舞い降りた羽
教会で、セオと天使が出会う。
教会では、毎朝と決められた日時だけ村人全員でお祈りをする習慣がある。
胸の前で両手を組み、なにを唱えるわけでもなく黙って神に感謝や願いを伝える。
食事の前でも、教会にまでは来なくとも皆それぞれの家で短く同じことをやる。
普段教会には誰も近づこうとしない。
用のない所へは行かないだけかもしれないが、理由はそれだけではない。
独特の空気に満ちているあの空間に入ると、村人の誰もが顔を強張らせる。
…身に迫る危険を感じるように。
それは僕も例外なく同じだけど、僕は教会にほぼ毎日好き好んで足を運んでいる。
教会の扉を開けると、中から外より冷たい空気が流れ出てきた。
持ってきたキャンパスや画材を長椅子の上に置き、正面にあるステンドグラスの美しさに目を細めた。
聖母と天使が描かれた、ガラスで出来ているとは考えられないこれを一目見た時から、僕は一日に一度は目にしなければ落ち着かなくなってしまった。
ニーヤもここのステンドグラスはとても好きだと言っていたけど、僕のように毎日ここへ行くのはどうかしているとも言っていた。
他の村人もニーヤと同意見だ。
ここの空気は神聖なものなので、天の者ではない自分達の体には毒だと考える村人も少数ではあるがいる。
次期村長に最も有力な候補とされている父を持っていると、周りからの目や家の立場などを知らないふりをするわけにはいかないだろう。
ニーヤは賢いから、そういった事をよくわかっている。
つまり、ここはお祈りの時間を除いたら僕が貸し切り。
家にはいつ人が訪ねてくるかわからないから、集中したい時にはもってこいの場所という訳だ。
絵は家に篭って描くことがほとんどだけど、今回は見られたら気まずくなる人を描くからここにこうして大荷物を抱えて来た。
その相手は昔から、僕の家にはたとえ鍵がかかけていようとも無理矢理入れさせようとするから気が気じゃないのだ。
本人が目の前に居るほうが描きやすい気もするけど…。
想像してみると、恥ずかしさと疲労感がどっと押し寄せてきた。
「ニーヤお嬢様の教育は誰がしたのやら…」
そうしてニーヤのことを考えながら画材を広げ、キャンパスと向き合ってから角度などを変えて何枚もニーヤを描いた。
思った通り、ニーヤが目の前に居なくても、僕は思い通りに彼女の姿を目を瞑らなくとも描ける。
ようやくニーヤが僕の目に最も美しく映る瞬間を見つけることができた時には、朝腹に詰め込んできたものが消化されきっていた。
昼を告げる腹の音に苦笑いしながら、籠に詰めてきた食料に手を伸ばした。
薄く切って干した肉と、クーシュという調味料をパンに乗せて思いっきり噛り付いてから、再びキャンパスと向き合う。
暫くしてからまた噛り付くと、小指が突然痛んだ。
「いッ…っ」
驚いて右手を見ると、指には薄く歯形が残っていた。
持っていたはずのパンは食べきられていて…いや、違う、足元に落ちていた。
描き出したら手が止まらなくなっていた、ということは植物や野生の動物を描いた時にもよくあった。
しかし、手に持っていたものを落としたことに気づかなかったのは初めてだ。
描き慣れていないものを描くのは、予想以上に神経を削られて他に意識を向ける余裕がなくなるらしい。
噛んでしまった指には特に異常はない。
拾い上げたパンを口に放り込んで咀嚼して飲み込み、再び筆を動かしていく。
窓から入ってきた日の光が手元を照らす。
その光が奥にあるステンドグラスを光らせるのが視界の端に映り、僕は手を止めてそちらを見た。
眩しさに目を細めキャンパスに視線を戻そうとした瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
驚いて風が吹いてきた方を見る。
ステンドグラスは変わらず煌めき、床を薄く色付けている。
…開いている窓は一つもない。
あったとしても、窓は元からそちら側には付いていない。
気のせいかと思い視線を戻そうとすると、少し離れた長椅子に誰かが座っていることに気づいた。
ついさっきまで誰もいなかったのに、いつの間に入ってきたのか。
自然に考えれば風が吹いた時だ。
でも、それではおかしい。
扉も窓もない場所から、どうやって人が入れるのだろう。
そんなことは、あのニーヤにだって不可能だ。
僕より先に彼がいたと考えると、どこを見ても目につかなかった彼はずっと隠れていたことになる。
それなら、僕が居なくなるまで隠れているのではないだろうか。
瞬きをしてもう一度、今度はしっかりと彼を見て、僕は思わず声を上げそうになった。
明らかに村人ではない、僕と歳は同じくらいに見える男子が、ステンドグラスをぼぅっと見つめていた。
着ている服とにたようなものは見たことがある。
今彼が見ているものの中でだ。
服だけでなく、美しさと身に纏う独特の雰囲気や輝きまで、性別以外はガラスの天使と似ている。
見間違えでなければ、背に生えている純白が特に。
天使と呼ばなくては、彼の存在に今名を付けることは難しい。
声をかけるのが恐ろしくて暫く見つめた後、視線だけはキャンパスに向けた状態で声を絞り出した。
「ぁ、の…」
上擦った声が震えている。
興味のないふりは長くは続かず、見ずにはいられなくなり顔を上げて天使をみた。
やっとのことで声をかけたのに、目の前の天使は動こうとせず、視線さえ合わせてはくれない。
ただずっと、日の光をぼんやりと、見えているのかわからない瞳で見つめている。
そっと近づいていっても、天使の様子は変わらない。
(人形…?)
とすると、誰かが衛兵に頼んで持ってこさせたとも考えられる。
これ程までに美しい物を作れる職人がいるとは聞いたことがないけど、もしかしたら異国からの寄贈品を分け与えられた中の一部なのかもしれない。
考え込んで天使から視線をそらした瞬間、また風が吹いた。
初めより、もっと近くからだ。
とっさに瞑った目をゆっくりと開けると、視界に天使はいなくなっていた。
「え?さっきまでは確かにそこに…」
あたりを見回すと、今度はすぐ僕の目につく場所に天使は座っていた。
僕がいた席に座り、キャンパスをじっと見つめている。
(動いた?…この一瞬で?)
ついていかない頭の中を整理して理解しようとしてみたけど、どうやらそれは無理らしい。
平和ボケしている僕の脳には刺激が強すぎる。
結局見つめることしかでずに立ち竦む僕に、天使はそっと視線を合わせて微笑んでみせた。
その瞬間に、僕は生まれて初めて他人に自分の全てを支配される感覚を覚えた。
喉が締め上げられているようになって空気を上手く取り込めない。
口の中が乾く。
苦しい。心臓が痛い。
生まれて初めてだと思っていたのに、これら全ての感覚がとても懐かしく思えた。
「こんばんは。君、僕のこと見えるの?」
歌うように言葉を紡ぐ天使の声は中性的で、透き通るようで、やはりどこか人間離れしている。
僕は天使に触れて、抱きしめたくなる衝動に駆られた。
しかしそれを行動に移す前に、駆け寄ってきた天使に僕は抱きしめられた。
視界が滲んでいるせいでよくわからない。
目の前の天使の体温だけを感じる、静かな時間だった。
「どうして泣いているんだい?」
天使からの問いに、僕はただ首を振った。