当たり前な『特別』に
雨が降った。
昨日の夜のニュースでは最近変わったばかりのお天気お姉さんが降水確率は10%と言っていた。たった全体の10分の1の確率だったにも関わらず、雨は降った。
そんな些細なことだけども、だからこそ私は今日にしよう、って思ったんだ。
元々分の悪いことだとは思っていない。そんな薄っぺらい恋愛だったなんて思っていない。
それでもきっと、私には何かしらの理由が、何かしらの験担ぎが必要だったんだと思う。
「小春……少し、距離を置こう」
そんなふうに彼、秋弘が言ったのは1ヶ月ほど前のことだった。
放課後、夕暮れ時。まだまだ残暑が厳しいけども、日が長かった時期もそろそろ終わりを見せはじめる。そんなとある日の、帰り道。
クラスメイトや先輩後輩、同じ制服を着た姿がポツポツ見える、細長い影に赤く染まるアスファルトの上で。
「……」
私は何も言わない。
「お前のこと、大事に思う気持ちはもちろんあるんだけど、それが本当に恋なのかどうなのかわかんなくなっちまったんだ」
寂しそうに秋弘が言葉を紡ぐ。
「……」
「想いが通じた時、めちゃくちゃ嬉しかった。付き合い始めてからも、びっくりするくらい楽しかった。今だって、お前が隣に居てくれたら本当に落ち着く」
「……」
「とにかく、そばにいて欲しいと思う。でも、それだけなんだ」
そんな残酷なことを告げる秋弘の表情はとても苦しそうで、本当なら私のほうが悲しい顔をする場面のはずなのに、不思議と心は穏やかだった。
「触れたいと思う。でも、触れなくてもいいと思う。抱きしめたいと思う。でも、抱きしめられなくてもいいと思う。キスしたいって思う。でも、しなくてもいいと思う。最近ずっとそれなんだ。お前がいてくれれば、それだけで満足してる自分が居て……そんなんで良いのか、わかんなくなっちまった……」
聞きようによっては熱烈な愛の言葉だな、なんて。そんなふうに私は思った。
「それで?」
「ああ」
彼は少し大仰に頷いて、もう一度さっきの言葉を口にする。
「少し……距離を置きたい。そして自分の気持ちをもう一度見直したいんだ」
不安そうな瞳が私のそれとぶつかる。
「……」
秋弘の言うことがわからないわけじゃない。実を言えば、私も同じような感覚を持っている。それは『当たり前』という感覚。
「秋弘の言ってること……私もわかるよ。私にとっても秋弘は『隣にいて当たり前』の存在だもん」
私の声は思ったよりもやさしい声だった。それはまるで、自分の言葉に自分で傷ついている目の前の彼を慰めるような、そんな声音だな、と。
「心地いいんだ。秋弘の隣って」
思えば、いつからだろう。こんな関係になったのは。
「ねぇ、覚えてる?」
仲良くなったのは1年の時の学園祭。クラスの出し物で喫茶店をやることになって、普段から家で料理をしている私は調理担当だった。そして秋弘は買い出し班で試食係も兼ねていた。その時の買い出し内容の指示や試食の感想でいろいろ話したりしたのが最初だった。
私は取り立てて何か目立つものを持っている人間じゃない。勉強は少し出来る程度だし、運動はどちらかといえば苦手。高校に入って少しは垢抜けたと思うけど、外見だって地味なほうだ。性格も明るいとは言えない。暗いわけでもないけど、何事にも冷静な目で見てしまって、まわりが盛り上がってるような時でも同じような温度で接することが苦手だった。趣味で料理やお菓子作りをしているくらいで、かわいいものが好きで、友達とおしゃべりしたり寄り道したりするのも好きで……どこにでもいる、普通の女子高生だと思う。
秋弘もごく普通の男子高生だ。平均より頭は良くて何かと要領よくこなす彼は、それなりに友人もいて、それなりにクラスに溶け込んでいる。だけど、例えばサッカー部で1年生にしてエースの座を掴んだ片倉くんみたいに何かに突出するものがあるわけではなく、人気キャラで通っている井坂くんみたいに目を引くイケメンというわけじゃない。卓球部に所属し、それなりに強いけど、いつも地区大会では2回戦か3回戦で負けてしまう。それぐらいの平凡な男子。それが秋弘だ。
「覚えてるよ。忘れるわけないだろ」
「私ね、あのとき秋弘が『おいしい』って笑ってくれて、本当に嬉しかったんだ」
本当に何気ない笑顔だった。ただの試食の感想だった。でも、その笑顔にふいにドキッとしたんだ。他の試食係の男子だっていた。同じようにおいしいと言ってくれた。にも関わらず、秋弘にだけ胸がときめいた。
「他のどの女子が作った料理よりも、小春の料理がおいしかったんだ。おの、なんていうか……あったかい味がしたんだ」
「それからだよね、私たちがよく話すようになったの。その瞬間から私はそれなりに自覚してたけど、秋弘のこと目で追うようになった。あ、私この人のこと、きっと好きなんだ、ってすぐ気づいた」
「おれもだった。何故かそれから小春が気になって気になって仕方なくて……つい目を向けちゃって、でも目が合いそうになるたびに恥ずかしくて逸らしてたなぁ……」
「これが胃袋を掴む、ってやつだったのかな」
あはは、と笑う。つられて秋弘も笑う。その目はやっぱり寂しそうだ。
「だから、秋弘からちゃんと告白してくれたこと、嬉しかったよ。あのときの私、冷静なように見えたかもしれないけど、ほんとはボタボタうれし泣きしちゃいそうになるくらいだったんだから」
「そこで泣いちゃったほうが可愛げがあったと思うぞ?」
「そこで泣かないから私なんだと思うよ」
「違いない」
また秋弘が笑う。今度は寂しげな雰囲気を纏わない、単純な苦笑。
よく話すようになった。たまに一緒に帰るようになった。時々、お弁当を一緒に食べるようになった。気付いたら毎日一緒に帰るようになった。秋弘の分のお弁当を作ってくるようになった。気付いたらまわりから付き合っているものだと思われていた。
だから正式に「付き合わないか?」と言ってくれたときは嬉しかったし、ほっとした。私だけの空回りじゃなかったんだって証明されて、私の居場所がはっきりと確立されて、本当に嬉しかったんだ。
それからは輪をかけて一緒にいた。いつも秋弘の隣には私がいて、私の隣には秋弘がいた。もちろん、それぞれの交友関係をないがしろにするようなことはお互い望んでいなかったから、ものの例えだ。でも、それでも、心は常にお互いの方向を向いていた。
だからこそ、私はこう答えたんだ。
「距離、置こっか」
か細い呟きだったと思う。しかし、確かに届いたそれに秋弘の顔が苦痛に歪む。
「なんて顔してるの。秋弘が言い出したんだよ?」
「あ、ああ……」
「私ね、思うんだ」
ひどく辛そうな秋弘に、あっけらかんとした私。まるで私が別れを告げてるみたいだこれ。
「秋弘がこんなふうに言うのって、裏を返せば私のことどうしようもなく好きで居てくれて、それでいてもっともっと私のことを好きになりたい、愛したい、って思ってくれてるからなのかな、って」
ちょっと嬉しそうに語る私を、秋弘はどう思っているだろうか。
「私の勘違いかもしれないし、うぬぼれかもしれない。秋弘自身気付いてない想いなのかもしれない。でもね、少しくらい距離置いたところで、私たちが築いてきたものが簡単に崩れちゃうなんて思えないんだ」
それだけ私は秋弘を信頼している。秋弘のことを疑っていない。
「さっきも言ったけど、私も同じ。秋弘が隣にいることが当たり前になりすぎてる。だから……距離を置いて、もう一度確かめるというのも、アリかもしれないな、って」
「小春……」
「も、もちろん不安だってあるよ。そのまま戻れなかったらどうしようって。秋弘に……その、捨てられちゃったらどうしよう、って。きっとそんなことになったら、私立ち直れるかどうかもわかんないし……」
きっと私たちは不器用なんだ。まだ高校二年生。たった16年しか生きていない私たち。恋をしたのだって数えることしかないし、恋人が出来たことなんてお互い初めて。
「でも、これはきっと未来のために必要なことなんだと思うの。秋弘が疑問に感じた。私もそれを理解できてしまった。だったら、やってみるしかないんじゃないかな」
不器用だから、お互い手を取り合って一歩ずつ進んでいくしかなかった。でも、その手を取り合うことが正しいことなのかもわからなくなってしまったなら、それを止めることしか思いつかない。
ふと、バツの悪そうな秋弘の顔が目に入った。
「どうしたの?」
「いや、その、おれそこまで深くは考えてなくて……なんていうか、小春はすごいなって」
「ふふ、秋弘はそれでいいんだよ。それが秋弘なんだもん。それにたぶん、私が考えすぎてて……ううん、必死に言い訳をしてるんだと思う」
「言い訳?」
「うん、秋弘に……捨てられたときに、出来る限り自分が傷つかないように。仕方ないこと、必要なことだったんだって、今から自分に言い聞かせて、逃げ道を作ってるんだと……思う」
そう口にしているうちに、徐々に不安があふれてくる。涙が出そうになるのをぐっとこらえる。
「そ、それにね! ほら、月子たちとの友情を確かめあうのもいいかな、なんて。最近あんまり遊べてないしさっ」
わざとらしく明るく言った言葉は、秋弘にとっては逆効果なようで、心配そうな表情を浮かべる。
「ごめんな、おれのわがままで」
申し訳なさそうに言う彼に、私は気にするなと言おうとして。
「謝らないで」
口をついて出てきた言葉は違った。
「もし謝るのなら……それは結論が出た時にして」
やばい、涙が出そう。
「今、ごめんなんて言われたら……もう戻れないみたいじゃない……そんなの嫌なの……」
こらえてた気持ちが止められない。あふれ出る感情が私の口を突き動かしてしまう。
「ほんとは距離を置くのも嫌。不安で潰れちゃいそう。秋弘を離したくない。でも、秋弘も言うこともわかる。わかってしまう自分がいる。そんな自分も嫌。秋弘のこと、本当に好きなのかどうかわからなくなってる自分が嫌。こんなにも好きなのに、こんなにもそばに居て欲しいのに、でもそれを疑う自分が汚くて、醜くて、カッコ悪くて、めちゃくちゃ嫌」
だから……
「私も確かめたいの。それを秋弘が謝らないで。お願い……」
「小春……」
秋弘の腕が私を抱きしめようと伸びてきて、思いとどまる。ここで触れてしまっては、きっとこの決意が揺らぐ。そう思ったからだろう。
かわりに秋弘はその声音で私を包み込もうとする。
「……距離を置くって言い方はやめるか。少しばかり……旅に出よう」
「旅?」
「うん、ひとり旅。自分を見つめなおすための、心の旅」
「……秋弘って、こんな詩人だったっけ?」
「ちょっ、おれが頑張って考えて言ってるってのに、そういうこと言う!?」
「あはは」
あまりにもの"らしくなさ"に思わず笑ってしまう。見れば秋弘も同じように笑っている。
「……ありがと」
こんなときでも私の心をほぐしてくれる。だから、少しだけ、ほんの少しだけ、制服の袖をつまんで。
「……おう」
照れてそっぽを向く彼を見上げて。
「じゃぁ……」
ゆっくりと手を離して。
「うん」
秋弘の視線が私へと戻ってきて。
「またね」
「おう……またな」
こうして私たちはそれぞれの"旅"に出たんだ。
そこからの日々は、私に新しい世界を見せてくれた。
まず一番最初に親友の月子に心配された。
「小春、あんたどうしたの? 遠山くんは!?」
お弁当一緒に食べよう、と月子に話しかけたらいきなりこれ。
結局、月子には根堀り葉堀り聞かれて、全部喋った。そのあげくに……
「はぁ……バカップルめ……」
と何故か呆れられたのだけど。
次第に私たちのことは噂になった。あれほど仲良かったのに別れたのかとか、どっちが振ったんだろうとか。
直接聞かれたこともあった。その都度私は「少し距離を置いてる」とだけ答えた。別れたのか、という質問に対しては、断固として「NO」と答えた。
同じ学校だ。クラスが違うと言えど、廊下や校庭で秋弘とすれ違うことだってある。そのたびに普通に会話をした。普通に会話をして、普通に笑って、普通に「またね」と言って過ぎ去っていった。まわりの幾人かには不思議そうな目線で見られていた気もする。
あるとき、秋弘が女の子に詰め寄られている場面に遭遇してしまった。
「遠山くん、笹峰さんと別れたの?」
どこか期待を抱いたような雰囲気で質問をする彼女に、秋弘はただそっけなく、
「別れてないよ。距離を置いているだけ」
と答えた。
内心「旅に出てるんだ」とか言い出したらどうしよう、とか思ったのは秘密。
「そっか……」
落胆したような声の彼女の表情は見えない。
しばらく無言が続いたあと、やがて意を決したように顔を上げた。
あ、あの瞳は知っている。毎日鏡で見ていた、恋する乙女の瞳だ。
「あの……私じゃ笹峰さんの代わりにはなれないかな? ……遠山くんが好きなの!」
告白だった。
すごいと思った。
自分の気持ちをまっすぐ伝えた彼女がすごいと思って……ひどく汚い感情が私の中でうずまいた。
「……ありがとう、でも、ごめん」
そんな私の葛藤をよそに、秋弘の静かな声が響く。
「さっきも言ったけど、別れたわけじゃないんだ。それに……」
こんな場面なのに、ひどく優しく感じる声で。
「小春の代わりはどこにもいないし、小春の代わりならおれはいらない」
じゃあね、と言ってその子のもとから去っていく秋弘の気配を感じながら、私はどうしようもなくもやもやして、そして、どうしようもなく嬉しくて仕方がなかった。
「あれ? 笹峰?」
放課後、一人での帰り道、唐突に声をかけられた。
秋弘と帰らなくなってからは月子と帰っていたけど、その月子も今日は歌のレッスンがあるということで、一緒には帰れない。
「あ、森川くん」
声をかけてきたのは日に焼けていて見るからにスポーツマンな元気タイプ、そしてあの試食の場面にもいた男の子、森川裕樹くん。もっとわかりやすく言うと、秋弘の親友。その縁で、それなりに話をする仲ではある。
「秋弘はっと……そっか、今は"旅行中"か」
「……秋弘、森川くんにはそんなところまで言ったんだ」
「うん、聞いた聞いた。腹抱えて笑い飛ばしてやったよ」
「ひ、ひどいけど、わかる……」
お互い顔を見合わせて笑いあう。
「しかしほんと、バカだよなぁ、お前ら」
その笑い顔のまま、森川くんの言葉に私は思わず固まってしまう。
「え?」
「バカップルって意味な。話聞いた時は呆れて開いた口がふさがらなかったぞ」
「……それ、月子にも言われた」
「はは、やっぱ白石さんも同意見だったか」
そこまで予想していたのか、森川くんはとっても楽しそうに笑う。
「ねぇそれどういう意味なの? 月子、全然教えてくれなくて……」
今は別れる別れないの瀬戸際に立っている状態なのに、バカップルって言って呆れられる理由がまったくわからない。そんな想いを率直に口にしたら、森川くんが驚きに目を見開いた。
「え? マジ? 笹峰もわかってないの? あー、そういや秋弘もわかってなかったな……」
あ、これ、呆れてる顔だ。森川くんも月子と一緒の顔してる。
「白石さんが言わないのもわかるよ。うんうん。だからおれも言わなーい」
「え、ちょっと……」
そのまま逃げるように駆け足で去っていく森川くん。
「じゃ、おれこの後用事あるから! 気をつけて帰ってね!」
「えー!」
結局答えは教えてもらえないまま、あっという間に逃げられてしまった。
「……バカップル、バカップル……うーん」
そんな森川くんのことは早々に頭から追い出し、何度考えても、今の状況を思うとバカップルという評にふさわしい部分が思いつかなかった。
「最近の小春、ほんとかわいらしいよね」
いつものお昼。唐突に月子がそんなことを言った。
「なんていうか、遠山くんと付き合いはじめてからどんどん可愛くなっていったけど、今はそれにも増して可愛くなってるわね」
「そうなの?」
「うん、そう」
自分ではまったく自覚はない。確かに秋弘と付き合うようになって、私はよく笑うようになった。雰囲気がやわらかくなったとも言われた。かわいい……は言われたことはないけど、自分でも変わっていった感覚はあった。
だけど、今この状況で自分がかわいくなってる、って言われたことには疑問を覚える。
「その……どこらへんが?」
「恋焦がれてるところが。愛しくて愛しくて仕方なくて、いまにもドバーってあふれてしまいそうで、それでいてとても切なそうなところとか……並の男子ならイチコロだと思うわよ」
「イチコロって古い……」
「そこはどうてもいいの!!」
はむっ、とお弁当のコロッケを放り込む月子。
「はー、私も恋したいなー!」
「月子、好きな人とかいないの?」
月子ははっきり言ってモテる。個人的には喋ると割りと残念な親友だけど、顔だけ見ればかなり美人だ。すらっとした体系だけど出るところはしっかりしていて女性の魅力という点では抜群の威力を誇っている。
おまけに彼女は、歌の勉強をしていて歌がうまい。その活動の一環として、とある大手動画投稿サイトではちょっと有名な"歌い手"だったりする。動画を見たこともあるけどその上手さは素人の私でもわかるくらいだし、何より生で月子の歌を聞くと、ストレートに心に響いてきて泣いてしまいそうになることもある。
「んー、いないね!」
そんな彼女は何度も告白されたりしているが、彼氏を作ったという話をまったく聞かない。
「今は歌ってるのが楽しいんだ」
にへら、と笑う月子は幸せそうだった。恋愛だけが全てじゃない。それを体言している月子のことを、私は尊敬している。
「でも、恋はしたいんだ?」
「そりゃね……あんたたちを見てると、そう思うわよ」
あ、また出た。月子の呆れ顔。
「あんたみたいに、かわいくなりたいなーって」
そういう月子の顔は心底うらやましそうで、それでいて呆れは隠してなくて、これは何も教えてくれないなと悟るには十分だった。
そうして一ヶ月は意外と短く過ぎた。
この一ヶ月の間に私はいろんな知らない世界を知って、まだ見ぬ自分を発見して、明るい感情も暗い感情も、いっぱいいっぱい見つけることが出来た。
秋弘と居たら見つけられなかったものばっかりだったと思う。それは新しい輝きに満ちたものばかりで、それでいて確かに私の一部だと思えるものばかりだった。
「秋弘は何か見つけることが出来たのかな……」
その呟きに答えを返すべき人物は、ここにはいなかった。
見慣れた私の部屋。制服を脱いで部屋着に着替えて、そのままベッドへダイブする。
今日も一人で帰ってきた。
一人でいるのは嫌いじゃない。誰にも気にせず、自分で自分のことを決められるから。
気を使わなくてすむから、疲れない。一番自然な自分でいれる。
なのに何故だろう。
こんなにもやるせない気分なのは。
こんなにも満たされない気分なのは。
「ああ、そうか」
本当はその答えなんて、とっくにわかっていたんだ。
「秋弘がいないからだ」
当たり前が当たり前じゃなくなったから。
そんなことに今更ようやく向き合えただなんて、いい加減私は鈍感すぎる。
秋弘の笑顔を思い浮かべる。
秋弘の声を再生する。
秋弘の手で撫でられた髪に触れる。
秋弘に抱きしめられたぬくもりを思い出す。
「私はバカだ」
たった一ヶ月、されど一ヶ月。
私が当たり前に感じていたことは、全部が全部特別だったんだ。特別な毎日がずっと続いていただけだったんだ。
「私はバカだ!」
あの日私がすべきことは、彼の意見に同意することでもなければ、聞き分けの良い彼女を演じることでもなく、泣いてでもすがりつくべきだったんだ。
泣いて泣いて喚いてすがりついて、離れないで、って捕まえておくことだったんだ。
でもそれはもう叶わない。
ならば、今から出来ることをするしかない。
「バカでもいい。みっともなくてもいい」
そろそろ"旅"は終わりにしよう。
「秋弘が……欲しい」
出来れば、同じ場所に帰ってこれることを願って。
雨が降った。
昨日の夜のニュースでは最近変わったばかりのお天気お姉さんが降水確率は10%と言っていた。たった全体の10分の1の確率だったにも関わらず、雨は降った。
通学路には色とりどりの傘が咲く。
まず秋弘に会おう。下駄箱で待ち伏せしよう。そして、放課後にしっかり話そう。
そう決めて私は校門をくぐる。
校舎へたどり着いて、傘をたたんだところで……
「小春!」
求めていた声が私の名前を呼んだ。
放課後の教室、誰もいない。
そこは喧騒とは無縁の世界で、私の時間だけが流れていく。
でもそれは無為に過ごす時間ではなく、いわゆる人待ちという有意義な時間。一ヶ月の時を経て、また彼と向き合う準備のための時間だと思っている。
ふと廊下に足音が響いた。
そっと静かに、読んでいた本を閉じる。
「小春」
ガラガラとドアを開けて入ってきたのは、私が待ち望んでいた男の子、遠山秋弘。
朝、下駄箱で私を呼び止めて、今日の放課後に時間が欲しい、教室で待っていてくれ、と言ってくれた男の子。
「秋弘」
本当は私から声をかけるつもりだった。そのために気合まで入れてきたのに、先手を打たれてしまった。別に勝負でもなんでもないのに、ちょっと悔しいのは何故か。
「小春」
近づいてくる。
「秋弘」
私も立ち上がる。
二人の距離が縮まる。
手と手が触れ合う距離になる。
「……」
「……」
そのまましばらく私は見つめ合った。
「……」
深く深く、自分の想いを伝えるかのように見つめ合って、そして。
お互いがお互い、同じ瞳をしていることに気付いた。
その瞬間。
「……!」
秋弘が思いっきり私を抱きしめた。
「小春!」
久しぶりの秋弘の体温はとってもあったかくて……
「好きだ」
秋弘の息遣いが妙に懐かしくて……
「好きだ!」
秋弘の声が本当に愛おしくて……
「大好きだ!!」
「うん」
そのまま彼の胸に顔をうずめた。
きっと私、泣いてる。涙がどうしようもなく流れてる。そんな私らしくなさを見せたくなくて、彼の胸の中に顔を押し付けてしまう。
「好きだ、好きなんだ。離したくないんだ。一緒にいたいんだ。ずっとそばに居て欲しいんだ。大好きなんだ。お前じゃなきゃダメなんだ。愛してるんだ!」
抱きしめながら、あらんかぎりの愛の言葉を紡いでくれる。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて、ただ嬉しくて、私は顔をあげることが出来ない。
「好きだ、小春……」
でも、私はまだ言葉を紡いでいない。その気持ちを声に出していない。だからだろうか、秋弘の声に不安が混じっているように聞こえるのは。
早く彼を安心させてあげたくて、涙でぐしゃぐしゃの顔をあげる勇気を決めた。
「……秋弘」
不安に揺れる瞳。きっとブサイクな自分の顔面のことなんて置いといて、こんなときなのに、かわいいって思ってしまった。
「好き」
じわりと言葉がしみこんでいく。
「好き、好き、好き、大好き」
私の中に。秋弘の中に。
「秋弘が隣にいることは、当たり前のことなんかじゃなかった。世界がときめくくらい、特別なことだったの。その特別がずっと続いてただけだったの。そんな簡単なことに、ようやく気付けたの……」
秋弘が私を抱き寄せる手に力を込めた。
「秋弘が好き。一緒に居たい。ずっと隣に居て欲しい。二度と離れたくない。抱きしめられたい。キスしてほしい。愛してるの!!」
言い切った瞬間、唇をふさがれた。
あたたかい、待ち望んだ彼の温度が伝わってくる。
それは今までしたことのないような、長い長いキスだった。
この一ヶ月の想いが駆け巡る。これまで付き合ってきた日々が思い浮かぶ。初めて出会ったときから重ねてきた思い出が音を立てながら再生される。
どれくらいそうしていただろうか。
先に根をあげたのは私のほうだった。
「……っく、ぷはぁ!」
無理やり顔を横に向けて、唇を引き離す。
思い出したかのように、酸素をかきこむ私。
「っもう!! 窒息しちゃうでしょ!!」
さすがに息が持たなかった。
「ごめん、つい……」
「もう、なんだか台無しだよぉ!」
さっきとは違う意味の涙目で軽く睨むと、本当に申し訳なさそうに落ち込む彼がいて。
「ぷっ……あはは……あはははは!」
こらえきれず笑っちゃった私がいて。
「はは、はははは!」
つられて秋弘まで笑い出す。
結局、お互いの笑いがおさまるまで、少しばかりの時間を要したのだった。
「おれはバカだったよ」
手を繋いで二人で歩く通学路。久しぶりの当たり前。
「気付いたら小春のことを探してた。なんで隣にいないんだ?って考えてた。実は他の女の子に告白もされた。なんでこの子は小春じゃないんだろうって……ちょっと失礼だけど、そんなことを考えてしまったりもした。小春が裕樹と話しているところを見て、ものすごい嫉妬と、言いようのない不安が襲ってきた」
吹っ切れたように穏やかに語る秋弘と、同じような顔で静かに聞き入る私。
「隣にいることが当たり前だった。当たり前だからこそ特別だったんだ」
一ヶ月前と同じような時間なのに、道路に延びる二人分の影はとても長い。
「小春は特別なことで、当たり前じゃなかった、ってさっき言ったけど、おれはそうじゃないって思ってる。当たり前のことなんだよ。でも、それが特別なことなんだよ」
「なんだか言葉遊びしてるみたい」
「そう言われればそうだな」
嬉しそうにはにかむ秋弘。今の私たちはきっとどんな会話をしていも嬉しいし、楽しいんだ。
「当たり前じゃなくて、特別なこと。でも、その特別なことが当たり前になってる。私たちは二人とも、その『特別であること』を見失ってしまってたんだね」
「そうだな。今更ながらようやく気付けたんだ」
もう私たちを不安にさせるものは何もない。
だって二人でまたここへ戻ってこれたのだから。
「辛かったし、苦しかったし、短かったようで、思った以上に長く感じた。そんな"旅"だったけど……」
「ちゃんと大事なものを見つけて、二人で同じ場所に帰ってこれた。これ以上ないほど良い"旅"だったね」
「小春が言った、未来のために必要なものだったって、今なら心から思える。もう二度とこんな経験したくないけどな……」
それについては激しく同意せざるをえない。
「ねぇ、秋弘」
「ん?」
もう二度と離さないと心に誓った愛しい彼を見上げて。
「私の『特別』になってくれてありがとう。そして私の『当たり前』になってくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
そして二人、静かに見つめ合って。
『これからも、よろしくね』
アスファルトに伸びる影はどこまでも長く長く寄り添っていて、やがてまたひとつになっていった。
翌日。
「月子、心配かけてごめんね!」
大事な親友にそう告げると。
「は? 心配? カケラもしてないから大丈夫。はいはい、お幸せにね……」
どうしようもない呆れ顔で、手をひらひらされたのはとってもとっても心外でした。
ふと頭に浮かんできて、数時間で書き上げた作品でした。ものすごく久しぶりに小説を書いたのですが、やはり難しいですね。よろしければ、感想お待ちしております。