6 ある意味、親睦は深まったのかもしれません
雨上がりの空の色をした瞳が、驚きと戸惑いで大きく見開かれる。
カイもそんな表情をするのね、と思ったのは束の間。視界が歪んでしまったのは、馬鹿みたいに溢れて止まらない涙のせいだと遅ればせながら気が付いた。
どうした、此花!?
感情が追い付かないまま、涙だけがほろほろと溢れ落ちる。
ああ、そっか……。
ようやく此花の感情を理解して、ようやく自身の感情として理解する。
桐人が、兄上が来ないから……寂しいのか、やっぱり。
此花は自分だというのに、まるで他人事のように感じる。けれどこの身体は、此花の感情に引きずられている。
今だってほら、仕方がないことだって頭では思っているのに、寂しい悲しいって反応している。
幼い頃は両親や兄姉と離れて暮らすことに疑問を持っていなかった。当たり前のことだと思っていたが、心のどこかでは寂しさを感じていたのだろう。
王族によくある家人同士でのいさかいはない。むしろ良好と言ってもいい。ごく有りがちな、王族らしい距離感だ。
赤子の時から世話をしてくれるのは乳母と子守りの女性たち。物心がついた頃には妙齢の侍女たちと教育係たち。
両親、兄姉たちと顔を合わせるのは、朝と夜の食事の席。これだってマナーを身に付けてからだったから、初めて食事の席を共にした時には五歳になっていた。
でも公務に忙しい両親とは、実際食事を共にできるのは週に二、三回程度あればいいほうだ。
兄妹といっても、一番上と二番目の姉上とは歳が離れているせいもあって近付きがたかった。兄上と下の姉上とは歳が近いと言われても、五つも離れている。
幼い頃の年齢差は、たった一年だけでも大きい。多分姉上や兄上も、幼い妹の扱いに困っていたのだろうと思う。
桐人はずいぶんと幼い此花の面倒を見てくれていた方だと思う。とはいえ、幼子の面倒に慣れていたわけではないので、絵本を黙々と読んでくれるくらいだったけれど。
それでも此花にとっては温かい思い出となって心に残っていたのだろう。
今回のお茶会は前世のわたしの意思だと思っていたけれど、無意識のうちに此花の意思でもあったんだ。
「姫様……」
ほら、カイが困っている。いい加減泣き止みなさい。あなたの抱えている寂しさなんて、些細なことなのだから。
精神的に孤立している兄上をどうにかしたくて、交流の一歩として開いたお茶会なのに。
兄上に応えてもらえなかったからって、自分が寂しくなってどうするの?
兄上の孤独と比べたら、此花の寂しさなんて比較にならないというのに。
「……ごめんなさい。わたくし、のことは……気にしないで。ほら、美味しいお菓子もあるのよ」
ぐいっと涙を拭う。
泣いてしまった恥ずかしい。でもそれを誤魔化すように微笑んでみせる。ちょっとくらい不細工でも大目に見てください。
「姫様」
「……なあに?」
「これ、持っていてください」
カイがティーカップを突きつける。よくわからないまま、まだ温かいお茶で満たされたティーカップを素直に受け取る。
「ここで待っていてください」
「え、ええ……」
カイはお茶菓子が乗ったテーブルへ近付いていく。どうやらお菓子を取りに行っていたらしく、焼き菓子や果物で山盛りになったお皿を持って引き返してきた。
「姫様、口を開けてください」
「え?」
クロテッドクリームと林檎ジャムを「これでもか!」っていうくらい塗りたくったスコーンを、目の前に差し出してきた。
さすがにこんなにクリームとジャムがてんこ盛りになったスコーンは口に入らない。入れるとしたら大口を開けるのを覚悟するしかない。
前世のわたしなら、これくらい余裕だけど、姫君が大口で齧り付くって……あり?
ここで断ったら、カイの好感度が下がりそうだよね。でも大口開けた方が好感度が下がるかもしれない。
うーん、どうしよう。待ってる。スコーンを構えたカイが、わたしが口を開くのを待っている。
これはもう、食べるしかないでしょ!
覚悟を決めて……決めたのだけれども、小心者であるわたしは、恐る恐る口を開く。待ちかねたカイの手によって、温かいスコーンを口いっぱいに頬張る羽目になる。
やっぱり、入りきらない……。
でも。ほろりと崩れる香ばしいスコーンの風味と、こってりしたほの甘いクリーム。そして甘酸っぱいジャムの爽やかさが口に広がる。
「おいひい……」
あまりの美味しさに、悲しさも薄れて思わず頬が緩む。
すると、カイは少し悪戯っぽく笑った。
「うちの近所のチビ共が泣きわめく時は、大抵腹が減っているか眠たいかのどちらかなんですよ」
わたし、子供扱いされていたの?!
「わたくし……来年は社交界デビューなのよ?」
「それはそれは……おめでとうございます」
「もう……! 小さな子供ではないという意味なの」
「はい、おっしゃるとおりで」
ちょっと悔しくて大人アピールをしてみるものの、相手にされないどころかカイは小さく肩を震わせて笑い出す始末。
カイの笑顔を拝めてありがたいのですが。わたし、ご近所のおチビさんたちと一緒ですか?!
「姫様」
くすくすと笑いながら、カイが手を伸ばす。他人事のようにそれを眺めていると、彼の温かい指がわたしの頬に触れる。
「クリームがついていますよ」
軽く頬を突くように撫でると、あっという間にその指は離れて行く。しかも、そのクリームを拭った指を軽く舐め取り、微かに眉を顰める。
「甘いですね」
「……そう、ね」
今のは……何?
彼の行動の一部始終を眺めていたけれど、一体何が起こったのかわからなかった。わからないのに、身体だけはしっかりと反応してしまう。
カイに触れられた部分が、熱を帯びたよう。
確か、立ち上がるのを手助けしてくれた時「御身に触れる無礼をうんぬん」って言っていなかったっけ?
めちゃめちゃ御身に触れているんですけど。
いえ、むしろ触れてくれて「ありがとう!」っていいたいくらいなんですけど。
ほっぺのクリームを取って舐めるなんて、小さい子を相手にしたお母さんみたいな対応だよね。
やっぱりわたし、お子様扱いなの?
「カイ! いくらなんでも姫様に失礼だよ」
慌てた様子で、サイが間に入って来た。
「失礼致しました姫様。カイも悪気はないと思うのですが……ほら、カイも謝って!」
カイの頭を無理やり下げさせる。
「いいのよサイ。わたし気にしていないわ」
なんて言ったものの、滅茶苦茶気にしています。
ああもう。来年から公務にも、社交の場にも顔を出す年齢だとというのに……近所のチビさんたちと同じかあ。
サイに諭され、カイはちょっとバツが悪そうに肩を竦めたものの、さほど悪びれた様子もない。
結構カイってばマイペースというか、我関せずというか、持っていたイメージと違う。
もしかすると、今回のカイとの接触によって此花との関係に変化があった……とか?
ゲームではもっと姫君として接してくれていた。
もっと表情が少ない人だと思っていたけれど、素のカイは表情豊かで笑い上戸な人なのかもしれない。
ある意味、カイとはちょっと近づけたと思っていいのかな……なんて考えていたら、手にしていたティーカップをカイの手で奪われた。そしてすぐさま、代わりに淹れたてのお茶で満たされたものを渡された。
「ほらお茶。この間姫様が所望されたお茶ですよ」
いつの間にか、アヤメがお茶を淹れ直してくれたようだ。カイは片手でお菓子が乗ったお皿と、冷めたお茶が乗ったソーサーを持っている。おお、レストランのウェイターみたいでカッコいい。
「……ありがとう」
素直にお茶に口を付ける。ふわりと林檎の香りが鼻孔をくすぐる。さっき林檎ジャムを乗せたスコーンを食べた後にぴったりだった。
「美味しい。我が儘に付き合ってくれて、ありがとうねカイ」
素直に感想とお礼を言ったはずなのに、カイは目を見開くと唇を一文字に引き結んでしまった。
「これくらい我が儘のうちに入りませんよ」
ふいっと目を逸らしてしまう。あら、またぶっきら棒なカイに戻ってしまったわ。
お茶を飲みながら、ふとさっきまでの胸を押し潰すような気持ちが、いつの間に薄れていることに気が付いた。
「ふふっ」
これはきっと、甘いお菓子とカイのお陰かな?