おやすみ、現世
それは月の綺麗な夜のことだった。
夜の一時を迎え、もう寝ようとそれまでやっていたテスト勉強に切りをつけた。一階から物音は聞こえず、もう家族は寝てしまっているようだ。優しく月光に包まれた勉強机にさよならをして、誰に言うでもなくおやすみと呟いてベッドに入った。
そこで俺の現世の記憶は途切れている。気が付くと俺を包むのは優しい月光ではなく、うるさいくらいの歓喜の声だった。ここはどこだ。記憶をたどるが、こんなところは行ったことがないし見たこともない。家の近くにもこんなところはないはずだ。
なにしろ今俺が立っているところは、まるでアニメに出てきそうな感じの神殿の祭壇の上なのだから。
呆然としている俺を囲むのは大勢の人々。ざっと見て100人はいるだろう。そして肝心の俺は寝る前と全く同じ格好をしている。さすがに夢だろと、頬をつねるがしっかり痛みを感じた。
「うそ、だろ。」
思わず声に出してしまう。
「うそ、じゃないです。」
声のもとを確かめると、長老らしい老人がこちらを心配そうな目で見ていた。いつの間にか歓声は消えており、みな緊張した面持ちになっていた。
「自傷行為はお止めくださいませ。」
「え、これって夢じゃないの?」
「はい。」
意外と軽く肯定される。そっかー。俺もついに異世界来ちゃったかー。実際はそんな軽い乗りにはならない。
「やば。え、じゃあもう戻れないってこと?それやばくね?え、まじでやばい。本当にやばい。」
焦りに焦ってやばいしか言えなくなってしまう。
「落ち着いてください。勇者さま。」
これが落ち着いてられるかって、え?
「今、何て言った?」
「ん?落ち着いてくださいと申しました。」
「その後に俺をなんて呼んだ?」
「勇者さまとお呼びしました。初めまして勇者さま。ここは小国ホルスの小さな村、アンカーでございます。わたくしはこの村の長老ヘロと申します。」
突然異世界へ転送されて、俺、井上ヒロキは勇者になりました。