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Samsara~愛の輪廻~Ⅲ  作者: 二条順子
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08.ケープ・コッドの紅葉

十月になるとアメリカ北東部の紅葉が始まる。

その美しさとスケールの大きさで有名な “ニューイングランドの紅葉” は、

マサチューセッツ、バーモント、ニューハンプシャーなど各州を北上し十一月

中旬あたりまで楽しむことができる。



「今度の週末、小旅行することにしたよ」

十月の第二月曜日はコロンブスデイの祝日で三連休になる。

「どこへ?」

「近場だけどケープまで。実は、もういい宿を取ってあるんだ」

「ほんとに? ケープ・コッド、一度行ってみたかったの」

めぐみは声を弾ませた。

ケープ・コッドは、ボストン市内から車で一時間、大西洋に突き出た釣り針状の

半島である。白い砂浜、美しい海岸線などボスト二アンたちの避暑地として人気のスポットで、夏休みには宿泊、日帰りの海水浴を楽しむ大勢の家族連れや若者

たちで賑わう。


「うわぁ、きれい!」

橋の下を流れる水の青さと鮮やかに紅葉した木々の美しいコントラストに、

めぐみは少女のような歓声を上げた。

運河にかかるこのサガモア・ブリッジを渡るとケープ・コッドに入る。

夏の週末はこの橋のあたりからひどい渋滞になるが、今の時期は連休初日とはいえ

車もスムーズに流れている。市内に入るとニューイングランド地方特有の美しい

白い家並みが続く。古い町並みを保存するための建築規制があり、銀行や郵便局、

商店などの建物もしっくりと街の風景に溶け込んでいる。


「ここだよ」

健介はコロニアルスタイルの大きな一軒の家の前で車を停めた。

『リズの家』と書かれた小さな看板に気づかなければ普通の民家と見間違える

ような宿だった。


「ようこそ、リズの家へ!」

上品な初老の婦人が笑顔で健介たちを迎えてくれた。

この宿のオーナー、エリザベス・バーミンガハムは夫の死後、住まいだった

この豪邸をあまり手を加えずほとんどそのままの状態で民宿(ベッド・アンド・

ブレックファースト)にした。一日三組限定の宿は、家庭的な雰囲気と彼女の

人柄で人気がある。病院の同僚からこの宿のことを聞いた健介は、ぜひ一度

めぐみと訪れてみたくなった。


「凄いわねぇ」

邸内を案内されためぐみは健介の耳元で囁いた。

玄関のドアを開けるとすぐ、シッティングルームと呼ばれる家の客人を招き

入れるための小さな部屋がある。今はそこにデスクが置かれ宿のゲストを迎える

レセプションとして使われている。

二階にはそれぞれバスルーム付きのゲストルームと、ゲストが自由にのんびりと

読書やお茶を楽しめるようにと、ライブラリー兼ファミリールームがある。

一階には大きなリビングルームとダイニングルームがあり、窓の外には青々と

した芝生とイングリッシュガーデンが広がっている。所々に白いベンチや椅子、

テーブルが設置され、屋外で朝食やアフタヌーンティーをゆったりと楽しむことが

できる。


「どう、気に入ってもらえたかしら?」

「ええ、もちろん。とっても素敵なお家ですね」

お世辞ではなくめぐみは心からそう思った。

「親戚の家にでも遊びに来たつもりでのんびりとくつろいで下さいな」

「ありがとう、そうさせていただきます」

英国生まれのリズのクィーズ・イングリッシュのアクセントが、アメリカ英語に

慣らされた耳に心地よく響いた。健介もこの宿を選んで良かったと思った。


二人は夕食までの時間を利用して周辺を散策した。

リズの家から歩いて二十分ほどのところにケープ・コッドの海が広がる。

ついこの間まで大勢の海水浴客で賑わっていたことが嘘のように、どこまでも

続く白い砂浜には人の姿も疎らで、秋の浜辺はひっそりと静まりかえっている。


「きれいだなあー。 小さい頃よく湘南の海に行ったな…」

水平線の向こうに沈んでいく夕日を見ながら健介は独り言のように呟いた。

「秋の海も素敵ね」

めぐみもうっとり静かな海をみつめている。


真夏の喧騒と冬の極寒の中間にある秋の海の静寂は、なぜか人の心を癒して

くれる。肩を寄せ合い砂浜に座る二人は穏やかな海原をじっと眺めていた。



* * * * * * * 



夕食後、二人は広いリビングで他のゲストたちとの会話を楽しんだ。

初老のカップルはここの常連らしく、毎年紅葉の季節になるとケープ・コッドを訪ずれ『リズの家』で週末を過ごしているという。


「秋のケープは最高だね。夏は人が多すぎて、どうも遺憾」

「でも、夏は若者が多くて活気があって、それはそれでいいものよ」

「リタ、おまえさんは何でいつもわしの言うことに逆らうのかね…」

夫のジャックは妻の顔をじろりと睨んだ。

「まあまあ、二人とも相変わらずね。メグとケンはこうなっちゃダメよ」

リズがホームメイドのデザートと淹れたての珈琲をワゴンにのせ運んできた。

「おっ、待ってました。リズ特製のピーカンパイのお出ましだ!」

「そうそう、これを食べなきゃ、秋になった気がしないわ」

「あら、やっと二人の意見が合ったわね。このパイを夫婦円満のパイとでも

名づけましょうかね。さあさあ、あなたたちお二人も、コーヒーが冷めない

うちに召し上がれ」

「じゃ、いただきます」

長年連れ添った熟年夫婦の微笑ましい光景を見ながら、二人は食後のひと時を

楽しんだ。


「ところでリズ、あの曲を弾きこなせるゲストは未だに現れないのかね?」

ジャックは二切れ目のパイを口に運びながら窓際のピアノに目を遣った。

「いいえ、まだ誰も。難しすぎるのね、きっと…」

リズは悲しげな表情を見せた。

「このピアノはどなたが弾かれるのですか?」

昼間はじめてリビングルームに案内された時から、めぐみはこのグランド

ピアノのことが気になっていた。

「ここにあるピアノはこの家のゲストのための物なのよ……」

リズに代わってリタがピアノの由来を説明してくれた。


ピアノは二十年前に事故で亡くなったリズの娘が愛用していたものらしい。

彼女は当時、ボストンにあるクラシックの名門ニューイングランド音楽

アカデミーでピアノを専攻していた。才能に恵まれ将来を期待されていたが、

突然二十二歳の若さでこの世を去った。

リズは民宿を始めた当初から、娘の形見のピアノをゲストに解放している。

いつの日か、彼女がいつも弾いていた “あの曲” を演奏してくれる

ゲストが現れることを願いながら。だが、十年経ってもこのピアノから

その曲が流れることはなかった。


「いったい、どんな曲なんですか?」

クラシック音楽のことは良く分からないが、健介はその曲に興味がわいた。

「これなのよ」

リズから手渡された楽譜はおたまじゃくしがうごめいている様で彼にはちんぷんかんぷんだった。


「ラ・カンパネラ…」

楽譜を手に取っためぐみがぽつりと呟いた。

「メグ、まさか知ってるの?」

「ええ、 ‘ラ・カンパネラ’ イタリア語で鐘という意味で、元々は

パガニーニがバイオリン用に作った曲なんだけど、それをリストがピアノ

独奏用に編曲したものなの」

めぐみの詳しい解説に健介をはじめ一同は驚きの表情を見せた。

「弾けるの?」

「たぶん…」

トリニティー・チャーチでパイプオルガンの演奏を聴いていると、自然に指が

動く不思議な体験を何度かしていた。

「メグ、ぜひ弾いてみてくれない?」

リズは瞳を輝かせた。


めぐみはピアノの前に座ると、呼吸を整えるように小さな深呼吸を一つした。

白魚のような綺麗な指が鍵盤の上を軽やかに舞いはじめると、ピアノは

まるで本物の鐘のような音色を醸し出した。

めぐみはほとんど楽譜を見ずに目を瞑ったままピアノを弾いている。

感極まったようにリズの目からはらはらと涙が零れ落ちた。

五分間の演奏が終わった後も皆は余韻を味わうようにじっとしたままで、

部屋の中はしーんと静まり返っていた。


「ブラボー!」

いつの間にかリビングルームに入って来た中年の男が、その沈黙を破るように

大きな歓声を上げめぐみに拍手を送った。

「アレックス、あなたも聴いたでしょ! まるでアイリーンが戻ってきた

ようだわ」

リズが興奮冷めやらぬ様子で男に話しかけると、彼も大きく頷いた。

「お嬢さん、君は素晴らしいピアニストだ。この曲をここまで弾きこなせる

なんて、いったいどこでピアノを?」

「……」

「日本で、彼女は日本でピアノを習っていました」

咄嗟に言葉の出てこないめぐみに代わって健介が応えた。


クラシックの趣味のない健介でさえ、今、目の前で聴いためぐみのピアノに

身体が震えるような感動を覚えた。



* * * * * * * 



アレックス・ジョンソンはリズの娘、アイリーンの婚約者だった。

二人はニューイングランド音楽アカデミーで出逢い恋に落ちた。

アレックスは才能あるバイオリニストで、一時はボストン・シンフォニーの

コンサートマスターまで務めたこともある。今は現役を退き、子供たちに

バイオリンを教えたり、ボランティアで演奏活動をしている。

フィアンセの死後もずっと独身を通し、今でも週末にはバイオリンを抱え、

ボストン近郊の自宅からリズの家へやって来る。


アレックスはケースの中からバイオリンを取り出した。

彼のストラディバリウスから情感豊かな美しい音色が流れはじめた。

その感傷的な旋律は心に深く沁み入り、めぐみの頬に涙が伝わる・・・

曲が一変し躍動感溢れる明るく軽やかなメロディーになると、アレックスは

「さあ」と言うようにめぐみを促した。彼女はピアノに向かいアレックスに

合わせて再び鍵盤を弾じきはじめた。


「ありがとう、お嬢さん」

演奏が終わるとアレックスはめぐみに握手を求め、その手にそっとキスをした。

彼の青い瞳が潤んでいる。


「素敵な演奏だったわ。すっかり感動しちゃった、ねえ、あなた?」

「ああ、素晴らしかったよ。何という曲なのかね?」

ジャックは答えを求めるようにめぐみの顔を伺った。


「クライスラーがピアノとバイオリンのために作曲した『愛の悲しみ』と

『愛の喜び』という二曲です。コンサートのアンコールなどで、よく対になって

演奏されます」

めぐみの説明にアレックスはにっこりと頷いている。


「ところで、メグはどっちが好き?」

「私は ‘喜び’ のほうが好き」

健介の問いかけにめぐみは迷うことなく即答した。

「そう言えば、アイリーンもそうだったな…」

アレックスは想いを馳せるように宙を仰いだ。


めぐみはふと、遠い昔、今夜のように誰かとこの曲を演奏したような気がした。

















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