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Innocent Love  作者: 夏瀬紀咲
一章
3/6

ニーヤ

セオの服は元は白の無地だったが、今は全体的に薄汚れてもとの色味は見る影もない。

所々についている色とりどりの絵の具も彼にとってはただの汚れだったが、そのお陰で見るようによってはなかなかいい味を出していた。


「やっぱりこの絵の具は紙じゃないと無理だな…」


絵を描くための媒体をセオは、売る用に描く石を薄く切って作られたキャンパスと、思い浮かんだものを書き留めておく紙で使い分けている。

最近は水で少し薄めるだけで紙に描ける絵の具が出回るようになり、商人から特別にもらったそれを使いこなすためにキャンパスに向き合う時間が長くなった。

まだ出まわる数も少ないけれど、画材が改良されたお陰で前より作業が断然楽だ。


朝起きて水汲みをして畑の世話をし、絵を描くための時間は太陽が色を変えてからと彼の中で決まっている。

けれど、最近は絵を描く事ばかり考えてしまって、筆を握らないと落ち着かないほどだ。


「ついに作物にまで絵を描く気になったのかしら?」


左手に握り締めていた絵筆に水を含ませて葉をなぞっていると、ニーヤが3歳くらいの男の子と一緒に家の窓から不思議そうにこちらを見てきていた。

ニーヤには兄弟がいないから、そこら辺の家の人に預けられたのだろう。

村ではそうゆう事はよくあるから、村全体が一つの家族になっているように感じる。

特にニーヤの家は村ではかなり影響力のある家で、皆から信頼されているせいかこうして頼られることが多い。

セオが軽く男の子に挨拶をすると、親指をくちに咥えてニーヤの後ろへ隠れられた。


「この子、慣れるまで少し時間がかかるみたいなの。」


困った様に肩をすくめてみせるけど、唯一気を許されているのが自分だと思えて彼女の顔は少し嬉しそうに見える。

男の子は怯えたように小さい体を更に小さくしながら、ニーヤの後から右目だけでセオの左手をジッと見つめていた。

きっと、気になるのはセオの手よりも握られている物だ。


「絵筆だよ。触ってみる?」


ビクリと肩が跳ねてサッと身を隠されてしまったけど、ニーヤが手渡すと彼女の足の間からチラリと覗き見してからそっと筆に触れた。

すると、筆に僅かに付着していた青い絵の具を含ませた水滴が溶かして水色の水滴となって男の子の指に落ちた。

アッと声を上げて筆を落としかけた男の子の手に、セオは優しく触れて紙にそのまま筆を滑らせた。

そのまま青い鳥を描いてみせると、男の子は顔を上げて初めて笑顔を見せた。

村で絵を描くのはセオだけなので、画材を見るのも絵筆に触るのも初めてなのだ。

セオもそれらを初めて見たときは魔法だと思い込んで心が弾んだのを思い出した。

様子を見ていたニーヤは満足そうに微笑むと、肩が触れ合うほど近くに寄ってきた。


「絵筆が新しくなったから、嬉しくて四六時中握っている。そんな所かしら?」


「絵筆だけじゃないよ。絵の具もキャンパスも…画材全てが劇的に変わったんだ!お陰で一日中僕の頭の中は絵の事ばかり…」


セオが興奮気味にニーヤに説明すると、鼻で笑われて途中で遮られた。


「あら、私と話す時と野菜の世話をする時以外は貴方の頭の中は前からそうだったわ。」


「ははっ、そうだったかもしれない。」


「隣りにいたのに、声をかけるまで気づかれなかったのは初めてだったけど。」


視線を逸らされ、くっついていた肩は離された。

金色の長い髪が音を立てて彼女の体を滑る。

それを指でそっと撫でると、ニーヤは額を膝に付けて丸くなってしまった。


「怒っているの?」


「…違うわ。」


男の子が不思議そうに僕らを交互に見る。

セオは苦笑いを浮かべ、心配いらないさとウインクをした。

両親がいないセオがニーヤと話しても育ちが目立たないのは、彼女が自宅から持ってきた本を昔から僕に読み聞かせて、上流気取りの言葉を覚えさせてくれたからだ。

セオは横に居る丸虫の頭を撫でながら歌うように囁いた。


「ごめんよ、わざとではないんだ。」


「…わかってるわ。」


そっと顔を上げると、ニーヤはセオの額に自分の額をくっつけた。

仲直りの儀式のようなものだ。

両頬を交互にくっつけ合うのが最も多く行われるものだが、仲直りの時はこうと決まっている。

制度ではないが、村では子供同士の決まりごとのようなものだ。

夫婦なら大抵この後は唇を触れ合わせるのだけど、その代わりに鼻頭を触れ合わせて終わり。

これだけはセオとニーヤだけの儀式の終え方だ。

儀式自体は気恥ずかしい事ではない。

鼻を付け合わせて離すと、ニーヤは閉じていた瞳を開いて満面の笑みを向けた。

…セオにとって問題なのは、この後。


(あぁ、まただ…)


動機がおさまらなくなるのだ。

痛いわけではないけど、苦しい、締め付けられるような感覚に似ている。

初めて協会の壁画を見た時と同じ。

壁画の天使達とは似ても似つかないはずなのに、彼女を見ると同じ感覚がするのだ。

今この瞬間を一枚の絵として残せたら、眺めてじっくり考える時間がとれるのに…そう思い見つめると、彼女はツンと視線を反らして腕を組んでみせた。


「何を見てるのよ。」


「何って、目の前の君以外見ていないよ?空でも見ているふうに見えるかい?」


「えぇ、そう見えたわ。」


彼女は吐き捨てるように早口で言うと、男の子が持っていた筆をセオに返した。

しばらく視線を外してしまっていたそちらを見ると、筆を離した手は花弁を引き千切る残酷な手に変わっていて、傷つけられたのではと慌てて筆を確認したけど何ともなかった。

ニーヤも心配そうに眺めていたが、すぐにホッと息を吐いてまたセオに視線を向けた。


「ねぇ、私を描いてはくれないの?」


部屋全体に視線を動かしてから、もう一度セオを見る。

ニーヤだけではなく、セオの家にあるキャンパスには人物は一枚しか描かれていない。

それはニーヤの横に居る子と同じ歳くらいの男の子と、男性と女性の絵だ。

描いた記憶はあるけど、誰を描いたのかまでは思い出せない。

植物や空を描いた他のキャンパスは、見ればその時の感情まで思い出せるのに、だ。

最も古いあの絵は見ても何も思い出せない。

だから不気味に思えて、部屋の隅に隠すように置いてある。

セオはそれを見つけて以来、人物を描くのは避けてきた。

それはニーヤも知っている。


「私の事なら忘れないでしょう?だから、いつ見ても怖くなんてならないわ。」


ニーヤは椅子に座っているセオの上に被さり、正面からしっかりと緑色の瞳で彼を捉える。

獲物を狙う動物のように見えなくもないが、いつになく必死に迫ってくる彼女には何か訳があるのだろう。

セオはしばらくニーヤを見つめた後、ゆっくりと頷いて彼女に微笑んだ。


喜びのあまり抱きついてきたニーヤを受け止めきれなくて、セオの体はそのまま地面に倒れ込んだ。

男の子は蝶を追い回しながら楽しそうに笑い声を上げている。

僕らも顔を見合わせて笑った。


けれど、何故か胸が妙にざわついていた。


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