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レイカの安全を第一に考えれば、今すぐ男を店の外に追い出したい。そこで僕は、できる限り穏便に済むアイディアを思いついた。
「探しに行かなくていいんですか?」
そう、男にもう一度レイカを探させればいいのだ。ラーメン屋に入ってきた時、彼は寒そうな格好をしていたにも関わらず、顔は上気して汗ばんでいた。つまり、ここに来るまでの間、走ってレイカを探していたに違いない。
その必死さをふたたび思い起こせ! と、僕は男をじっとうかがった。
「ああ、うん。なんかもういいかなって」
はぁ?
「はぁ?」
思ったことが口に出ていた。
まさか僕を前にして、戦意を喪失したとでもいうのか。そんなわけがない。
「疑って悪かったなぁ。せっかくだし一杯食べてくよ」
男は申し訳無さそうに笑う。
どうやらお嬢様を探しに行く気力が失せただけのようだった。
傍らのレイカは僕にべったりくっついている。時刻はもうすぐ四時だがまだまだ日は高く、密着したところが汗ばんできた。
女の子に、それもこんないじらしく頼りにされて、何もできないんじゃ格好悪い。何が何でも男を店の外に出さなくてはならない、と自分の心に誓う。
「でも、その人は大事な人なんでしょ?」
今はこうやって食い下がるしかない。
「まあ、な……。やっぱり俺には無理だったんだよ」
男はテーブルに寄りかかり、へらへらと笑った。
「そんな! あきらめたら終わりなんですよ!」
「お、おう……」
気まずそうに返事をする男の姿に、僕は胸の中にしまったある想いが反応した。
いや、こんなことを話したって仕方がない。これは僕のどうしようもない失敗談だ。今はとにかく男の気を、お嬢様を探す方向へ導かなければ……!
ぐう〜〜〜〜。
腹の虫が鳴る音がした。どうやら僕じゃない。はたまた男でもない。
僕は目だけを動かして、レイカの様子を確認する。
ちょうど胃のある辺りを押さえていたレイカが、僕の視線に気付いて上目遣いをよこした。みるみるうちに耳まで紅潮して、今まで以上に必死になってお腹を押さえつけ始める。
正面から男の視線を感じ、僕はためらうことも忘れて話を切り出した。
「あのっ、僕の話なんですが」
この状況を打開するためなら、打ち明けても構わない。気になるのはレイカに幻滅されないか、ということだったけれど、彼女を助けられないのだったら同じことだ。
「実は僕、高校に行ってないんです。もう一年くらい前から」
言ってしまった。
口にした瞬間、吐き気がこみ上げてきた。
どうしよう、震えが止まらない。男がナイフを持っているとわかった時の何倍も怖い。指先から凍りついて、次第に体の自由を奪っていくみたいな感覚だ。
男は神妙な面持ちで耳を傾けている。
続いて僕はレイカの方を見ようとして、やめた。もしも失望した顔をしていたら、こんな話の続きなんかできっこな……え?
あたたかい手が僕の手をきゅっと包んだ。弱々しいが、とても力強い。
すぅ、と胸のなかの氷が溶けて、やっと言葉を紡ぐことができる気がした。
「だからその……、僕は学校でいじめられてるんです。いや、正確には、いじめられてた。高校に行かなくなってから、そんなことなくなったから。僕はあきらめた側の人間です。一年も学校に行ってないんですよ? もう戻れない。戻れなくて、こんな昼間からバイトです」
笑ったつもりだったのに、顔が引きつっていた。
「だから、あきらめないでください」
男の表情をたしかめる。きっと引いていることだろう。
「……お前、苦労したんだなあ」
涙声で男は言った。
男の頬に一筋の涙が伝う。
「その年で、なあ。俺みたいな奴、心配してくれるなんて。ああ、泣けるじゃねえかよぉ」
テーブルの上のティッシュを取って鼻をかむ。その後、僕を見ると、とたんに嗚咽を漏らし、また鼻をかんだ。堰を切ったように涙がとめどなくあふれ、それはしばらく続く。男は一向に店を出て行く気配がなかった。逆に引き止めてしまったかもしれない。
カウンター下に隠れたっきりのレイカの手は、今まで以上に強く僕を握っている。
僕の震えはいつの間にか止まっていた。なんだか笑いそうになったけれど、きっとこれは泣いてもおかしくない瞬間だ。考えてみれば、午後三時に電話がかかってきた時、学校に戻れるチャンスが来たんだと思った。いたずら電話でも良かったんだ。何かきっかけが欲しかった。でも、それは間違い電話だった。
「あれ……?」
大事なことを思い出す。
電話を切る時、男はなんと言っていたか?
たしか、『一時間後に電話する』と言っていなかったか。
時計をたしかめると、もうすぐ午後四時を示すところだった。
「あの」
「わかってる、わかってるよ。俺もあきらめない」
かろうじて説得できていたらしい。あとひと押しでお店を出て行ってくれるに違いない。
「俺もな、お前さんみたいに戻れないところまで来ちまったんだ。金もなく、愛する人もなく、ただ同じような毎日を繰り返してた」
ところが、男は自分の身の上話を始めたのだった。
「それを終わらせたいがために、思いつきでバカなことをしちまったんだ」
「そう、ですか……」
僕は知っている。彼はどこかのお嬢様を誘拐したのだ。失うものがなければ、自暴自棄になっても仕方ないと思う。だが、今はそういう話をしている場合ではないのだ。
「もうすぐ四時ですね。これから暗くなりますよ」
ティッシュ箱を片手に、時計を仰いだ。
「あっ、もうすぐ一時間か」
そうつぶやいて携帯電話を取り出す。
……携帯電話?
電話をかける前にお嬢様を探すべきだろ!
僕の思惑は完全に外れる。だというのに、僕の心にはわずかな高揚感があった。今まで抱えていた悩み事を打ち明けたせいなのか。あるいはそれがレイカに認めてもらえたからなのか。僕は追い詰められている状況に、怖がるどころか興奮していたのだった。
「そうだ、電話はよした方が……」
興奮している場合じゃなかった。
さっきまでの立場とは一転して、今度は男を止めなければいけない。なぜなら、その電話が僕のスマートフォンにかかってくるかもしれないのだ。
慌てふためく様子を、不思議そうな目で見られた。
「いいじゃないか」
よくない!
制止しようと伸ばした手は男に届くはずもなく、無慈悲にも僕のスマートフォンが鳴る。今までで最も心臓に悪い着信音に違いなかった。
男が僕に視線を送る。
まずい。このままじゃ、僕が間違い電話を取ったことがバレてしまう。そうなれば、何をされるか分からない。
軽快なマリンバの音楽が鳴り止む。
「チッ、なんで出ないんだ」
男は苛立ち、目線を僕から携帯の画面に移す。
次にかけ直したら絶対にバレる。この機会を逃すわけにはいかない。僕はレイカをカウンターの下に残し、客席の方へ飛び出す。
だが、あと一歩、及ばなかった。
ふたたび着信音が鳴り出したからだ。
終わった。
僕はそう確信したものの、極度の緊張で一歩も退くことができなかった。少なくともレイカの前には立っていたいと心に念じる。それは男が僕の方を見ても変わらない。
「携帯、鳴ってるぞ?」
その声色は特に何かの感情があるわけでもなく、ただ疑問を投げかけただけに聞こえる。
まさか、男は間違い電話の相手が僕だと気づいていない?
そ、そうか。そもそも間違い電話だったことを知っているのは、僕だけなんだ。男からすれば、誘拐を伝える電話を間違えるわけがない。そう思い込んでいるのだ。
とにもかくにも電話を操作する男の前に立つ。これ以上はさすがにバレる。偶然に偶然が重なったら、それは運命なんだと僕は思う。
男の身長は僕より少し高い。力じゃとても敵わないだろう。
何かこの状況を打破するものはないか?
あたりを見回す僕に、男は不快そうに声を上げた。
「なんだよ?」
あっ!
僕はこの時、初めて店長に感謝したのだった。
「あのっ、このお店、携帯に出るのは禁止なんです……」
恐る恐る壁の張り紙に指を差した。
そこには『携帯禁止』の四文字が店長の行書で書かれている。
「ああ、そうだったの。ちょいと電話をかけてくるわ」
男は店の外に出る。
男の姿が見えなくなると、とたんに体中の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。なんて格好悪いんだろう。最後に男に話しかけた時、僕は声が上ずっていた。そして今は足に力が入らないのだ。情けないけれど、これが僕の精一杯だった。
「旦那さまっ」
「わっ」
背中にレイカが抱きついた。ふわりと甘い香りがする。さらさらの髪が僕の首筋をくすぐるものだから、僕はふっと笑みをこぼしてしまった。
「わたくしを守ってくださったのですね。……将来の旦那さま」
こんなかわいい子を守れたのだから、格好悪くたっていいじゃないか。
それに、『将来の旦那さま』だって?
僕はそれだけで舞い上がってしまいそうだった。どうか夢じゃありませんように。
肩に置かれた手に、今度は僕の方から握った。つるつるとした肌は、わずかに力を込めて触れると、ハリがあって僕の指を押し返そうとする。子供っぽい丸い手に、どこか女性らしいしなやかさを感じて、僕は居ても立ってもいられない。手を繋いだままレイカに向き合った。
「その……僕は」
「なんでしょう?」
レイカは僕に話しかけられたことを嬉しそうに微笑んだ。
口にしようとした言葉を飲み込む。
これを伝えるのはすべてが終わってからにしよう。
だから、代わりの言葉を口にする。
「君を守れて良かっ——」
その時、マリンバの音が鳴る。ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見ると、そこには非通知の三文字が表示されていた。
「誘拐犯からの電話だ」
投稿が遅れてすいません。
帰り道で大学の先輩に会って話し込んでしまいました。