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冬の円環

作者: 安桐邸良

 まだ学生だったの頃のことだから、もう10年以上も経つ。冬の、殊更に寒い日だった。空気が乾いて冷たく、すこし風が吹いてもヤスリで頬を撫でられるようだった。


 学校を出た僕は鉛色の空の下をバス停まで歩きながら、ちょうど通りかかった自販機でコーヒーを買おうと、コートのポケットから財布を取り出した。


 小銭があるだろうと思ったのに、コーヒーを買うには足りなかった。僕は手袋を外して、千円札を一枚取り出した。


 *


「‥‥君」名前を呼ばれて振り向くと、生野早苗がいた。「コーヒー?いいなあ」


 今日も寒いね、と彼女はぐるぐる巻きにしたタータンチェックのマフラーに顎を埋めるようにしながら僕の側に立った。


「雪降るかな?」


「どうかな?」僕は自販機を指さし、なるべく自然に見えるように努めながら言った。「飲む?」


 同じ講義を受けているのに、僕はほとんど生野と話したことがなかった。接点がなかったというか、僕にとって彼女はちょっと手の届かないタイプの女の子だった。


 生野がまるで何年も知っている友人のように話しかけてきたことに僕は驚いていた。


「あたしがごちそうしようか」


 彼女が小さくいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。機嫌のいい時の美人猫って感じだった。



 僕が何か言う前に、生野はコーヒーを二本買ってしまった。一本を僕に手渡すと、自分の分をダッフルコートのポケットにしまった。


 急にコーヒーを手渡され、僕は慌てて財布をコートのポケットに突っ込んだが、千円札はしまい損ねて、コーヒーと一緒に手に持つ形になってしまった。


「そういえば‥‥君、来週のイベントのことなんだけど……」


 チャリティの?と訊ね返すと、生野は頷いた。彼女はサークルで主催するイベントの準備のためにこれからまた学校に向かうところだった。


「人手足りなくて。‥‥君、空いてない?」


 空いてなかった。その週末はバイトの予定を入れていたから。しかし、空いてない、と言う気もなかった。


 それでも、今からバイト先の店長に相談して了解してもらえるかな、などと考えながら「えーと……」と曖昧に口ごもると、生野が遮るように僕の顔を覗き込んだ。


「コーヒー」


「え?」


「受け取ったでしょ?」


「コーヒー1本で買収?」


 冗談に付き合うつもりで、少々大げさに問い返したが、うなずく生野は割と本気なように見えた。


 *


「じゃあ、あとで連絡して?都合のいい時でいいから」


 彼女はバッグを開けてなにやら探していたようだったけれど、やがていかにも解せないと言った表情で顔をあげた。


「携帯がない」


「落とした?」


「ちゃんとバッグにいれた筈なんだけど……あたし、時々携帯なくすんだよね」


 そう言う彼女の「やっちまった」な表情に、僕は思わず吹き出してしまう。


「なによ」生野が目を細くして僕を見る。「せっかくこのあたしが電話番号を教えてあげようとしたのに」


 じゃあ、俺の携帯に……と、片手で尻のポケットに突っ込んだ携帯を取り出そうとすると、唐突に生野の手が伸びてきて、コーヒーと千円札を取り上げた。


 あっけに取られながら見ていると、彼女はコーヒーをわきに挟んで、バッグからペンのついた手帳を取り出した。手帳の上に千円札を開くと、彼女はそこに何事かを書き留めた。


 *


「はい」彼女が千円札を差し出すと、そこには電話番号が書かれていた。「電話して」


 僕は本当に開いた口が塞がらなかった。


「使えないじゃん、この千円札」


 やつあたり……?と僕が苦笑いすると、生野はうんうん肯きながら明るく笑った。


「使ったら、だめ」


 そして生野は僕の手を取ってコーヒーを握らせた。


「じゃあ」彼女は学校の方を振り返りながら言った。「待ってるね」


 冷たい空気に彼女の言葉が白く霧消していくのを見ながら、それを捕まえて取っておけたらいいのに、と僕は思った。


 結局その日、雪が降ることはなかった。



 **



 僕と生野はその時の会話をきっかけにして、その後2年近く、恋人同士として付き合った。


 生野は自販機の前にいた僕を見かけた時、今声をかけなくちゃ、と思ったと話した。なぜかはわからないけれど、と。


 ずっと話しかけようと思ってたんだけど、どうも君はとっつきづらいんだよね、と言って笑った。


 彼女と付き合っている間、僕はあの千円札を財布の奥にしまい込んで決して使わなかったが、彼女と別れてしばらくすると、いつの間にかなくなってしまっていた。使ったつもりなどなかったのに。


 大学を卒業して僕が他の町に移ってしまうと、生野の消息はほとんど聞こえなくなったが、3、4年すると結婚して母親になったと言う話が伝わってきた。


 ***


 去年のクリスマス頃のことだ。仕事の道すがら、冷えた体を温めようとコーヒー・ショップに立ち寄った。


 テーブルについておつりの紙幣をしまおうとした時、僕はそこに何かが書かれていることに気づいた。


 それはあの時、生野が書き留めた電話番号だった。


 僕は紙幣を見つめたまま時間をかけてコーヒーを飲み、それから外に出た。あの日のように鉛色の雲が空を覆っていた。


 しばらく紙幣を手に街中を歩きながら、学生だった頃のことや生野のことを思い出した。


 それから、木々の冬枯れした公園に入ると携帯を取りだして、紙幣に書かれた電話番号を押した。


 電話はすぐにつながり、知らない女の声が「はああい?」と間の抜けた調子で応えた。


 詫びを言って電話を切ったあと、僕はひとしきり考えて、大学時代の友人の番号を呼び出した。


 *


「なんだ、久しぶりじゃないか」電話に出た友人は、忙しそうだったが鷹揚な調子で言った。


「急に変なことを聞くようなんだが……生野のこと知らないかな?生野早苗……急に思い出してさ」


 友人は電話の向こうでしばらく押し黙っていたが、ゆっくりと話し始めた。


「生野さんなら、亡くなったんだ。知らなかったのか?お前が知らないとは思わなかったな……。癌だったそうだ。長い間頑張ったらしいんだが……。子供だっているだろうに……」


 今度は僕が言葉を失う番だった。それから僕たちは簡単に短く言葉を交わしあい、僕は礼を言って電話を切った。


 それからずっと葉のすっかり落ちたマロニエの木の下に立ち尽くしていたが、頬に冷たいものを感じて空を見上げた。


 雪が降り始めていた。


 あの時、降らなかった雪かもしれないものが。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 言葉使いや文体がシンプルで、読みやすく感じました! 比喩表現も素敵です。美人猫、飾り気がなくスラッとしていそうですね 最後の一文、とてもセンスのある締めくくりだと思います‥良いものを見させ…
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