笑む兄上を、ただ呆然と眺める。
「とても美味しいよ。ありがとう、と此花に伝えてもらえるかな。アヤメ、お茶を新人さんの分も用意して」
「はい、かしこまりました」
予備のカップに注がれたお茶を手渡される。甘い、林檎に似た芳香に包まれた途端、少しだけ涙が滲んでしまう。
これは……兄妹の絆を深めた第一歩ではないですか?
そう期待してもいいのだろうか?
「さあ召し上がれ」
兄上の柔らかな声が促す。けれど、わたしは小さな子供のように、こくんと頷くことしかできなかった。